「私が我慢すればいい」という呪縛
カウンセリングルームのドアが開き、クライエントが静かに入ってきた。きちんとした身なりだが、どこか疲れた様子が滲んでいる。
ダイキ「はじめまして。ダイキと申します。今日はお越しいただきありがとうございます」
クライエント「......こちらこそ、よろしくお願いします」
声は小さく、少し緊張している様子だった。
ダイキ「緊張されてますか?」
クライエント「はい......カウンセリングって、初めてで」
ダイキ「そうですか。ここでは何をお話しいただいても大丈夫ですし、ご自分のペースで話していただければと思います。今日はどんなことでお越しになられたんですか?」
クライエントは少し考えてから、ゆっくりと口を開いた。
クライエント「夫のことで......いえ、夫が悪いわけじゃないんです。私自身の問題なんだと思うんですけど......」
そう言いながら、彼女は言葉を探すように視線を落とした。
ダイキ「どんな問題だと感じていらっしゃいますか?」
クライエント「私、結婚してもう20年近くになるんですけど......ずっと『夫を立てる』ことを大切にしてきたんです。母からも『夫を立てられる女性が良い妻よ』って教えられて育ったし、それが当たり前だと思ってました」
ダイキ「夫を立てる、ですか」
クライエント「はい。夫の意見を尊重して、家のことは夫の決定に従う。夫が疲れている時は気を遣って、夫のプライドを傷つけないように......そういうことです」
彼女の声には、何か重いものが乗っているように感じられた。
「立てる」ことで保たれてきたバランス
ダイキ「それを20年近く続けてこられたんですね」
クライエント「はい......最初の頃は、それで良かったんです。夫も喜んでくれて、家庭も円満でした。でも......」
言葉が途切れた。ダイキは黙って待った。
クライエント「最近、なんだかすごく疲れるんです。夫を立てることが。自分の意見を飲み込むことが。『私が我慢すればいい』って、ずっと思ってきたんですけど......本当にこれでいいのかなって」
ダイキ「何かきっかけがあったんですか?」
クライエント「......子どもの進路のことです。娘が高校生なんですけど、進路について夫と意見が合わなくて。私は娘の希望を尊重したいと思ったんですが、夫は自分の考えを押し付けようとして......」
彼女の目に、うっすらと涙が浮かんでいた。
クライエント「その時、私......初めて夫に反対意見を言ったんです。でも、夫はすごく機嫌を損ねて。『お前はいつもそうやって俺の顔を潰す』って......」
ダイキ「辛かったですね」
クライエント「それで......私、やっぱり黙っておけばよかったのかなって。でも、娘のことを考えたら......どうしても黙っていられなくて」
役割としての力と、人としての影響力
ダイキ「『夫を立てる』ということについて、もう少し詳しく聞かせてもらえますか?具体的にどんな場面で、どのように立ててこられたんでしょう」
クライエント「えーと......たとえば、家族で何か決める時。旅行先とか、大きな買い物とか。夫が『こうしよう』って言ったら、私は基本的に従うようにしてきました」
ダイキ「あなた自身の意見があっても?」
クライエント「はい......。あと、親戚の集まりとかでも、夫の意見を優先して。『うちの主人が言うには』って感じで、夫の考えを立てるようにしていました」
ダイキ「それはどういう理由からですか?」
クライエント「......夫は一家の大黒柱だし、稼ぎも夫のほうが多いですから。だから、夫の意見を尊重するのが当然だと思ってました」
ダイキは少し考えてから、慎重に言葉を選んだ。
ダイキ「『稼ぎが多いから』『一家の大黒柱だから』という理由で、ご主人の意見が優先されるべきだと思っていらっしゃるんですね」
クライエント「......そうです。それって、変ですか?」
ダイキ「変かどうかではなくて、ただそういう考え方なんだなと思いました。ちなみに、ご主人はあなたをどう見ていると思いますか?」
クライエント「......どう見ている、ですか?」
ダイキ「たとえば、『妻として尊敬している』とか、『一人の人間として認めている』とか、そういう視点です」
クライエントは困ったように首を傾げた。
クライエント「......わかりません。夫は......私のことを『妻』として見ているとは思いますけど、『尊敬』とかは......あるのかな......」
