「普通のこと」ができない
カウンセリングルームのドアを開けた彼女は、少し俯きがちだった。椅子に座ると、小さく息を吐いた。
「あの...今日は、ちょっと恥ずかしい話なんですけど」
ダイキ「恥ずかしいって感じることなんですね。大丈夫ですよ、ゆっくり話してください」
クライエント「はい...。あの、私、半年くらい前に仕事を辞めて。それからなんですけど...コンビニとか、美容院とか、普通の場所で人と話すのがすごく怖くなっちゃって」
彼女は膝の上で手を握りしめていた。
クライエント「例えば、コンビニでレジに並んでる時とか。店員さんに『袋に入れてください』って言おうとするんですけど、なんか...言葉が出てこないんです。で、結局何も言えなくて、袋なしで持って帰るみたいな」
ダイキ「袋が欲しいのに、言えない」
クライエント「そうなんです。変ですよね...。働いてた時は普通に言えてたのに」
少し沈黙があった。彼女は俯いたまま、次の言葉を探しているようだった。
「何もしてない人」として見られている気がする
ダイキ「働いてた時と、今と。何か違いを感じますか?」
クライエント「......やっぱり、『何もしてない人』って思われてる気がするんです」
その言葉には、自分でも驚いたような響きがあった。
クライエント「なんか、店員さんに『この人、平日の昼間からコンビニにいるし、仕事してないんだろうな』って思われてる気がして。それで、なんか...申し訳ない気持ちになっちゃって」
ダイキ「申し訳ない?」
クライエント「はい...。なんていうか、ちゃんと働いてないのに、普通の顔して買い物してるのが、なんか悪いことしてるみたいな」
彼女の声は小さくなっていった。
ダイキ「店員さんは、何か言うんですか?」
クライエント「いえ...何も。普通に接客してくれます。でも、私が勝手に『あ、この人、私のこと変だと思ってるな』って」
ダイキ「なるほど。相手は何も言ってないけど、そう思われてる気がする」
クライエント「そうなんです...。頭では『考えすぎだよ』って思うんですけど、体が緊張しちゃって」
以前の自分と比べてしまう
ダイキ「働いていた時の自分と、今の自分。どんな風に違いますか?」
クライエント「働いてた時は...なんていうか、堂々としてた気がします。会社の名刺もあったし、『私はこういう仕事をしてます』って言えたし」
彼女は少し顔を上げた。
クライエント「美容院とかで『お仕事は?』って聞かれても、ちゃんと答えられたんです。でも今は...聞かれたくないっていうか」
ダイキ「聞かれたくない」
クライエント「はい。『今、何してるんですか?』って聞かれると、『あ、仕事探してて...』って。それだけなんですけど、なんかすごく恥ずかしくて」
彼女の目に、うっすらと涙が浮かんだ。
クライエント「情けないですよね。35歳にもなって、コンビニで緊張するなんて」
価値は「何をしているか」で決まる?
