「何もしない」ができない
カウンセリングルームに入ってきた彼は、少し疲れた表情をしていた。座るなり、手帳を取り出してパラパラとめくる。
クライエント「あの、実は今日も来る前に迷ったんです。カウンセリングを受けるより、自分で考えた方がいいんじゃないかって」
ダイキ「迷われたんですね。それでも来てくださったんですね」
クライエント「はい……でも、もう8ヶ月も経つのに、まだ何も見えなくて」
彼は手帳に書かれたメモを見せた。そこには、受けた診断テストの結果、参加したセミナーのリスト、読んだ本のタイトルがびっしりと記されていた。
ダイキ「たくさん取り組んでこられたんですね」
クライエント「ええ。ストレングスファインダーも、エニアグラムも、価値観カードも。自己分析のワークショップにも3つ参加しました。でも……」
彼は言葉に詰まった。
クライエント「分かったような気がしても、結局何も変わらないんです。むしろ、考えれば考えるほど、自分が分からなくなる」
ダイキ「考えれば考えるほど、分からなくなる」
クライエント「はい。夜、布団に入っても、ずっと考えてしまうんです。『本当の自分って何だろう』『これからどうすればいいんだろう』って。気づいたら朝で、全然寝た気がしなくて……」
彼の目の下には、うっすらとクマができていた。
「何かしなきゃ」の正体
ダイキ「たくさん考えてこられたんですね。ちょっと伺ってもいいですか。その考える時間は、どんな感じですか?」
クライエント「どんな感じ……ですか?」
ダイキ「ええ。心地いいとか、苦しいとか」
クライエントは少し考え込んだ。
クライエント「……苦しいです。でも、考えないといけないような気がして」
ダイキ「考えないといけない」
クライエント「はい。だって、このままじゃいけないじゃないですか。もう40代だし、次の仕事を見つけないといけないし。そのためには、自分のことをちゃんと分かってないと……」
彼の声には、焦りが滲んでいた。
ダイキ「『ちゃんと分かってないといけない』と思っているんですね」
クライエント「そうです。前の会社では、いつも『もっと自分を理解しろ』『強みを活かせ』って言われてきました。だから退職してから、ちゃんと向き合おうと思って。でも……」
言葉が途切れた。少しの沈黙の後、彼は小さな声で続けた。
クライエント「……何も見えないんです。いくら考えても」
内省と反芻思考の違い
ダイキ「いくら考えても、何も見えない。それは、とても苦しいですね」
クライエントは頷いた。
ダイキ「ひとつ伺ってもいいですか。その『考える』っていうのは、具体的にはどんなことを考えているんですか?」
クライエント「えーと……自分の強みは何だろう、とか。どんな仕事が向いてるんだろう、とか。でも、考えても答えが出なくて、また同じことを繰り返し考えて……」
ダイキ「同じことを繰り返し考えて」
クライエント「はい。『やっぱり自分はダメなんじゃないか』『前の会社を辞めたのは間違いだったんじゃないか』って」
彼は手で顔を覆った。
ダイキは静かに待った。しばらくして、クライエントが顔を上げた。
ダイキ「今お話しいただいたこと、実は『内省』ではないかもしれません」
クライエント「え?」
ダイキ「同じことを繰り返し考えて、苦しくなる。それは『反芻思考』と呼ばれるものです」
クライエント「反芻……思考?」
ダイキ「ええ。牛が食べたものを何度も口に戻して噛むように、同じ考えを何度も繰り返してしまう。でも、それでは新しいものは見えてこないんです」
クライエントは驚いたように目を見開いた。
クライエント「じゃあ、僕がやってきたことは……」
ダイキ「内省しようとして、反芻してしまっていたのかもしれません」
「何もしない」勇気
クライエント「でも、どうすればいいんですか。考えないわけにはいかないですよね」
ダイキ「考えないわけには、いかない?」
クライエント「だって、このままボーッとしてたら、何も変わらないじゃないですか」
ダイキ「何も変わらない、と感じるんですね」
クライエントは少しイライラした様子で言った。
クライエント「感じるっていうか……そうでしょう? 考えて、行動して、変わっていかないと」
ダイキ「そうですね、確かにそういう面もあります。でも……」
ダイキは少し間を置いた。
ダイキ「今必要なのは、『何かする』ことではなく、『何もしない』ことかもしれません」
クライエント「何も……しない?」
ダイキ「ええ。例えば、8ヶ月間、たくさんのセミナーに参加して、たくさん考えてこられた。でも、疲れてしまっているように見えます」
クライエントは黙って頷いた。
ダイキ「人にはエネルギーがあります。そのエネルギーを使い続けると、どこかで充電が必要になる。でも、充電しようとしても、考えることでエネルギーを使ってしまっていたら……」
クライエント「充電できない……」
ダイキ「そうです。むしろ、どんどん消耗していってしまう」
クライエントは深いため息をついた。
クライエント「でも、何もしないなんて……なんだか、怖いです」
ダイキ「怖い」
クライエント「はい。何もしないでいたら、取り残されるような気がして」
その言葉を口にした瞬間、クライエントの目に涙が浮かんだ。
刺激を減らす、という選択
ダイキ「取り残されるような気がする。それは、とても不安ですね」
クライエントは涙を拭いながら頷いた。
ダイキ「ひとつ、提案してもいいですか」
クライエント「はい……」
ダイキ「まず、刺激を減らしてみませんか」
クライエント「刺激……ですか?」
ダイキ「ええ。例えば、ニュースを見るのをやめる。SNSを見るのをやめる。新しいセミナーに参加するのもやめる」