彼女の言葉には、不安が混じっていた。
「立場」から来る力の限界
ダイキ「人が誰かの言うことを聞く時、いくつかの理由があるんです」
クライエント「......理由、ですか?」
ダイキ「はい。たとえば、会社で上司の指示に従う時、それはなぜだと思いますか?」
クライエント「えっと......上司だから、ですよね?」
ダイキ「そうですね。『上司』という立場や役割があるから従う。でも、その上司が異動して別の部署に行ったら?」
クライエント「......ああ、そしたら従う必要はなくなりますね」
ダイキ「そうなんです。これって、その人自身というより、その人が持っている『立場』に従っているんです。会社で言えば、部長という役職、先生という立場、親という立場......こういう『役割』から来る力を、心理学では『正当勢力』と呼んだりします」
クライエント「正当勢力......」
クライエントは、その言葉を繰り返し、何かを考え込んでいる様子だった。
ダイキ「で、もう一つ別の力があるんです。『この人の言うことなら聞きたい』『この人を尊敬しているから従いたい』っていう、人間性や魅力から来る力」
クライエント「......」
ダイキ「これは立場とか役職とは関係なく、その人自身が持っている影響力です。たとえば、会社を辞めた後も『あの人の言葉は心に残っている』とか、『あの人の生き方に憧れる』って思える人、いませんか?」
クライエント「......います。学生時代の恩師で、今でも尊敬している先生がいます」
ダイキ「その先生は、もう今はあなたの『先生』という立場にはいないですよね?でも、影響力は残っている」
クライエント「はい......確かに」
ダイキ「これが『参照勢力』です。相手が自分のモデルになるような存在で、『この人のようになりたい』『この人の価値観に共感する』と思える時に生まれる力」
クライエントは、じっと考え込んでいた。そして、ゆっくりと口を開いた。
クライエント「......私が夫に従ってきたのは、どちらなんでしょう」
ダイキ「どう思いますか?」
クライエント「......たぶん、正当勢力、ですよね。『夫』という立場だから。『大黒柱』という役割だから」
ダイキ「そう感じられるんですね」
クライエント「はい......夫の考え方に共感してるとか、夫のようになりたいとか、そういうのは......ないです」
彼女の声は、どこか虚しさを帯びていた。
ダイキ「じゃあ、もし仮にですが、ご主人が職を失ったとしたら、どうでしょう」
クライエント「え......」
ダイキ「『大黒柱』という立場がなくなったとしたら、あなたはご主人の言うことを今と同じように聞くと思いますか?」
クライエントは、はっとした表情を見せた。そして、しばらく考えてから、小さく首を横に振った。
クライエント「......わからないです。多分......聞かないかもしれません」
ダイキ「それは、ご主人に対して『参照勢力』を感じていないからかもしれませんね」
クライエント「......」
ダイキ「つまり、立場や役割を取り除いた時に、その人自身に魅力や尊敬を感じているかどうか。これって、関係性を考える上でとても大切なことだと思うんです」
クライエントは、しばらく黙っていた。そして、小さな声で言った。
クライエント「......夫のこと、尊敬してるかって聞かれたら......正直、わからないです。というか、考えたこともなかったかもしれません」
その言葉には、自分自身への驚きが混じっていた。
立てることで失ったもの
ダイキ「尊敬しているかわからない人の意見を、20年近く優先し続けてきたんですね」
クライエント「......そう言われると、すごく虚しいですね」
彼女は目を伏せた。
クライエント「でも、それが妻の役割だと思ってたんです。夫を立てることが、家庭を円満に保つ秘訣だって」
ダイキ「それは誰に教わったんですか?」
クライエント「母です......母は『女は夫を立ててこそ一人前』『夫の顔を潰すような女は良い妻じゃない』って、いつも言ってました」
ダイキ「お母様も、そういう生き方をされてきたんでしょうか」
クライエント「......はい。母は父に何でも従っていました。父が白と言えば白、黒と言えば黒。そういう母を見て育ちました」
ダイキ「お母様は幸せそうでしたか?」
クライエントは、その質問に答えるのをためらった。しばらく沈黙が続いた後、小さな声で言った。
クライエント「......わかりません。母が自分の気持ちを話すことって、ほとんどなかったから」
