何も決められない
カウンセリングルームに入ってきたクライエントは、落ち着かない様子でソファに座った。
クライエント「あの...今日、何を話せばいいのかも、よくわからなくて」
ダイキ「そうなんですね。それでも、ここに来てくださった。それ自体が、一つの選択だと思いますよ」
クライエント「ああ...そうですね。でも、正直、予約するのにも3週間くらい悩んだんです。カウンセリングって受けていいものなのかなって」
少し間があいた。窓の外から、街の音が小さく聞こえてくる。
ダイキ「受けていいものなのか...そう思ったんですね」
クライエント「はい。だって、別に病気とかじゃないし。ただ...なんか、自分で何も決められなくて」
そう言って、クライエントは視線を落とした。
「正しい答え」を探していた
ダイキ「決められない、というのは?」
クライエント「仕事を辞めて、もう4ヶ月なんです。最初は少し休んで、それから次を探そうって思ってたんですけど...」
クライエント「何がしたいのか、わからなくて。転職サイトも見るんですけど、どれも『これだ』って思えなくて。友達には『好きなことやればいいじゃん』って言われるけど、好きなことも、よくわからなくて」
言葉を続けるうちに、クライエントの声は少しずつ小さくなっていった。
ダイキ「好きなこと、やりたいこと...それを見つけなきゃいけない、と?」
クライエント「そうです。みんな、ちゃんと自分のやりたいこと見つけてるじゃないですか。私だけ、何もわからなくて」
ダイキ「じゃあ、ちょっと聞いてみたいんですが。今まで、自分で何かを選んだって感じたこと、ありますか?」
その質問に、クライエントは少し考え込んだ。
クライエント「...ないかもしれません」
「いい子」でいなきゃいけなかった
クライエント「小さい頃から、親に『こうしなさい』って言われることが多くて。習い事も、学校も、全部親が決めてました」
クライエント「でも、それって普通のことだと思ってたんです。親は私のためを思って言ってくれてるって」
ダイキ「そうだったんですね」
クライエント「高校も、親が『この学校がいい』って言った学校に行って。大学は...正直、行きたくなかったんですけど、『女の子も大学くらい出ておかないと』って言われて」
クライエント「就職も、親が『安定してる仕事がいい』って言うから、販売の仕事を選んで。結局、10年働いたんですけど...」
そこで、クライエントは言葉を詰まらせた。
クライエント「辞めたのも、結局、体を壊したからで。自分で『辞めたい』って思って辞めたわけじゃないんです」
ダイキ「...体を壊すまで、続けていたんですね」
クライエント「はい。だって、みんな頑張ってるのに、私だけ辞めるなんて...甘えかなって」
その声は、どこか諦めたような響きだった。
「選んでいいんですか?」
ダイキ「今、ここにいる理由も、誰かに言われたからですか?」
クライエント「いえ...これは、自分で決めました。友達に『カウンセリング受けてみたら?』って言われたんですけど、どこに行くかは自分で選んで」
そう言って、クライエントは少し顔を上げた。
ダイキ「それ、すごいことですよ」
クライエント「え?」
ダイキ「自分で選んだんですよね。どこのカウンセリングに行くか」
クライエント「...そうですね。でも、それくらい...」
ダイキ「それくらい、じゃないと思いますよ。選択肢がいくつもある中で、ここを選んだ。それって、立派な『自分で決める』ですよね」
クライエントは、少し戸惑ったような表情を見せた。
クライエント「でも...それって、小さいことじゃないですか」
ダイキ「小さい、大きいって、誰が決めるんでしょう?」
クライエント「...」
ダイキ「転職先を決めることは大きくて、カウンセリングを選ぶことは小さいって、本当にそうですか?」
その言葉に、クライエントは何かを考えるように黙り込んだ。静かな時間が流れた。
小さな選択から
クライエント「...考えたことなかったです」
ダイキ「実は、人生の主導権を取り戻すって、大きな決断をすることじゃないんです。小さな選択を、自分でする。それの積み重ねなんですよ」
クライエント「小さな選択...」
ダイキ「たとえば、今日ここに来る前、何か選びましたか? 朝ごはん、服、来る時の道...何でもいいんです」
クライエント「ああ...服は、悩みました。何を着ていけばいいのかなって」
ダイキ「で、どうしました?」
クライエント「結局、一番落ち着く服を選びました。グレーのセーターです」
ダイキ「それ、誰かに決めてもらいましたか?」
クライエント「いえ...自分で」
