会社を辞めたのに、働いていた時より眠れない理由

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「休んでるはずなのに、疲れてるんです」


カウンセリングルームのドアが開いて、タカシさんが入ってきた。35歳という年齢よりも少し老けて見える表情。目の下にはクマがあり、どこか緊張した様子だった。

椅子に座ると、タカシさんは少し困ったように笑った。

タカシ「なんか、おかしな相談なんですけど......」

ダイキ「おかしな相談?」

タカシ「はい。休んでるはずなのに、疲れてるんです」

タカシさんはそう言って、また困ったように笑った。

タカシ「会社辞めて、もう3ヶ月くらい経つんですよ。毎日10時間以上寝てるし、やることもないから、ほとんど家にいるだけで。でも......なんていうか、働いてた時より疲れてる気がして」

ダイキ「働いてた時より、疲れてる」

タカシ「はい。おかしいですよね。会社員の時は、毎日終電で帰ってたし、休日出勤もあったし。今と比べたら、明らかにあの時の方が忙しかったはずなのに」

タカシさんは首を傾げた。

ダイキ「その『疲れてる』っていうのは、どんな感じですか?」

タカシ「んー......体が重いっていうか。朝起きても、全然スッキリしなくて。頭もぼんやりしてるし、何をするにもエネルギーが要る感じです」

「もう限界でした」


タカシさんは、前職でのことを話してくれた。

タカシ「IT企業で、システムエンジニアをしてました。最初の数年は楽しかったんですよ。新しい技術を学べるし、やりがいもあって」

ダイキ「楽しかった、と」

タカシ「はい。でも、だんだんプロジェクトが大規模になってきて。納期が厳しくて、毎日終電。休日も仕事のことが頭から離れなくて......」

タカシさんは、少し遠くを見つめた。

タカシ「あるとき、朝起きたら体が動かなくなってて。文字通り、ベッドから起き上がれなくて。そこで初めて、『あ、これヤバいな』って思ったんです」

ダイキ「そのとき、どうされたんですか?」

タカシ「病院に行きました。医者には『このまま続けたら本当に壊れる』って言われて。それで......退職を決めました」

タカシさんの声が少し震えた。

タカシ「でも、辞めるって決めた時も、罪悪感がすごくて。『自分は逃げてるんじゃないか』『甘えてるんじゃないか』って」

「何もできない自分」


ダイキ「今は、どんな風に過ごされてるんですか?」

タカシ「実家に戻ってきて......毎日、ほとんど何もしてないです。朝10時くらいに起きて、適当にご飯食べて、ネット見て、また寝て......」

タカシさんは、自分の生活を説明しながら、どんどん表情が暗くなっていった。

タカシ「親には『ゆっくり休みなさい』って言われてるんですけど......休めてないんです。頭の中が、ずっとざわざわしてて」

ダイキ「ざわざわ?」

タカシ「はい。『このままでいいのか』『早く次の仕事を探さないと』『貯金が減っていく』『自分は何もできない』......そういう考えが、ずっとぐるぐる回ってて」

タカシさんは、両手で頭を抱えた。

タカシ「夜も眠れないんです。布団に入っても、いろんなことが頭に浮かんで来て。気づいたら朝方まで、スマホでニュース見たり、転職サイト見たり......」

ダイキ「夜、どれくらい眠れてますか?」

タカシ「......たぶん、5時間くらい? でも、途中で何度も目が覚めるし、朝起きた時に『寝た』って感じがしないんです」

気づき──「休めていない休息」

ダイキ「タカシさん、一つお聞きしたいんですが......今、『休んでる』って感じはしますか?」

タカシさんは、少し考えてから答えた。

タカシ「......してないです」

ダイキ「してない」

タカシ「はい。会社には行ってないし、仕事もしてないんですけど......全然休んでる感じがしなくて。むしろ、常に何かに追われてるような......」

タカシさんは、言葉を探すように間を置いた。

タカシ「なんていうか、ずっと警戒してるような感じです。何かわからないけど、襲われないように、常に周りを見張ってるような......」

ダイキ「警戒してる」

