新しい出会いに踏み出せない──美化された記憶が私を縛る理由

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コラム



忘れられない記憶の正体


カウンセリングルームに入ってきた彼女は、少し疲れた表情をしていた。ソファに座ると、小さくため息をつく。

クライエント「ダイキさん、正直に言うと...もう自分が嫌になってるんです」

ダイキ「嫌になってる、ですか」

クライエント「はい。別れてもう1年以上経つのに、まだ元彼のこと考えちゃって。友達からも『いい加減次行きなよ』って言われるし、自分でもそう思ってるんですけど...」

彼女は言葉を濁した。

ダイキ「でも?」

クライエント「でも、新しい人と会っても、どこか物足りなく感じちゃうんです。『あの人ならこうだったのに』って。頭では分かってるんですよ、元彼との関係が良かったわけじゃないって」

そう言いながら、彼女は膝の上で手を組んだ。

ダイキ「良かったわけじゃなかった?」

クライエント「......はい。実際、付き合ってるときはケンカばかりでした。彼、仕事優先で私のこと後回しにするし、約束も平気でドタキャンするし。デートの待ち合わせに1時間遅れてきたこともあったんです、謝りもせずに」

ダイキ「それは辛かったですね」

クライエント「そうなんです。だから別れたときは『もう二度と会いたくない』って思ったんですよ。でも...時間が経つにつれて、なぜか彼のいいところばかり思い出すようになって」

彼女の目に涙が浮かんでいた。

ダイキ「いいところ、というと?」

クライエント「楽しかったデートとか、優しくしてくれた瞬間とか。あと、彼の笑顔とか。なんか、今思い出すと全部がキラキラして見えるんです。おかしいですよね?」

ダイキ「おかしくはないと思いますよ」

クライエント「え...?」

ダイキ「今、『全部がキラキラして見える』っておっしゃいましたよね。実は、それって脳の仕組みと深く関係しているんです」

クライエント「脳の...仕組み、ですか?」

報酬への期待──ドーパミンの罠


ダイキ「はい。私たちの脳は、恋愛をしているとき、ドーパミンという物質を分泌します。これは『報酬への期待』を生み出す物質なんです」

クライエント「報酬への期待...?」

ダイキ「そうです。例えば、元彼から連絡が来たとき、どんな気持ちでしたか?」

クライエント「......ドキドキしました。何が書いてあるんだろうって、すごくワクワクして」

ダイキ「そのワクワク感、それがドーパミンです。ドーパミンは『何かいいことがあるかもしれない』という期待感を生み出すんですね」

クライエント「でも、実際にメッセージ開いたら、たいてい『今日忙しいから会えない』とか、そういう内容だったんですけど...」

ダイキ「それでも、次にまた連絡が来たら、やっぱりドキドキしませんでしたか?」

彼女は少し考えてから、うなずいた。

クライエント「......しました。なんでだろう、『今度こそ』って思っちゃうんですよね」

ダイキ「そこなんです。ドーパミンは、実際に報酬を得たときよりも、『報酬を期待しているとき』に強く分泌されます」

クライエント「え、そうなんですか?」

ダイキ「はい。しかも、確実に得られる報酬よりも、『もしかしたら得られるかもしれない』という不確実な報酬の方が、脳は興奮するんです」

クライエント「......それって、パチンコとか、ギャンブルみたいな感じですか?」

ダイキ「まさにそうです。元彼さんは、約束を守らなかったり、優しくしたり冷たくしたり、不安定だったんですよね」

クライエント「はい...すごく不安定でした」

ダイキ「その不安定さが、実は脳にとってはすごく刺激的だったんです。『今度こそ優しくしてくれるかも』『今度こそちゃんと会えるかも』という期待が、ドーパミンを分泌させ続けていた」