ダイキ「そうですか」
クライエント「でも......時々、すごく疲れた顔をしているのを見ました。『お母さん、大丈夫?』って聞いても、『大丈夫よ、お母さんは強いから』って笑ってましたけど......」
彼女の目に、また涙が浮かんだ。
クライエント「今なら、わかります。母も......辛かったんだと思います。でも、それを言えなかった。言ってはいけないと思っていたんだと思います」
ダイキ「あなたも、同じ道を歩んできたんですね」
クライエント「......はい。気づいたら、母と同じことをしていました」
ダイキ「実際、それで円満だったんですか?」
クライエント「......最初は、そうだったと思います。結婚した頃は、夫も私の意見を聞いてくれたし、二人で決めることも多かったです」
ダイキ「それがいつから変わったんでしょう」
クライエント「......はっきりとはわからないんですけど、多分、子どもが生まれてからだと思います」
ダイキ「どう変わったんですか?」
クライエント「夫が......どんどん家のことを決めるようになっていきました。『俺が稼いでるんだから』『俺に任せておけ』って。最初は頼もしいと思ったんですけど、だんだん私の意見が通らなくなって......」
ダイキ「それでも、あなたは夫を立て続けた」
クライエント「はい......母の言葉が頭にあったんです。『夫を立てられない妻は失格』って。だから、自分の意見を飲み込むようにしていました」
ダイキ「それを続けた結果、今どうなっていますか」
クライエント「......夫は私の意見を聞こうともしないし、私も夫に本音を言えなくなってて......会話も減りました。必要なことしか話さない。そんな関係になってしまいました」
ダイキ「それは円満と言えるでしょうか」
クライエント「......言えないです」
彼女の声が震えた。
クライエント「私、自分の人生を生きてないような気がするんです。いつも夫の顔色を伺って、夫の機嫌を損ねないように気を遣って......私って、何のために結婚したんだろうって」
涙がこぼれ落ちた。ダイキはティッシュを差し出した。
ダイキ「つらいですね」
クライエント「......はい」
ダイキ「一つ聞いてもいいですか。あなたは、ご主人に対して『この人と結婚してよかった』って思えていますか?」
クライエントは、しばらく考えてから答えた。
クライエント「......わからないです。もう、何が幸せなのかも、わからなくなってしまいました」
「立てる」の本当の意味
少し落ち着いてから、ダイキは静かに尋ねた。
ダイキ「あなたにとって、『夫を立てる』って、どういうことだったんでしょう」
クライエント「......どういうこと、ですか?」
ダイキ「うん。『立てる』っていう言葉、いろんな意味があると思うんです。相手を尊重する、相手の良さを認める、相手が活躍できるようにサポートする......」
クライエント「......」
ダイキ「でも、あなたがしてきたのは、もしかしたら『立てる』じゃなくて、『従う』だったのかもしれないと思ったんです」
クライエントははっとした表情を見せた。
クライエント「......従う」
ダイキ「自分の意見を飲み込んで、相手の言う通りにする。それって、相手を『尊重』してるんじゃなくて、ただ『従っている』だけじゃないかなって」
クライエント「......」
ダイキ「本当に相手を立てるっていうのは、相手の良いところを認めて、相手が力を発揮できるようにサポートすること。でも、それって自分の意見を殺すこととは違うと思うんです」
クライエントは、涙を拭いながら頷いた。
クライエント「そうですよね......私、ただ夫に従ってただけなんだ」
参照勢力を育てる関係性へ
ダイキ「さっきお話しした『参照勢力』のことを、もう少し考えてみませんか」
クライエント「はい......」
ダイキ「参照勢力っていうのは、相手の人間性や考え方に魅力を感じて、『この人の言うことなら聞きたい』って思う力のことでした。これって、立場とか役割とは関係なく、その人自身が持っている影響力なんです」
クライエント「......」
ダイキ「ご主人は、あなたに対してそういう影響力を持っているでしょうか」
クライエントは首を横に振った。
クライエント「......ないです。夫が『大黒柱だから』『稼ぎが多いから』という理由で従ってきただけで、夫の考え方に共感してるわけじゃないです」
