【まじめなエッセイ】赤飯とバイアス

【まじめなエッセイ】赤飯とバイアス

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コラム
蒼俊は、このニュースを最近、知ったのですが、ふたつの想いが頭をよぎりました。

「赤飯」と「バイアス」

 「赤飯2100食廃棄問題」というニュースを目にしたとき、私たちの心にはさまざまな感情や意見が湧き上がります。
 世間の声に耳を傾けると、「たった1本のクレームで大量の食事を捨てるなんて、教育委員会の過剰反応であり、事なかれ主義だ」という批判的な見方が圧倒的多数を占めているようです。
 せっかく作られた食べ物が無駄になってしまったことへの痛念は、誰もが共通して抱くものでしょう。

 しかし、この問題を少し大局的な視点から、そして私たちが陥りがちな「バイアス」を排して見つめ直してみると、また違った景色が浮かび上がってきます。
 発生地となったのは、東日本大震災で甚大な被害を受けた福島県いわき市でした。地元の人々にとって「3月11日」という日付の持つ重みは、言葉に尽くせないものがあります。
 津波などで多くの大切な命が失われたその日は、特別な「追悼の日」です。そこに「お祝いの象徴」としてのイメージが強い赤飯を出すこと自体、事前の配慮が不足していたのではないか、日程をずらすべきだったのではないかという指摘には、被災地ならではの切実な心情が表れています。

 実は、これと全く同じ構図の議論が、かつて東日本大震災の現場そのものでも起きていました。自衛隊の戦闘糧食(いわゆる「缶飯」)には、かつて缶詰タイプの赤飯が存在していました。もち米を使った赤飯は非常に栄養価が高く、腹持ちも良いため、過酷な任務にあたる隊員たちにとって、味も良く大変優れたエネルギー源だったのです。
 震災当時、救助活動に奔走していた隊員たちは、被災者の心情に寄り添い、食事をしている姿が周囲に見えないよう細心の配慮をしていました。しかし、その実用的な理由から赤飯を口にしていた場面がマスコミによって心ない形で「暴露」されると、世間では「このような災難の時に赤飯とは何事か」という批判の声が上がってしまいます。

 本来、命がけで任務に全うする隊員たちの貴重な糧食であったはずの赤飯が、感情的なバッシングの対象となり、歪められた国民感情によって最終的に自衛隊のメニューから赤飯が廃止されるという苦い経緯をたどることとなりました。
 この過去の事例は、赤飯が「単なるお祝いの品」ではなく、優れた機能性を持つ食であるという事実を教えてくれます。

 同時に、文化的な意味合いに目を向ければ、やはり異なるアプローチが見えてきます。

 仏教の儀礼や一部の地域において、赤飯は弔事(葬儀や法事)にも深く関わる重要な食文化です。
 小豆の「赤色」には古来より魔除けや邪気払いの力があると信じられてきました。
 お彼岸やお盆といった不安定な時期に、災いを避けるためにお仏壇へお供えされるのもそのためです。
 さらに、かつて米や小豆が非常に貴重だった時代、赤飯は「最上級のおもてなし」を意味する最高級のご馳走でした。
 そのため、祥月命日や四十九日といった故人の特別な節目には、感謝と敬意、そして故人の冥福や往生を願う「供養」として、普段の白いご飯の代わりに赤飯をお供えする文化が息づいています。
 まさに「災いを転じて福となす」ための食でもあったのです。こうした歴史や機能性を鑑みれば、「震災の日だからこそ、追悼と災難除けの願いを込めて、子供たちに食べさせればよかったのではないか」という意見にも、深い説得力が宿ります。

 この問題の本質は、「ひとつの批判(不謹慎だ)を避けようとした結果、別の批判(食べ物を捨てるな)を浴びてしまう」という、現代の組織が直面するクレーマー対応といわゆるカスハラの対応に行政が追い付けていない現実という難しさにあります。

 目の前のたった一つの意見に惑わされることなく、機能的な価値、文化的な背景、そして地域が抱える多様な感情を大局的に見つめること。それがいかに難しいか、そしていかに大切であるかを、この2100食の赤飯は私たちに静かに問いかけている気がいたします。

                         沙門蒼俊   合掌
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