クライエント「......」

彼女は黙って、自分の手を見つめていた。

ダイキ「そして、たまに期待通りのことが起きると──例えば、彼が優しくしてくれたとき──その喜びは何倍にも感じられる。だから、その記憶だけが強く残るんです」

クライエント「だから、私の頭の中では、彼の優しかった瞬間ばかりが輝いて見えるんですね...」

記憶の選択的な保存


ダイキ「もうひとつ、脳には『記憶を選択的に保存する』という特徴もあります」

クライエント「選択的に?」

ダイキ「はい。人間の脳は、すべての出来事を平等に記憶するわけではなくて、感情が動いた瞬間を特に強く記憶するんです」

クライエント「感情が動いた瞬間...」

ダイキ「例えば、元彼との日常的なやり取りって、覚えてますか? 普通のメッセージのやり取りとか」

クライエント「......ほとんど覚えてないです」

ダイキ「でも、特別なデートとか、すごく嬉しかった瞬間は?」

クライエント「それは覚えてます。海に行ったときとか、誕生日に花束もらったときとか」

ダイキ「そういう『感情が大きく動いた瞬間』は、脳がしっかり記憶するんです。逆に、日常の小さな不満やストレスは、時間とともに薄れていく」

クライエント「だから、時間が経つと、いいことばかり思い出すようになるんですね」

ダイキ「そうです。しかも、人間の脳はネガティブな記憶を避けようとする傾向もあります。辛い記憶を思い出すのは苦しいですから」

クライエント「......でも、付き合ってるときは、本当に辛かったんです。毎日のように不安で、泣いてた日もあったのに」

彼女の声が震えた。

ダイキ「その辛さは、今も覚えていますか?」

クライエント「......頭では覚えてるんですけど、なんだか実感がないんです。『そんなに辛かったっけ?』って思っちゃう」

ダイキ「それが、記憶の選択的な保存なんです。脳は、自分を守るために、辛い記憶を薄めようとする。でも、その代わりに、いい記憶だけが残って、元彼を美化してしまう」

クライエント「......私、騙されてたんですね。自分の脳に」

 報酬の期待と実際のギャップ


ダイキ「『騙されてた』というよりも、脳が生き延びるために作った仕組みなんです。でも、その仕組みが、今のあなたを苦しめてしまっている」

クライエント「どうしたら、この仕組みから抜け出せるんでしょうか」

ダイキ「まず、大事なのは『期待していたこと』と『実際に得られたこと』のギャップに気づくことです」

クライエント「ギャップ...」

ダイキ「さっき、元彼からの連絡にワクワクしたって話がありましたよね。そのとき、何を期待していましたか?」

クライエント「......会えるかもしれない、とか。優しい言葉をかけてくれるかもしれない、とか」

ダイキ「で、実際には?」

クライエント「......会えなかったり、そっけない返事だったり」

ダイキ「そのギャップ、どんな気持ちでしたか?」

クライエント「......すごく、がっかりしました。でも、次はきっと違うって思っちゃうんです」

ダイキ「それが、ドーパミンの罠なんです。期待が裏切られても、また期待してしまう」

クライエント「......」

ダイキ「でも、今、こうやって振り返ってみると、どうですか? 実際に満足できたことって、どれくらいありましたか?」

彼女は長い沈黙の後、小さく答えた。

クライエント「......ほとんど、なかったかもしれません」

ダイキ「その事実を、ちゃんと受け止めることが大事なんです」

気づきの瞬間


クライエント「でも、ダイキさん。頭では分かっても、心が追いつかないんです。新しい人と会っても、『この人は元彼ほど刺激的じゃない』って思っちゃって」

ダイキ「刺激的、というのは?」

クライエント「なんか...ドキドキしないんです。安定してて、優しいんですけど」

ダイキ「それは、ドーパミンが少ないからかもしれませんね」

クライエント「え?」

ダイキ「元彼は不安定で、だからこそドーパミンがたくさん分泌されていた。でも、安定した人との関係は、ドーパミンではなく、別のホルモンが関係してくるんです」

クライエント「別のホルモン?」

ダイキ「セロトニンとか、オキシトシンとか。これらは、ドーパミンのような強い刺激はないけれど、本当の意味で気分を安定させて、幸せな気持ちにさせてくれるホルモンなんです」

