愛の反対は無関心、選挙の話

愛の反対は無関心、選挙の話

記事
コラム
愛の終わりは、憎しみでも怒りでもない。

静かに背を向け、関心を失っていくこと。

そこに、声は届かず、関係も死んでゆく。

エリ・ヴィーゼルは言った「愛の反対は憎しみではなく、無関心だ」と。


この言葉を、今回の選挙に無理やり当てはめてみます(笑)


政治への無関心は、「愛を失った憎しみ」ではなく、

「関わることをあきらめた無力感」に近いと感じます。

それを「そう思わせるように誘導されてきた」のかもしれません。


無関心が蔓延すれば、

一部の声が全体の声として扱われるようになる。

利権や思想を持つ人間が、「黙っている人たち」の代弁者を気取り始める。


そして、その空白に、支配構造がしっかりと根を張る。

愛がないところに、悪が息を吹き返す。


これは単に「悪い政治家が好き勝手している」という話ではありません。


「参加しなかった人たちが、場を譲り渡してきた」

──その積み重ねの結果なのです。


つまり、政治や社会への無関心は、「愛を失った証」なのです。


しかも、この無関心は、とても巧妙に演出されています。

「どうせ変わらない」「誰がやっても同じ」「自分には関係ない」


こうした言葉の裏には、参加しなくなるように設計された構造がある。


選挙に行くか行かないかは、もちろん個人の自由。


でも、「そう思わされて」行かないのだとしたら、

それは果たして自由意志と呼べるのでしょうか?
サービス数40万件のスキルマーケット、あなたにぴったりのサービスを探す