ダイキ「情けないって感じるんですね」
クライエント「だって...普通、大人なら仕事してるじゃないですか。私、今まで真面目に働いてきたのに、ちょっと休んだだけで、こんな風になっちゃうなんて」
ダイキ「真面目に働いてきた」
クライエント「はい...。大学出てから、ずっと働いてました。残業も多かったし、休日出勤もあったし。でも、それが普通だと思ってたんです」
彼女は少し間を置いてから、続けた。
クライエント「で、疲れちゃって。体調も悪くなって、それで辞めたんですけど...。辞めた途端に、なんか自分の価値がなくなっちゃった気がして」
ダイキ「価値がなくなった」
クライエント「......そう、思っちゃうんです」
彼女は涙を拭いた。
ダイキ「仕事をしていない自分には、価値がない?」
クライエント「......言われてみると、そうかもしれません。でも、じゃあ働いてない人は価値がないのかって言われたら、そんなことないって思うんですけど」
ダイキ「他の人については、そうは思わない」
クライエント「はい...。でも、自分のことになると...なんか、ダメな気がして」
他人の目、自分の目
しばらく静かな時間が流れた。彼女は窓の外を見ていた。
ダイキ「コンビニの店員さんは、本当に『この人、仕事してないな』って思ってると思いますか?」
クライエント「......わからないです。でも、『ちゃんとした人じゃないな』って思われてる気がして」
ダイキ「気がする」
クライエント「はい...」
ダイキ「もし仮に、店員さんが本当にそう思っていたとして。それは、何か問題ですか?」
彼女は少し驚いた顔をした。
クライエント「え...?」
ダイキ「店員さんが『この人、仕事してないんだな』『ちゃんとした人じゃないな』って思ったとして。それで、何か起きますか?」
クライエント「......何も起きないですけど...。でも、なんか...」
彼女は言葉に詰まった。
クライエント「嫌なんです。そう思われるのが」
ダイキ「そう思われることが、嫌」
クライエント「はい...。なんでだろう...」
"ちゃんとした人"でいなきゃいけない
ダイキ「『ちゃんとした人』って、どんな人ですか?」
クライエント「......仕事してて、ちゃんと社会に貢献してて...」
彼女は少し考えてから、続けた。
クライエント「誰かの役に立ってる人...かな」
ダイキ「仕事をしていないと、誰の役にも立っていない?」
クライエント「......そんなことないって、頭ではわかってるんです。でも...」
彼女の声が震えた。
クライエント「小さい頃から、『ちゃんとしなさい』『人に迷惑かけちゃダメ』って、ずっと言われてきて。で、一生懸命やってきたんです。勉強も、仕事も」
ダイキ「一生懸命、ちゃんとしてきた」
クライエント「はい...。でも、ちゃんとできてないから、体調崩して辞めることになって。それで、今...」
彼女は泣き出した。
クライエント「なんか、ちゃんとできなかった自分が...許せなくて」
ダイキは静かに頷いた。
許せない自分
しばらく、彼女の静かな涙だけが聞こえた。
ダイキ「ちゃんとできなかった自分が、許せない」
クライエント「はい...。みんな働いてるのに、私だけ...」
ダイキ「みんな?」
クライエント「大学の同期とか、友達とか...。SNS見てると、みんなちゃんと働いてて、キラキラしてて。私だけ、何もしてなくて」
彼女は涙を拭いながら、小さく笑った。
クライエント「比べちゃダメって、わかってるんですけどね」
ダイキ「比べてしまう」
クライエント「はい...。で、比べると、やっぱり自分がダメに見えて」
ダイキ「他の人と比べた時、自分はダメ」
クライエント「......そうです」
ダイキ「もし、他の人がいなかったら?」
彼女は顔を上げた。
クライエント「え?」
ダイキ「比べる相手がいなかったら、今の自分はどう見えますか?」
彼女は少し考えた。
クライエント「......わからないです。でも...そんなにダメじゃないかも」
本当は休みたかった
ダイキ「体調を崩して、辞めることになったんですよね」
クライエント「はい...。最後の方は、朝起きるのも辛くて。でも、休むって選択肢が自分の中になかったんです」
ダイキ「休むという選択肢がなかった」
クライエント「はい...。休んだら、迷惑かけちゃうし。『私がいないと回らない』って、勝手に思ってて」
彼女は少し苦笑した。