クライエント「......ドーパミンとは違うんですね」

ダイキ「はい。ドーパミンは『興奮』ですが、セロトニンやオキシトシンは『安心』です」

クライエント「安心...」

ダイキ「元彼といて、安心できましたか?」

彼女は首を横に振った。

クライエント「......いつも不安でした。次いつ会えるのか、私のこと本当に好きなのか、ずっと考えてました」

ダイキ「その不安が、ドーパミンを分泌させていたんです。でも、それは本当の幸せではなかったんじゃないですか?」

クライエント「......」

彼女の目から、涙がひとすじ流れた。

クライエント「......私、ずっと幸せになりたかったのに、刺激ばかり追いかけてたのかもしれません」

ダイキ「そのことに気づけたこと、すごく大きな一歩だと思いますよ」

現実を見つめ直す


ダイキ「ひとつ、試してみてほしいことがあるんです」

クライエント「何ですか?」

ダイキ「元彼との記憶を、できるだけ具体的に思い出してみてください。いい思い出だけじゃなくて、全体を」

クライエント「全体...ですか」

ダイキ「はい。例えば、楽しかったデートの後、どうなりましたか? すぐに連絡は来ましたか?」

クライエント「......来なかったです。1週間くらい音沙汰なしで、私からまた連絡しました」

ダイキ「そのとき、どんな気持ちでしたか?」

クライエント「......不安で、寂しくて。『私、何か悪いことしたかな』って、ずっと考えてました」

ダイキ「誕生日の花束は?」

クライエント「......嬉しかったけど、その後のデートは30分で切り上げられました。『仕事があるから』って」

彼女の声が震えた。

クライエント「......なんで、こんなに大事なことを忘れてたんだろう」

ダイキ「忘れてたんじゃなくて、脳が思い出さないようにしてたんです。辛いから」

クライエント「......でも、本当はずっと辛かったんですよね。付き合ってるとき、ずっと」

ダイキ「そうだったんですね」

クライエント「......今、思い出すと、胸が苦しくなります」

ダイキ「その苦しさが、本当のあなたの気持ちなんじゃないですか?」

彼女は大きく息を吸って、ゆっくりと吐いた。

クライエント「......はい。本当は、ずっと苦しかったんです」

報酬の期待を手放す


ダイキ「もうひとつ、試してみてほしいことがあります」

クライエント「はい」

ダイキ「元彼のことを思い出したとき、『もし今、会えたら』って想像してみてください」

クライエント「......」

ダイキ「彼と会って、何を期待しますか?」

クライエント「......ちゃんと話してくれること、かな。私の話を聞いてくれること」

ダイキ「でも、実際には?」

クライエント「......きっと、聞いてくれないと思います。『忙しいから』って、すぐに帰っちゃうかもしれない」

ダイキ「そのとき、どんな気持ちになると思いますか?」

クライエント「......がっかりして、また一人で泣くと思います」

彼女は自分の言葉に、ハッとした表情を見せた。

クライエント「......私、また同じことを繰り返そうとしてたんですね」

ダイキ「期待して、裏切られて、でもまた期待してしまう。その繰り返しだったんですね」

クライエント「はい...」

ダイキ「その期待を、手放すことはできそうですか?」

クライエント「......怖いです。手放したら、もう彼との思い出が何も残らない気がして」

ダイキ「思い出は残りますよ。ただ、『もしかしたら』という期待を手放すだけです」

クライエント「......」

ダイキ「『もしかしたら、今度は違うかもしれない』『もしかしたら、彼は変わったかもしれない』。その『もしかしたら』が、あなたを縛ってるんじゃないですか?」

クライエント「......そうかもしれません」

彼女は目を閉じて、深く呼吸をした。

クライエント「......手放します。その『もしかしたら』、手放してみます」

本当の安心を求めて


ダイキ「新しい人との出会いで、『刺激的じゃない』と感じたとき、それは悪いことじゃないかもしれませんよ」

クライエント「......そうなんですか?」