タカシ「はい。言葉にすると変ですけど、そんな感じなんです」

私はタカシさんの言葉を受け止めて、少し間を置いた。

ダイキ「タカシさんがおっしゃってること、全然変じゃないと思いますよ。むしろ、すごく自然なことだと思います」

タカシ「......自然なことですか?」

ダイキ「はい。疲れている時、人は無意識に警戒モードに入るんです。動物に例えると分かりやすいんですが、動物って、怪我をしていたり体調が悪かったりする時、いつも以上に周囲を警戒しますよね」

タカシさんは、少し目を見開いた。

ダイキ「それは、弱っている時に襲われないようにするための、本能的な反応なんです。人間も同じで、心や体が疲れている時は、無意識に『何か危ないことが起きないか』って警戒してしまう」

タカシ「......あ」

タカシさんは、何かに気づいたような表情をした。

タカシ「だから、休んでるはずなのに、疲れるんですか?」

ダイキ「そうなんです。警戒するって、実はものすごくエネルギーを使うんですよ。だから、体は休めていても、心が休めていないと、疲れは取れないんです」

「刺激から離れる勇気」


タカシ「でも......どうやったら、この警戒をやめられるんですか? 意識してやめようと思っても、勝手に頭が動いちゃうんです」

ダイキ「今、夜寝る前とか、どんなことをされてますか?」

タカシ「んー......スマホ見てます。ニュース見たり、SNS見たり、転職サイト見たり......」

ダイキ「その情報、タカシさんにとって、どんな感じがしますか?」

タカシさんは、少し考えた。

タカシ「......不安になります。『このままじゃダメだ』『早く動かないと』って」

ダイキ「不安になる情報を、寝る前に取り込んでるんですね」

タカシさんは、ハッとした表情になった。

タカシ「あ......そうか。それで余計に眠れなくなって......」

ダイキ「はい。脳は、刺激的な情報に反応して、警戒モードに入ってしまうんです。特に今のタカシさんのように、疲れている状態だと、普段よりも情報に敏感になってしまう」

私は、少しゆっくりと話を続けた。

ダイキ「実は、多くの人が同じようなことをしています。メンタルが不調な時ほど、『何かしなきゃ』って焦って、転職活動したり、資格の勉強始めたり、新しいことに挑戦したり......」

タカシ「......はい、まさにそうです」

ダイキ「でも、それって実は逆効果なんです。本当に必要なのは、エネルギーを使う活動じゃなくて、エネルギーを抑えて、心と体を回復させることなんです」

タカシさんは、じっと私の目を見ていた。

ダイキ「具体的には、刺激的な情報から離れること。スマホ、ニュース、SNS、転職サイト......そういうものから、意識的に距離を置くことが大事なんです」

タカシ「でも......情報を見ないと、不安じゃないですか? 何も知らないまま、取り残されていくような......」

タカシさんの声に、切実さが滲んでいた。

ダイキ「その不安、よく分かります。でも、今のタカシさんに必要なのは、情報じゃなくて、安心できる時間なんです」

私は、タカシさんに問いかけた。

ダイキ「タカシさん、ちょっと想像してみてください。もし今日の夜、スマホを見ないで過ごしたら、どんな感じがすると思いますか?」

タカシさんは、目を閉じて考えた。

タカシ「......最初は、落ち着かない気がします。でも......」

少し間が空いた。

タカシ「......もしかしたら、少し楽になるかもしれないです」

涙の意味

ダイキ「『少し楽になるかもしれない』」

タカシ「はい......」

タカシさんは、そう答えたあと、急に黙り込んだ。

何かが、タカシさんの中で動いているのが分かった。

しばらくの沈黙の後、タカシさんはぽつりと言った。

タカシ「......ずっと、頑張らなきゃって思ってたんです」

ダイキ「頑張らなきゃ」

タカシ「はい。子供の頃から、ずっと。『頑張らないと認めてもらえない』『休んだら負けだ』って......」

タカシさんの声が震えた。

タカシ「会社辞めた時も、『これで休める』って思ったはずなのに......結局、休むことができなくて。『早く次を見つけなきゃ』『何かしなきゃ』って、また頑張ろうとして......」