ダイキ「そうですか。じゃあ、逆にあなたはご主人に対して、そういう影響力を持っているでしょうか」
クライエント「......持ってないと思います。夫は私のことを、『妻』としてしか見てないから」
ダイキ「『妻』としてしか、ですか」
クライエント「はい......家事をする人、子どもの世話をする人、夫に従う人。そういう『役割』としての妻」
ダイキ「それは寂しいですね」
クライエント「......はい。時々、私じゃなくても、誰でもいいんじゃないかって思うことがあります」
その言葉には、深い孤独が滲んでいた。
ダイキ「もし、あなたとご主人が、お互いに『この人の考えには共感できる』『この人の価値観を尊敬している』って思える関係だったら、どうでしょう」
クライエント「......それは、理想的ですね。でも......」
ダイキ「でも?」
クライエント「今更、そんな関係になれるのかなって。もう20年も、こういう関係を続けてきたのに」
ダイキは、少し考えてから言った。
ダイキ「確かに、簡単なことではないかもしれません。でも、一つ考えてほしいことがあります」
クライエント「......何ですか?」
ダイキ「あなたは、ご主人のどんなところを『尊敬できる』『共感できる』と思えるでしょうか。ほんの小さなことでもいいんです」
クライエントは、しばらく考え込んでいた。その表情は、とても真剣だった。
クライエント「......夫は、仕事に対しては真面目です。責任感も強いし、部下の面倒見もいいって聞きます」
ダイキ「それは素晴らしいことですね」
クライエント「でも......家では、そういう姿を見せないんです。家では威張ってばかりで、子どものことにも無関心で......」
ダイキ「つまり、ご主人には尊敬できる部分もあるけれど、それが家庭では発揮されていないということでしょうか」
クライエント「......そうです。外では『いい人』なのに、家では......」
彼女は言葉に詰まった。
ダイキ「それって、もしかしたら、ご主人も家では『大黒柱』という役割にとらわれすぎているのかもしれませんね」
クライエント「......役割に、ですか?」
ダイキ「はい。『夫として威厳を保たなければ』『稼ぎ頭として家族を従えなければ』っていう、役割への縛り。それが、ご主人本来の良さを隠してしまっているのかもしれません」
クライエントは、はっとした表情を見せた。
クライエント「......確かに、夫も『夫らしくあらねば』って思い込んでいるのかもしれません」
ダイキ「そうだとしたら、あなたが『妻』という役割から抜け出すことで、ご主人も『夫』という役割から抜け出せるかもしれませんね」
クライエント「......」
ダイキ「お互いが役割ではなく、一人の人間として向き合えるようになったら、『参照勢力』も生まれてくるかもしれません」
クライエントの目に、少し希望の光が見えてきた。
気づきの先にあるもの
ダイキ「今日、ここでお話ししてみて、どんなことを感じましたか?」
クライエント「......『夫を立てる』って、私が思ってたのとは違う意味だったんだなって。私がしてきたのは、ただ従うことで、本当の意味で夫を立ててたわけじゃなかったんだって」
ダイキ「それに気づけたこと、大きいと思いますよ」
クライエント「でも......これからどうすればいいんでしょう。今更、夫との関係を変えられるのかな」
ダイキ「それは、あなた次第だと思います。ただ、一つ言えるのは、関係性って一方的に変えられるものじゃないということ」
クライエント「......」
ダイキ「あなたが変わろうとしても、ご主人が変わらなければ、関係性は変わらないかもしれません。でも、少なくともあなた自身が『従うだけの妻』から『一人の人間として向き合う妻』になることはできると思うんです」
クライエント「......一人の人間として、ですか」
ダイキ「はい。自分の意見を持って、それを伝える。相手の立場や役割に従うんじゃなくて、相手の人間性を見て判断する。それができるようになると、関係性も変わってくるかもしれません」
クライエントは、少し希望が見えてきたような表情を見せた。
クライエント「......難しそうだけど、やってみたいです」
ダイキ「焦らなくていいですよ。少しずつ、できることから始めてみてください」
小さな一歩
クライエント「......でも、具体的に何から始めたらいいんでしょうか」
ダイキ「焦る必要はないですよ。まずは、日常の小さな決断の中で、自分の意見を言ってみるのはどうでしょう」
