心理カウンセラーという仕事は、どこか本質的な孤独を抱えています。なぜなら、私たちが携わることのできる「武器」は、言葉のほかにはないからです。
医師であれば、お薬の処方や強制入院といった法的な権限を行使することができます。
しかし、私たちカウンセラーは、医師にそれを上申することはできても、自らの手で処方したり入院させたりすることはできません。ただひたすらに傾聴し、対話を重ねること。言葉と言葉を丁寧に織り合わせながら、患者様との信頼を辞書の一ページのように、一枚一枚、厚く積み重ねていくほかないのです。
かつて私の師は「私は希死念慮の実行を止めることはできないわよ」と言い切っていました。
事実、師が担当していた患者様の中には、自ら命を絶たれてしまったケースもあります。
では、私の師はカウンセラーとして失格だったのでしょうか。
私は決してそうは思いません。
医師でさえも自死を食い止められなかった例は、ここで語るまでもなく枚挙にいとまがないからです。
私がココナラの免責事項に「急性期における希死念慮、および自死に至った場合」と掲げているのも、この時期の衝動が「死へと突き進む暴走状態」にあるからにほかなりません。
それはまるで、死というゴールへ向かって猛スピードで突進してくる車の前に、生身で立ちはだかるようなものです。「予兆を察して、止めることはできないのか」と思われるかもしれません。
たとえば自傷行為に及ぶときなどが、その予兆に含まれると考えられがちです。
しかし、あくまで私個人の見解ですが、自傷行為とは「外の社会に向けて、自分の理不尽さや不条理さを訴えたい(アサーションしたい)」わけではないと感じています。すべてとは言いませんが、それは自己のキャパシティを超えて脳がオーバーヒートしてしまったり、理不尽に耐えかねたりした結果、本人の「内側で爆発してしまうダイナマイト」のようなものだと思うのです。
ダイナマイトに火がつくその瞬間、医師は措置入院や投薬という手段で「導火線をぶち切る」ことができます。
では、カウンセラーには何ができるでしょうか。私は、言葉によって築いた圧倒的な信頼の力で、その「ダイナマイトそのものを手放させる」ことができると信じています。
なぜなら、医師の診察時間に比べ、カウンセラーが向き合う臨床の時間は圧倒的に長く、それゆえに深い信頼関係を築けていることが往々にしてあるからです。
たとえ心の暴発という危険があっても、辞書のように厚く積み重ねてきた「信頼という名の盾」があれば、悲劇を免れることができるかもしれません。
それこそが、心理カウンセラーの気概であり、矜持です。もちろん、その過程では苦汁をなめ、辛酸をなめることもあります。
それでもなお、患者様の人生に寄り添い続けようとする姿勢。
それがあるからこそ、医師の臨床とカウンセラーの臨床は「車の両輪」であり、背負っている責任の重さは同じなのだと、私は考えております。
心が張り裂けそうな「おぼつかない夜」に、手の中にダイナマイトを握りしめてしまったとき、いつでも手を差し伸べられる存在でありたい。
それこそが、私がココナラで深夜から早朝にかけて待機時間を設けている理由なのかもしれません。
この深い闇が明けるまでの待機時間こそ、私がカウンセラーとしての命を燃やし、誰かの夜明けを待ち続ける、大切な時間なのです。そして、それが私の「気概と矜持」なのですから。
沙門蒼俊 合掌