森は最初から置かれていない
森というものは、最初から一つの物として地面に置かれているわけではありません。
そこにあるのは、木や土や湿り気のような、ばらばらの事柄です。
匂いも光も風も、その場ごとに起きています。
では、森とは何でしょうか。
森とは、無数の事柄を、ある目的のためにまとめた名前だと考えられます。
概念は圧縮であり、欠けるものが出る
森と呼ぶとき、私たちは境界を決めています。
どこからが森か。
どこまでが森か。
本数なのか、密度なのか、連なりなのか。
決め方は目的によって変わります。
目的はさまざまです。
木材を得るための資材のまとまりとして見るのか、
生態系を守るための生命のつながりとして見るのか、
あるいは単に迷い込みたくない場所として見るのかで、同じ場所の扱いが変わります。
このとき、事実と概念が同じ文章の中で混ざりやすくなります。
木があるのは事実です。
湿り気があるのも事実です。
一方で、森という輪郭は、事実そのものというより、まとめ方に近いです。
概念は便利です。
便利だからこそ、情報を圧縮します。
そして私たちは、圧縮をしないと目の前の世界を扱いきれません。
ただ、圧縮が起きると、拾われない情報も出てきます。
ここを自覚できていれば、概念は道具として働きやすいです。
概念は、世界を持ち運ぶための圧縮袋のようなものです。
便利ですが、袋の形が中身そのものだと勘違いしやすいです。
欠けを忘れると、見え方が固定される
問題になりやすいのは、欠けたことを忘れたときです。
森という輪郭が、最初からそこにあった実体のように感じられます。
たとえば、森という言葉だけで判断すると、同じ森として一括りにしやすいです。
実際には、土の状態も、日当たりも、虫も、風の通り方も違うかもしれません。
それでも一括りが続くと、細部を見る動きが止まりやすいです。
この状態は、概念が道具から枠に変わった状態と言えます。
枠が強くなるほど、目の前の事実が枠に合わせて見えやすくなります。
その結果、考える前に結論が決まりやすくなることがあります。
事実か概念かを分ける問い
ここで、一度問い直してみてもよいです。
今見ているのは、観察できる事実でしょうか。
それとも、まとめるために置いた名前でしょうか。
私はいま、何の目的で、このまとめ方を採用しているのでしょうか。
目的が変われば、切り取り方も変わります。
切り取り方が変われば、目の前に現れる事実もまた、姿を変えることがあります。
概念を道具に戻す小さな練習
概念は、世界そのものというより、世界を扱うための操作に近いです。
操作なら、完全ではない前提が含まれるのも自然です。
だからこそ、できる範囲で袋を開けることができます。
たとえば、森という言葉を一度脇に置いて、今日見えた事実を3つだけ挙げます。
匂い、湿り気、足元の柔らかさ、光の入り方でもよいです。
とにかく観察できるものに戻します。
そのうえで、こう問いかけます。
この概念は、いまの私の目的に合っているでしょうか。
合っていないなら、別のまとめ方はあるでしょうか。
概念に気づいたまま使うのか、気づかずに使うのか。
そこに、見え方の自由が残りやすいです。
もし概念があなたを縛る枠になっていると感じたら、いったん袋を開けてみます。
そのとき概念は、世界を扱うための道具として手元に戻りやすいです。
たとえば、不安もそうかもしれません。
不安という言葉を置いた瞬間、それは一つの塊として見えます。
でも本当にそこにあるのは、森と同じように、ばらばらの事柄のはずです。
眠れていないのか。
誰かに言えていないことがあるのか。
決めなければいけないことを先送りしているのか。
お金のことなのか、関係のことなのか、先が見えないことなのか。
不安という袋を開けて、中身を一つずつ見ていくと、
想像と違うものが出てくることがあります。
思っていたより小さかったり、すでに動けることがあったり、
ここを変えればいいだけだったと気づいたりする。
概念を剥がすと、アイデアが出やすくなります。
不安という森の中で立ち尽くすより、足元を見れば、次の一歩をどう踏み出すのか?がわかってきます。