クライエント「でも、それじゃあ情報が入ってこないじゃないですか」
ダイキ「そうですね。でも、今の○○さんは、情報が足りないんでしょうか」
クライエントははっとした表情になった。
クライエント「……足りない、というか。むしろ、多すぎるのかもしれません」
ダイキ「多すぎる」
クライエント「はい。頭の中が、いつもゴチャゴチャしているんです。あれもこれもやらなきゃって」
ダイキ「それは、とても疲れますね」
クライエントは大きく頷いた。
ダイキ「刺激を減らすというのは、その『あれもこれも』から、少し距離を取るということです」
クライエント「距離を……」
ダイキ「ええ。完全にやめなくてもいい。でも、1週間だけでも、新しい情報を入れるのをやめてみる。そうすると、頭の中が少し静かになるかもしれません」
ただ「いる」時間
クライエント「でも、何もしないで、ただボーッとするんですか?」
ダイキ「ボーッとする、でもいいですし、散歩するのもいいかもしれません」
クライエント「散歩……」
ダイキ「ええ。特に目的なく、ただ歩く。あるいは、公園のベンチに座って、ただ空を見る」
クライエント「それで、何か変わるんですか?」
ダイキ「すぐには変わらないかもしれません。でも、こんなふうに考えてみてください。ずっと全速力で走り続けてきた」
クライエントは頷いた。
ダイキ「でも、走り続けていると、周りの景色は見えません。立ち止まって初めて、見えてくるものがある」
クライエント「……」
ダイキ「内省というのは、何かを『する』ことではなく、ただ『いる』ことかもしれません」
クライエントは黙って聞いていた。
ダイキ「考えようとしなくても、ふとした瞬間に、自分の本当の気持ちが浮かんでくることがあります。でも、頭がゴチャゴチャしていたら、その声は聞こえない」
クライエント「ふとした瞬間に……」
ダイキ「そうです。例えば、散歩していて、綺麗な花を見つけた時。あるいは、お風呂に入っている時。そういう時に、『あ、自分ってこう感じてたんだ』って気づくことがあります」
クライエントは少し考え込むような表情になった。
クライエント「確かに……前の会社にいた時、通勤中にふと『このままでいいのかな』って思ったことがありました」
ダイキ「そうですか」
クライエント「でも、その時はすぐに『考えても仕方ない』って打ち消してしまって……」
ダイキ「その『このままでいいのかな』という声、それが本当の自分の声だったのかもしれませんね」
クライエントは深く頷いた。
小さな一歩
カウンセリングが終わりに近づいた頃、クライエントが尋ねた。
クライエント「具体的には、何から始めればいいですか」
ダイキ「そうですね。まず、1週間だけやってみませんか」
クライエント「1週間……」
ダイキ「ええ。朝、起きたら、スマホを見ない。ニュースもSNSも見ない。代わりに、窓を開けて、外の空気を吸ってみる」
クライエント「それだけ、ですか?」
ダイキ「それだけです。あと、もし時間があれば、近くを10分だけ歩いてみる。目的はなくていいです。ただ歩く」
クライエント「10分……それならできそうです」
ダイキ「もし、何か考えが浮かんできたら、それを無理に追いかけなくてもいい。ただ、『今、こんなことを考えてるな』って気づくだけで十分です」
クライエント「気づくだけ……」
ダイキ「ええ。答えを出そうとしなくていい。ただ、自分の中に何があるか、気づいてみる」
クライエントは手帳を閉じた。
クライエント「分かりました。やってみます」
ダイキ「無理しなくていいですよ。疲れたら、またいつでも来てください」
クライエントは小さく笑った。
クライエント「なんだか、許可をもらったみたいで、少し楽になりました」
ダイキ「許可……」
クライエント「はい。『何もしなくてもいい』っていう」
3週間後
3週間後、再びカウンセリングルームを訪れた彼は、以前よりも表情が柔らかくなっていた。
ダイキ「どうでしたか」
クライエント「不思議なんですけど……何もしてないのに、少し楽になったんです」
ダイキ「楽になった」
クライエント「はい。最初の3日間くらいは、すごくソワソワして。でも、1週間過ぎた頃から、朝の空気を吸うのが気持ちよくなってきて」
ダイキ「気持ちよくなってきた」
クライエント「ええ。それで、散歩も続けてたんです。そしたら、ふと思ったんです」
クライエントは少し照れたように笑った。
クライエント「僕、本当は新しい仕事を探すより、しばらくゆっくりしたいんだなって」
ダイキ「ゆっくりしたい」
クライエント「はい。前の会社では、ずっと走り続けてきた。でも、それで疲れ切ってしまってた。だから、今は少し休みたいんだって」
ダイキ「それが、今の本当の気持ちなんですね」
クライエント「そうです。考えて考えて出した答えじゃなくて、ふと浮かんできた感じです」
ダイキ「ふと浮かんできた」
クライエント「はい。それで、急に肩の力が抜けたんです」
エピローグ
クライエントはその後も、朝の習慣を続けた。
スマホを見ない代わりに窓を開ける。 SNSをチェックする代わりに散歩する。 新しいセミナーを探す代わりに、ただ座っている。
すると、少しずつ、自分の中から声が聞こえてきた。
「疲れてる」 「休みたい」 「ゆっくり歩きたい」
それは、診断テストが教えてくれることでも、セミナーで学べることでもなかった。
ただ、自分の中に、ずっとあったもの。
刺激を減らし、静かな時間を持つことで、ようやく聞こえてきた声だった。
内省とは、何かを「する」ことではなく、ただ「いる」こと。
その答えに、彼はゆっくりと辿り着いていった。