スピリチュアルの世界には、「すべては最善のために起こっている」
という言葉がよく使われます。
確かに、その考え方は人を慰め、希望を与えてくれるものかもしれません。
けれど、それと同時に、現実とのズレを生み、
人を無力にする危うさも含んでいます。
現実の中で苦しんでいる人にとって、その言葉は
「あなたの苦しみも完璧」と突きつける――
冷たい暴力になりかねないのです。
自由意志を否定する思想
「最悪なことは決して起こらない」
「すべては魂の合意であり、最善の出来事だ」
「私たちには自由意志はなく、ただ観察者にすぎない」
こうした言説は、一見深遠に見えます。
もし神や宇宙がすべてを決めているのだとすれば、
人間に自由意志は存在せず、
ただあらかじめ決められた筋書きをなぞるだけになります。
しかし私は、自分の意志で選び、決断していると考えています。
誰かに手を差し伸べるのも、誰かを傷つけるのも、
私たちは自らの判断で行っているのです。
自由意志があるということは、
つまり、他者に危害を加えることも選べるということ。
誰かの自由意志によって、あなたにとって最悪な出来事が起こることもあるのです。
「起きたこと=最善」という短絡
たとえば、ある人が暴力を受けたとします。
それを「魂レベルで合意してきた」と解釈することは、一部ではあります。
けれど、その考え方は加害者を免責し、
被害者の痛みを正当化する危険があります。
すべてが事前に決まっているとするならば、
私たちの行動は「運命」か「プログラム」でしかありません。
そうなれば、道徳も責任も形骸化します。
現実を見てください。
この世界には、意図的に他者を傷つけ、搾取し、破壊する者が確かに存在します。
彼らは「高次の善」など考えていません。ただ自分の都合で選択しているのです。
言葉より行動が本音を語る
「すべては最善」と語る人の多くが、保険に入り、鍵をかけ、災害に備えています。
本当に“すべてうまくいく”と信じているのであれば、
なぜそれほど警戒するのでしょうか。
言葉では理想を語り、行動では現実に備える。
行動こそが、その人の本音を如実に表しているのです。
苦しみを無視するスピリチュアルの落とし穴
魂は、苦しみに意味を見出すかもしれません。
けれど、現実の私たちはそれを望んでいない。
怪我をすれば痛み、裏切られれば悲しむ。
それは当然の、人間らしい反応です。
「すべては愛と成長の糧だ」と語ることで、
現実の痛みや違和感を否定してしまうことがあります。
それは“高次の視点”などではなく、単なる現実逃避です。
選択の誤りと、他者の自由意志
たとえば腐った食べ物を「大丈夫」と思って食べ、体調を崩したとしましょう。
これは「魂の計画」ではなく、単なる判断ミスです。
他者の自由意志によって、自分が被害を受けることもある。
自由意志を認めるということは、
その痛みや混乱も現実に起こると認めることです。
現実を見据えるスピリチュアルへ
私は「すべては最善」とは考えていません。
悪は存在し、最悪なことも実際に起こります。
だからこそ、私たちは次のように在る必要があると考えます。
健全なスピリチュアルの3つの視点
最悪なことが起こることもあると認める
そこから学べることもあると受け入れる
それでも人生の責任は自分にあると理解する
苦しみに意味を与えようと無理に解釈する必要はありません。
ただ、自分の痛みを正直に見つめ、そのうえでどう生きるかを選び取ること。
それができたとき、ようやく「あれは必要なことだった」と思える瞬間が、
後から静かにやってくることもあるのです。
最善とは、起きた出来事の中にあるのではなく、
それにどう向き合ったかという在り方の中に宿るものだと、考えています。