タカシさんは、そこで言葉を詰まらせた。

タカシ「......でも、もう疲れたんです。本当に」

その瞬間、タカシさんの目から涙がこぼれた。

タカシ「休みたいんです。本当に、心から休みたい。でも、休み方が分からなくて......」

タカシさんは、両手で顔を覆った。肩が小刻みに震えている。

私は、タカシさんの涙を静かに見守った。

しばらくして、タカシさんは顔を上げた。目は赤かったが、どこか表情が柔らかくなっていた。

タカシ「......すみません、泣いちゃって」

ダイキ「いえ。大事なことに気づかれたんだと思います」

タカシ「......大事なこと?」

ダイキ「はい。タカシさんは、『休みたい』っていう、本当の気持ちに触れたんだと思います」

タカシさんは、ゆっくりと頷いた。

「まず19時以降は」


ダイキ「タカシさん、もし良かったら、一つ試してみませんか?」

タカシ「......はい」

ダイキ「今日から、19時以降は、スマホもパソコンも見ないって決めてみるんです。ニュースも、SNSも、転職サイトも、全部見ない」

タカシ「19時以降......」

ダイキ「はい。その代わりに、ゆっくりお風呂に入るとか、軽くストレッチするとか、深呼吸するとか......体の力を抜くことだけに集中してみる」

タカシさんは、少し不安そうな顔をした。

タカシ「それだけで、変わりますかね?」

ダイキ「すぐに劇的に変わることはないかもしれません。でも、少しずつ、警戒モードが緩んでいくはずです」

ダイキ「あと、もう一つ。もし眠れない夜があっても、『眠れない自分はダメだ』って責めないでください。『今は疲れてるから、警戒してるんだな』って、優しく受け止めてあげてください」

タカシさんは、ゆっくりと頷いた。

タカシ「......やってみます。19時以降は、スマホ見ないって決めてみます」

ダイキ「それと、もし外に出られそうなら、5分だけでいいので、散歩してみてください。自然に触れるだけで、心が落ち着くことがあります」

タカシ「5分......それくらいなら、できそうです」

タカシさんは、初めて少し明るい表情を見せた。

カウンセリングを終えて


カウンセリングの最後、タカシさんは立ち上がる前に、もう一度言った。

タカシ「今日、来てよかったです。『休んでるのに疲れる』って、自分がおかしいんじゃないかって思ってたんですけど......そうじゃなかったんですね」

ダイキ「おかしくないですよ。むしろ、自然な反応です。ただ、その反応に気づいて、少しずつ緩めていくことが大事なんです」

タカシ「はい......まずは、19時以降、スマホを見ないこと。それから始めてみます」

タカシさんは、ドアを開ける前に振り返って、小さく笑った。

タカシ「なんか、ちょっと肩が軽くなった気がします」

その言葉に、私も微笑んだ。

数週間後──

タカシさんから、メールが届いた。

「ダイキさん、あれから19時以降のスマホ断ち、続けています。最初の数日は落ち着かなかったですが、だんだん慣れてきました。夜、ゆっくりお風呂に入って、深呼吸してから寝るようにしたら、少しずつ眠れるようになってきた気がします。朝起きた時の『寝た感』も、前より感じられるようになりました。まだ完全に疲れが取れたわけじゃないですが、焦りは少し減った気がします。散歩も、近所の公園まで歩くようになりました。5分のつもりが、気づいたら15分くらい歩いてたりします(笑)。ゆっくり、自分のペースで回復していきます」



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