ダイキ「そう。自分で選んだんですよね。『一番落ち着く服』って」
クライエントは、自分が着ている服を見下ろした。
クライエント「...そっか。これ、私が選んだんだ」
その瞬間、クライエントの表情が、少しだけ柔らかくなった。
「正解」はなくていい
ダイキ「なぜ、その服を選んだんですか?」
クライエント「...落ち着くからです。初めての場所だから、緊張すると思って」
ダイキ「なるほど。じゃあ、それって『正しい選択』でしたか?」
クライエント「正しいかどうか...わからないです。でも、実際、落ち着けてる気がします」
ダイキ「それでいいんじゃないですか」
クライエント「え?」
ダイキ「正しいかどうかじゃなくて、自分がどう感じるか。それが選択の基準になっていいと思うんです」
クライエントは、少し驚いたような顔をした。
クライエント「でも...正しい選択をしないと、失敗するじゃないですか」
ダイキ「失敗って、何ですか?」
クライエント「...」
ダイキ「たとえば、今日、別の服を選んでいたとして。それで緊張しすぎて話せなかったとしても、それって失敗ですか?」
クライエント「...そう言われると、わからなくなってきました」
ダイキ「選択に正解も不正解もないんです。ただ、自分がどう感じるかがあるだけで」
初めての「自分の感覚」
しばらく沈黙が続いた。クライエントは、何かを考え込むように視線を落としている。
クライエント「...私、ずっと『正しい答え』を探してたのかもしれません」
ダイキ「正しい答え?」
クライエント「はい。親が望む答え、会社が求める答え、社会が期待する答え。それが『正しい』って思ってて」
クライエント「だから、自分がどう感じるかなんて、考えたこともなかったんです」
その声は、震えていた。
クライエント「転職先も、『この会社なら親も安心する』とか、『この仕事なら世間体がいい』とか...そういうことばっかり考えてて」
クライエント「でも...私、本当は何がしたいんだろうって」
涙が一粒、クライエントの頬を伝った。
ダイキ「...今、気づいたんですね」
クライエント「はい...。今まで、一度も自分に聞いたことなかったです。『あなたは、何がしたい?』って」
今日、一つだけ
涙を拭いながら、クライエントは少しだけ笑った。
クライエント「なんか...変ですよね。32歳にもなって、今さらこんなこと」
ダイキ「変じゃないですよ。気づいたタイミングが、今だっただけで」
クライエント「...そうですね」
ダイキ「で、一つ提案があるんですが」
クライエント「はい」
ダイキ「今日、帰る時、何か一つだけ、自分で選んでみませんか? 帰り道でも、晩ご飯でも、何でもいいです」
ダイキ「ただし、条件が一つ。『正しいかどうか』じゃなくて、『自分がどう感じるか』で選ぶ」
クライエントは、少し考えてから頷いた。
クライエント「...やってみます」
ダイキ「どんなに小さなことでもいいんです。コンビニで飲み物を買う時、いつもと違うものを選ぶとか」
クライエント「いつもと違うもの...」
ダイキ「大事なのは、その時『これを飲みたい』って自分が感じたものを選ぶこと。『これが健康的だから』とか『これが安いから』とかじゃなくて」
クライエント「...なるほど」
人生の主導権
カウンセリングの時間が終わりに近づいていた。
クライエント「あの...今日、来て良かったです」
ダイキ「そうですか」
クライエント「はい。なんか...ちょっとだけ、肩の力が抜けた気がします」
クライエント「人生の主導権を取り戻すって、もっと大変なことだと思ってました。大きな決断をしなきゃいけないとか、勇気を出さなきゃいけないとか」
ダイキ「そうですね。でも実は、小さな選択を自分でする。それだけなんです」
クライエント「小さな選択...」
ダイキ「今日の服も、今日ここに来たことも、帰りに選ぶ飲み物も。全部、あなたの選択です」
ダイキ「それを積み重ねていくうちに、気づいたら『あ、私、自分の人生を生きてるな』って思える瞬間が来ると思いますよ」
クライエントは、深く頷いた。
クライエント「...ありがとうございます」
翌週、クライエントから連絡があった。
「あの日、帰りにコンビニで飲み物を買いました。いつもは無糖のお茶なんですが、その時『甘いものが飲みたい』って思って、ミルクティーを選びました。すごく小さなことなんですけど...なんだか、自分を取り戻せた気がしました」
人生の主導権を取り戻すことは、特別な才能も、大きな勇気も必要ない。
ただ、今日、一つだけ。自分の感覚に従って、何かを選ぶ。
それだけで、人は少しずつ、自分の人生を生き始める。