愛の終わりは、憎しみでも怒りでもない。
静かに背を向け、関心を失っていくこと。
そこに、声は届かず、関係も死んでゆく。
エリ・ヴィーゼルは言った「愛の反対は憎しみではなく、無関心だ」と。
この言葉を、今回の選挙に無理やり当てはめてみます(笑)
政治への無関心は、「愛を失った憎しみ」ではなく、
「関わることをあきらめた無力感」に近いと感じます。
それを「そう思わせるように誘導されてきた」のかもしれません。
無関心が蔓延すれば、
一部の声が全体の声として扱われるようになる。
利権や思想を持つ人間が、「黙っている人たち」の代弁者を気取り始める。
そして、その空白に、支配構造がしっかりと根を張る。
愛がないところに、悪が息を吹き返す。
これは単に「悪い政治家が好き勝手している」という話ではありません。
「参加しなかった人たちが、場を譲り渡してきた」
──その積み重ねの結果なのです。
つまり、政治や社会への無関心は、「愛を失った証」なのです。
しかも、この無関心は、とても巧妙に演出されています。
「どうせ変わらない」「誰がやっても同じ」「自分には関係ない」
こうした言葉の裏には、参加しなくなるように設計された構造がある。
選挙に行くか行かないかは、もちろん個人の自由。
でも、「そう思わされて」行かないのだとしたら、
それは果たして自由意志と呼べるのでしょうか?