多くの人は「みんながそう言っているから」「それが普通だから」という理由で、自分で考えることをやめます。
一般論は便利です。
判断の手間を省き、不安を和らげてくれる。
でもその便利さに依存すると、いつの間にか自分の感覚や疑問を見失っていきます。
だから常識を疑うことには意味があります。
ただ、ここで一つ見落としやすいことがあります。
一般論が絶対でないように、自分の感覚もまた絶対ではありません。
私たちの感覚は、恐れや願望、過去の思い込みによって簡単に影響を受けます。
自分の声だと思っていたものが、実は刷り込まれた不安だったということもある。
常識を疑い始めた人が次にはまりやすいのは、
「世間と違うから正しい」という別の思い込みです。
疑うことが目的になると、それもまた一つの依存です。
大切なのは、一般論を捨てることでも、自分の感覚を盲信することでもありません。
両方を観察し、自分で確かめることです。
世間が正しいと言うから信じるのでもなく、世間と違うから正しいと思い込むのでもない。
どちらにも寄りかからず、自分の目で見て確かめていく。
その過程では、割り切れないことが増えます。
不安もある。
世間とのズレを感じることもある。
でもその違和感は、間違いの証拠ではありません。
自分で考え始めた人だけが出会う感覚です。
地図は参考になります。
でも地図を眺めるだけでは、景色はわかりません。
常識という地図も、自分の感覚という地図も、どちらも現実そのものではない。
実際に歩いてみて初めて、自分だけの答えが見えてきます。
常識を疑うことは入口です。
その先にあるのは、自分の感覚すら観察しながら歩き続けることです。
完成された答えを手に入れることではなく、自分で確かめながら生きる姿勢を取り戻すこと。
それが、自分の人生を自分で生きるということなのかもしれません。