クライエント「......小さな決断、ですか?」
ダイキ「はい。たとえば、晩ご飯のメニューとか、週末の過ごし方とか。今までは『夫の好きなものを作ろう』『夫の行きたいところに行こう』って考えていたかもしれませんが、『私はこれが食べたい』『私はこうしたい』って伝えてみる」
クライエント「......そんな小さなことから、ですか」
ダイキ「そうです。いきなり大きなことで意見を言おうとすると、衝突も大きくなるかもしれません。でも、小さなことから『私はこう思う』って伝えていくことで、少しずつ関係性が変わっていくかもしれません」
クライエント「......でも、夫は私の意見を聞いてくれないかもしれません」
ダイキ「そうかもしれませんね。でも、大切なのは『相手が聞いてくれるかどうか』ではなくて、『自分が意見を言えるかどうか』だと思うんです」
クライエント「......」
ダイキ「今まで、あなたは自分の意見を言わずに、心の中に溜め込んできました。それがあなたを苦しめてきた。だから、まずは『言う』ということから始めてみる。相手が聞いてくれるかどうかは、その次の問題です」
クライエントは、ゆっくりと頷いた。
クライエント「......そうですね。まず、自分の意見を持つこと、そして伝えること。それが第一歩なんですね」
ダイキ「そうです。そして、もう一つ大切なことがあります」
クライエント「......何ですか?」
ダイキ「ご主人の『立場』ではなく、『人間性』を見るようにしてみてください」
クライエント「人間性......ですか」
ダイキ「はい。『大黒柱だから』『稼ぎが多いから』じゃなくて、『この人のこういうところは尊敬できる』『この考え方には共感できる』って部分を探してみる」
クライエント「......さっき言った、仕事に対する真面目さとか、ですか?」
ダイキ「そうです。そういう部分を見つけて、それを認めてあげる。『あなたのこういうところ、素敵だと思う』って伝えてみる」
クライエント「......それって、『立てる』ということですか?」
ダイキ「そうです。本当の意味で『立てる』っていうのは、相手の良いところを見つけて、それを認めてあげること。自分の意見を殺すことじゃなくて、相手の良さを認めた上で、自分の意見も伝える。それが、対等な関係における『立てる』ということだと思います」
クライエントの表情が、少し明るくなった。
クライエント「......私、今まで『立てる』の意味を間違えていたんですね」
ダイキ「間違えていたというより、一面的な見方しかできていなかったのかもしれませんね」
クライエント「......そうですね」
ダイキ「それと、もう一つ。あなた自身も、『妻』という役割から少し離れてみることも大切かもしれません」
クライエント「妻の役割から......?」
ダイキ「はい。『妻だから家事をしなければ』『妻だから夫に従わなければ』じゃなくて、『私はこういう人間で、こういう価値観を持っている』ってところから始めてみる」
クライエント「......」
ダイキ「そうやって、あなた自身の『参照勢力』を育てていくんです。ご主人から『この人の言うことなら聞きたい』『この人の考え方には共感できる』って思ってもらえるような人になる」
クライエント「......私にもできるでしょうか」
ダイキ「きっとできますよ。実は、あなたはすでに第一歩を踏み出しています」
クライエント「......え?」
ダイキ「娘さんの進路のことで、ご主人に反対意見を言ったこと。あれが第一歩です」
クライエントは、はっとした表情を見せた。
クライエント「......そうか。私、勇気を出して意見を言ったんですよね」
ダイキ「はい。それは大きな一歩でした。確かに、ご主人は機嫌を損ねたかもしれません。でも、あなたは自分の意見を持って、それを伝えた。それが大切なんです」
クライエント「......でも、結局夫の機嫌を損ねただけで、何も変わらなかったような気がします」
ダイキ「本当にそうでしょうか。娘さんは、どう思っていると思いますか?」
クライエント「......娘、ですか?」
ダイキ「はい。お母さんが自分のために意見を言ってくれたこと、娘さんはどう感じたと思いますか?」
クライエントは、しばらく考えてから答えた。
クライエント「......娘は、後で私に『お母さん、ありがとう』って言ってくれました」
ダイキ「それは素敵ですね」
クライエント「......そうですね。娘にとっては、意味があったんだ」