クライエント「でも実際は、辞めても会社は普通に回ってるし。なんか...自分が思ってたほど、必要とされてなかったのかなって」
ダイキ「必要とされていなかった、と感じた」
クライエント「......寂しいですよね。こんなに頑張ってたのに」
彼女の声には、諦めのような響きがあった。
ダイキ「頑張ってきたことは、確かですか?」
クライエント「......はい。確かです」
ダイキ「じゃあ、それは消えませんね」
彼女は少し驚いた顔をした。
クライエント「消えない...?」
ダイキ「頑張ってきた事実は、会社を辞めても変わらない。今、仕事をしていなくても、変わらない」
クライエント「......そうか」
彼女は静かに頷いた。
コンビニで起きていること
ダイキ「コンビニの話に戻りますが、レジで緊張する時、体はどうなりますか?」
クライエント「えっと...心臓がバクバクして、手が震えて...」
ダイキ「心臓がバクバクして、手が震える」
クライエント「はい。で、頭が真っ白になって、『袋ください』っていう簡単な言葉も出てこなくなるんです」
ダイキ「その時、頭の中では何が起きてますか?」
クライエント「......『変に思われたらどうしよう』『仕事してないってバレたらどうしよう』って」
ダイキ「変に思われたら、困る?」
クライエント「......困るっていうか...嫌です」
ダイキ「嫌」
クライエント「はい。だって...」
彼女は言葉を探した。
クライエント「ちゃんとしてないって思われたくないから」
ちゃんとしなくてもいい
ダイキ「ちゃんとしてないといけない、って誰が決めたんでしょう」
クライエント「......誰が?」
彼女は考え込んだ。
クライエント「親...かな。小さい頃から、『ちゃんとしなさい』って」
ダイキ「親御さんは、今も『ちゃんとしなさい』って言いますか?」
クライエント「いえ...。最近は『無理しないで』って言ってくれます」
ダイキ「じゃあ今、『ちゃんとしなきゃ』って言ってるのは?」
クライエント「......私、自身です」
彼女はハッとした表情になった。
クライエント「私が、自分に言ってる...」
ダイキ「自分に、ちゃんとしなきゃって」
クライエント「はい...。なんか、ずっと自分を責めてたのかもしれません」
彼女の目から、また涙がこぼれた。でも、それは先ほどとは少し違う涙だった。
クライエント「疲れちゃったんです、本当は。ずっと頑張ってきて」
ダイキ「疲れた」
クライエント「はい...。もう、ちゃんとできない。でも、ちゃんとしなきゃって...ずっと自分を追い詰めてて」
小さな一歩
ダイキ「今、この瞬間は、ちゃんとしなくていいとしたら?」
クライエント「......えっ?」
ダイキ「今、ここでは、ちゃんとしなくていい。何もしてなくてもいい。そういう場所だとしたら、どうですか?」
彼女は深く息を吐いた。
クライエント「......楽、かも」
ダイキ「楽」
クライエント「はい...。なんか、肩の力が抜ける感じ」
彼女は初めて、少し笑った。
クライエント「不思議ですね。『ちゃんとしなくていい』って言われると、こんなに楽になるんだ」
ダイキ「コンビニでも、ちゃんとしなくていいとしたら?」
クライエント「コンビニで...?」
ダイキ「はい。『袋ください』って言えなくても、ちゃんとしてなくてもいい」
クライエント「......そっか。別に、袋もらえなくても死なないし」
彼女は少し笑った。
クライエント「なんか、すごく当たり前のことなのに、今まで気づかなかったです」
これから
ダイキ「これから、どうしていきたいですか?」
クライエント「えっと...まず、コンビニで『袋ください』って言えるようになりたいです」
ダイキ「言えるようになりたい」
クライエント「はい。でも...言えなくてもいいかなって、今は思えます」
彼女は少し照れたように笑った。
クライエント「ちゃんとしなくてもいいんだって、自分に言ってあげようと思います」
ダイキ「自分に」
クライエント「はい。今まで、ずっと自分に厳しくしてきたから。これからは、もうちょっと優しくしてあげたいです」
彼女の表情は、来た時よりも柔らかくなっていた。
クライエント「それに...働いてないからって、価値がないわけじゃないですよね」
ダイキ「どう思いますか?」
クライエント「......ないと思います。今は休む時期なんだって、自分で決めたんだから」
彼女は深く息を吐いた。
クライエント「もうちょっと、自分を信じてあげようと思います」