「苦しいけれど、まだ頑張れます」
その言葉が口をついて出る、もしくはそう考えたとき、私たちの身体と心は、すでに本当の限界を迎えているのかもしれません。
私たちはいつの間にか、限界を超えてエネルギーを振り絞ることを「努力」と呼んでしまいます。
仕事が思うように進まない、普段の3割もできていない。そんな実感を抱えながらも、「働きたい」という気持ちや責任感から、必死に机に向かい続けることがあります。
しかし、周囲の上司や家族から「一度、精神科へ行ってきなさい」と言われるほどの状態であるなら、それは決して気のせいでも、サボりでもありません。うつという、適切な治療が必要な「立派な病気」のサインなのです。
何より確かな心身のバロメーターは、日々の食事と睡眠に現れます。美味しく食べられているか、ぐっすり眠れているか。この当たり前の日常が崩れているのなら、周りの言葉に耳を傾け、立ち止まる勇気を持つべき時なのでしょう。
医療の場において、医師は患者本人の人権を尊重します。そのため、インフォームドコンセント(説明と同意)の場面でも、「休職しなさい」と強制することは滅多にありません。
多くは「少し休職をしませんか?」という、提案の形をとります。
だからこそ、
「医者から明確に休めと言われたわけではないから、まだ大丈夫」
と解釈してしまうのは誤解です。
医師が強制力を持って入院などの措置を執るのは、希死念慮や妄想など、命の危険が迫っている極限状態に限られます。
医師が提案する休職は、労働者に守られた「休む権利」を本人が使えるようにするための、そっと差し伸べられた手なのです。
ここで、ひとつの疑問が浮かぶかもしれません。医師は薬を処方し、時には強制力を持つ特別な存在ですが、一方で、薬も処方できず、強制的な権限も持たない「カウンセラー」は、なぜ存在するのでしょうか。
それは、両者が生きづらさに対してアプローチする「眼差し」が異なるからです。
医師は主に「医学的見地」を主眼に置き、脳の機能不全を整え、お薬や診断によって患者を守ろうとします。
対してカウンセラーは、その手前にある「人の感情」や「心の葛藤」に主眼を置いています。
「周りは休めと言うけれど、どうしても休めない」
「働かなければ自分に価値がないように思えてしまう」
といった、本人の割り切れない気持ちや、凝り固まった認知の糸を、対話を通して丁寧に解きほぐしていくのです。
自分のうつがどれくらい酷いのか、自分自身ではなかなか客観的には分からないものです。
だからこそ、もし身近な人から「休みたい」と打ち明けられたなら、私たちは迷わずドクターストップをかける存在でありたいと思います。
そして自分自身が限界の渦中にいるのなら、どうかそのエネルギーを振り絞るのをやめ、差し伸べられた医療の手を頼っていただきたいのです。
休むことは、決して終わりではなく、自分を取り戻すための大切な権利なのですから。
沙門蒼俊 合掌