ダイキ「そして、あなた自身にとっても意味があったはずです。自分の意見を言えたこと、それ自体が大きな変化です」
クライエントは、涙ぐみながら笑顔を見せた。
クライエント「......そうですね。私、変わり始めているのかもしれません」
最後の言葉
カウンセリングの終わりが近づいてきた。
クライエント「今日、来てよかったです。『夫を立てる』ということの意味が、少しわかった気がします」
ダイキ「それは良かったです」
クライエント「私......これまで、『私が我慢すればいい』って思ってたんですけど、それって夫のためにもなってなかったんですね」
ダイキ「どういうことですか?」
クライエント「私が本音を言わないことで、夫は私のことを本当に理解できてなかったんだと思います。それって、夫にとっても不幸なことですよね」
ダイキ「そうですね。お互いに本当の自分を見せ合えない関係って、誰にとっても辛いものだと思います」
クライエント「......夫も、もしかしたら苦しんでいるのかもしれませんね。『夫らしくあらねば』『大黒柱らしくあらねば』って」
ダイキ「そうかもしれませんね」
クライエント「だとしたら......私が変わることで、夫も変われるかもしれない」
ダイキ「その可能性はあると思いますよ」
クライエント「......怖いですけど、やってみたいです。もう一度、夫と向き合ってみたいです」
ダイキ「素晴らしいですね」
クライエント「でも......もし、夫が変わってくれなかったら?」
ダイキ「その時は、その時ですね。でも、少なくともあなた自身が変わることはできます。『従うだけの妻』から『一人の人間として向き合う妻』になること。それは、ご主人がどうであれ、あなた自身の人生にとって大切なことだと思います」
クライエント「......そうですね」
彼女は、少し前を向いた表情を見せた。
クライエント「私、今まで『妻』という役割に縛られすぎていたのかもしれません。でも、その前に私は一人の人間なんですよね」
ダイキ「そうです」
クライエント「一人の人間として、自分の意見を持って、自分の人生を生きる。そして、夫のことも一人の人間として見る」
ダイキ「それができれば、『立てる』ということの意味も変わってくると思いますよ」
クライエント「......本当の意味で『立てる』っていうのは、相手の良さを認めて、相手が力を発揮できるようにサポートすること。でも、自分を殺すことじゃない」
ダイキ「その通りです」
クライエント「......少しずつ、やってみます」
ダイキ「応援していますよ」
クライエントは笑顔を見せた。まだ不安そうではあったが、最初に来た時よりもずっと明るい表情だった。
クライエント「ありがとうございました。また来てもいいですか?」
ダイキ「もちろんです。いつでもお待ちしています」
彼女はドアに向かって歩き出し、ふと振り返った。
クライエント「あの......『参照勢力』って、自分も持てるものなんでしょうか」
ダイキ「もちろんです」
クライエント「どうすれば、持てるようになりますか?」
ダイキ「あなたが一人の人間として、自分の価値観を持って、誠実に生きていけば、それは自然と生まれてくるものだと思いますよ」
クライエント「......誠実に、ですか」
ダイキ「はい。自分に正直に、そして相手にも正直に。自分の意見を持ちながらも、相手の意見にも耳を傾ける。そうやって生きている人には、自然と人が引き寄せられていくものです」
クライエント「......そうですよね。私も、夫から『この人の言うことなら聞きたい』って思ってもらえるような人になりたいです」
ダイキ「きっとなれますよ。あなたにはその力があります」
クライエント「......ありがとうございます」
彼女は深々と頭を下げた。その背中には、もう最初に来た時のような重さはなかった。代わりに、これから歩んでいく道への希望が見えた。
ドアが閉まった後、ダイキは窓の外を見つめた。
「立てる」という言葉の意味。それは単に従うことでも、相手を優先することでもない。相手の良さを認め、相手が力を発揮できるようにサポートすること。そして、それは自分を殺すことではなく、お互いが一人の人間として向き合える関係性の中でこそ、本当の意味を持つのだ。
正当勢力と参照勢力。立場や役割から来る力と、人間性から来る力。夫婦関係において、どちらに依存するかで、関係性の質は大きく変わる。
彼女が、本当の意味で夫と向き合える日が来ることを、ダイキは心から願った。