誰が言ったかで、思考は止まる
なぜスピリチュアルはうさんくさく感じるのでしょうか。
内容が怪しいからではありません。
「誰が言ったか」を根拠にしているからです。
神様が言った。
高次の存在からメッセージが来た。
宇宙がこう伝えている。
こうした前置きを聞いた瞬間、多くの人は内容を検証するのをやめます。
すごい存在が言っているなら正しいはずだ、と。
でもその瞬間、自分で考えることを手放しています。
誰が言ったかは、内容の正しさを保証しません。
ただ同時に、誰の言葉であっても、あなたに響くなら、それはあなたにとって本物です。
では何を見ればいいか。
言っている内容だけです。
その言葉は、あなたの選択を広げますか。
それとも狭めますか。
自由を奪う言葉は、依存の構造を作りやすい。
これをしなければならない、あれを選んではいけない。
そう言われるほど、内容を考える前に、逆らってはいけない空気が生まれます。
出どころがどこであれ、その構造は同じです。
権威を後ろに立てるのは、多くの場合、悪意からではありません。
本人も本気で信じている。
自分を支えるために必要としている。
不安から無自覚に依存の形を作っている。
いろんな場合があります。
その構造が動き始めると、語る側も聞く側も、少しずつ自分で考えることから遠ざかっていきます。
自分の言葉で立てる人は、過剰な権威を必要としません。
何を言っているかで伝わるからです。
ただ、権威を求めること自体は自然なことです。
間違えたくない。
不安を減らしたい。
責任を持ちたくない。
その気持ちが、誰かに委ねる方向へ引っ張ります。
人は時に、真実そのものより、安心できる答えを求めやすい。
その自覚があるかどうかで、言葉との距離が変わります。
惹かれること自体は悪くない。
ただ、何に惹かれているのかは自覚した方がいい。
内容に惹かれているのか。
それとも、権威という形式に安心しているだけなのか。
考えるとは、自分の不安を引き受けることでもあります。