ダイキ「刺激がないということは、不安がないということでもあります」

クライエント「不安がない...」

ダイキ「元彼といたときのドキドキは、実は不安からくるものだったんじゃないですか?」

クライエント「......そうかもしれません。『次いつ会えるんだろう』『また冷たくされるかも』って、いつも不安でした」

ダイキ「その不安がないということは、安心できるということです」

クライエント「安心...」

ダイキ「安心は、ドーパミンの興奮とは違います。でも、本当に心が満たされるのは、刺激じゃなくて安心なんです」

クライエント「......私、ずっと刺激を求めてたのかもしれません。刺激がないと、愛されてないって思っちゃって」

ダイキ「それは、元彼との関係で学んでしまったパターンかもしれませんね」

クライエント「パターン...」

ダイキ「不安定だからこそドキドキする、だからそれが『愛』だと思い込んでしまう。でも、本当の愛は、もっと静かで、安定したものかもしれません」

彼女はゆっくりとうなずいた。

クライエント「......そうですよね。安定してることって、悪いことじゃないですよね」

ダイキ「むしろ、とても大切なことだと思います」

一歩を踏み出すために


クライエント「でも、ダイキさん。どうしたら、この美化された記憶から本当に抜け出せるんでしょうか」

ダイキ「今日、ここで話したことを、忘れそうになったら思い出してください」

クライエント「はい」

ダイキ「元彼のことを『キラキラした記憶』として思い出したとき、その裏にあった不安や辛さも、一緒に思い出してください」

クライエント「......はい」

ダイキ「そして、新しい人と会ったとき、『刺激的じゃない』と感じたら、『これは不安がないということだ』と自分に言い聞かせてみてください」

クライエント「......やってみます」

ダイキ「それから、元彼のことを考えたくなったら、こう自問してみてください。『私は期待を求めてるの? それとも、本当の満足を求めてるの?』って」

クライエント「期待じゃなくて、満足...」

ダイキ「ドーパミンは期待を生み出すけど、満足は生み出さないんです。満足をくれるのは、安定した関係からくるセロトニンやオキシトシンなんです」

クライエント「......私、本当は満足が欲しかったんだと思います。ずっと」

ダイキ「それに気づけたこと、本当にすごいことですよ」

彼女は涙を拭いながら、小さく微笑んだ。

クライエント「ありがとうございます。なんだか、すごく心が軽くなりました」

未来への一歩


セッションの終わり、彼女はこう言った。

クライエント「ダイキさん、今日気づいたことがあるんです」

ダイキ「どんなことですか?」

クライエント「私、元彼を美化してたんじゃなくて、『不安』を美化してたのかもしれません」

ダイキ「不安を?」

クライエント「はい。不安があるからドキドキする、ドキドキするから『これが恋だ』って思い込んでた。でも、本当の恋って、もっと安心できるものなんですよね」

ダイキ「......そうかもしれませんね」

クライエント「これから、安心できる関係を探してみます。刺激じゃなくて、安心を」

ダイキ「素敵な目標ですね」

クライエント「ありがとうございます。今日、ここに来て本当によかったです」

彼女はそう言って、カウンセリングルームを後にした。

その背中は、少し軽くなったように見えた。

彼女が気づいたこと。それは、脳が作り出す「報酬への期待」という錯覚と、本当の満足との違いだった。

ドーパミンが生み出す興奮は、確かに強烈だ。でも、それは持続しない。本当に心を満たしてくれるのは、安定した関係から生まれる安心感だ。

元彼を美化してしまうのは、脳の仕組みだ。でも、その仕組みに気づき、現実を見つめ直すことで、人は前に進むことができる。

大切なのは、「期待」ではなく「満足」を求めること。 刺激ではなく、安心を求めること。

その一歩を踏み出したとき、本当の幸せが見えてくるのかもしれない。


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