ある小学校で、落ち着いて座っていられない子がいました。
授業中に立ち上がる。
何度注意しても、また動いてしまう。
先生は困っていました。
授業を進めなければならない。
他の子どもたちも見ている。
「この子だけ特別扱いはできない」
そう思ったのかもしれません。
けれど、ある日、その指導は一線を越えました。
子どもの体を無理に押さえる。
人前で強い言葉を浴びせる。
泣いている子どもに、「また泣くのか」と言う。
その瞬間、教室は静かになったかもしれません。
でも、子どもの心の中には、深い傷が残りました。
子どもは、わざと困らせていたのでしょうか。
本当に、ただ反抗していたのでしょうか。
もしかすると、その子は音や刺激に敏感だったのかもしれません。
体を動かさないと落ち着けなかったのかもしれません。
何をすればよいのか、見通しが持てず不安だったのかもしれません。
必要だったのは、力で止めることではなく、理由を見つけることでした。
中学校でも、似たようなことが起こります。
思春期の子どもは、大人の言葉に強く反応します。
みんなの前で叱られる。
理由を聞かれずに決めつけられる。
「お前が悪い」と一方的に責められる。
それだけで、心の中に逃げ場がなくなる子がいます。
ある生徒は、先生から強く指導されたあと、学校に行けなくなりました。
周囲から見れば、「少し厳しく叱られただけ」に見えたかもしれません。
けれど、本人にとっては違いました。
あの教室に入ると、また責められる気がする。
先生の声を聞くだけで、体が固まる。
友達の視線が怖い。
そうして、学校という場所そのものが、安心できない場所に変わってしまったのです。
高校では、部活動の中で不適切な指導が起こることがあります。
「強くするため」
「勝たせるため」
「本人のため」
そうした言葉のもとで、怒鳴る、追い込む、人格を否定する、体罰を加える。
指導者は、熱心だったのかもしれません。
本気で勝たせたいと思っていたのかもしれません。
しかし、子どもにとって、それが恐怖になることがあります。
逃げ場のない上下関係の中で、子どもは「つらい」と言えなくなります。
「自分が弱いだけだ」
「自分が悪いから怒られる」
「ここで逃げたら終わりだ」
そう思い込んでしまう子もいます。
教育の怖さは、ここにあります。
大人が「指導」だと思っていることが、子どもにとっては「否定」や「排除」になることがあるのです。
もちろん、学校の先生方の多くは、子どものために懸命に働いています。
現場は忙しく、先生も追い詰められています。
一人で多くの子どもを見て、保護者対応をし、授業をし、行事を進め、部活動まで抱える。
その大変さを無視して、先生だけを責めることはできません。
けれど、それでも守らなければならない一線があります。
子どもの尊厳を傷つけてはいけない。
恐怖で従わせてはいけない。
人前で恥をかかせてはいけない。
言い分を聞かずに決めつけてはいけない。
指導したあと、子どもを一人にしてはいけない。
教育とは、子どもを黙らせることではありません。
子どもが、自分の行動を振り返り、もう一度立ち上がれるように支えることです。
不適切な指導の本当の問題は、その場の痛みだけではありません。
その後に続く、長い苦しみです。
学校に行けなくなる。
大人を信じられなくなる。
自分はダメな人間だと思い込む。
家庭の中に不安が広がる。
親が自分を責める。
子どもも親も、少しずつ孤立していく。
だからこそ、私は伝えたいのです。
もしお子さんが、学校の指導で深く傷ついたなら。
もし、学校に行けなくなった理由が、先生の言葉や対応にあるかもしれないと感じているなら。
それは、決して親のせいだけではありません。
お子さんが弱いからでもありません。
子どもの心が「これ以上は苦しい」と教えてくれているのかもしれません。
大切なのは、もう一度、その子が安心できる大人と出会うことです。
学校でも家庭でもない、第三の場所が必要なこともあります。
自分の話を否定せずに聞いてくれる人。
「あなたは悪くない」と言ってくれる人。
勉強より先に、心の回復を見てくれる人。
その子の特性や感受性を理解しようとしてくれる人。
そういう場所と人に出会えたとき、子どもは少しずつ変わります。
朝、少し表情がやわらぐ。
好きなことを話し始める。
短い時間なら外に出られる。
誰かと笑える。
一問だけ、勉強に向かえる。
それは小さな一歩に見えるかもしれません。
でも、傷ついた子どもにとっては、とても大きな一歩です。
私は、不登校、ギフテッド、2E、発達特性のあるお子さんと、そのご家庭を支える活動をしています。
また、そうした子どもたちが安心して過ごせる「ギフテッド食堂」にも取り組んでいます。
そこは、ただ食事をする場所ではありません。
学校で傷ついた子が、少しだけ肩の力を抜ける場所。
家庭だけで抱え込んできた保護者が、「一人じゃなかった」と思える場所。
子どもが、自分のままでいてもよいと感じられる場所。
私は、そんな居場所をつくりたいと思っています。
不適切な指導で傷ついた子どもに必要なのは、さらに厳しい指導ではありません。
安心できる関係です。
もう一度、自分を信じられる時間です。
お子さんの居場所は、学校だけではありません。
私が、その子にとって安心できる大人の一人になれるかもしれません。
お子さんが受けた傷を、なかったことにはできません。
けれど、その傷の先に、もう一度立ち上がる道を一緒に探すことはできます。
子どもを守ること。
家庭を守ること。
そして、その子の未来を守ること。
それが、これからの教育支援に必要なまなざしだと思っています。