AIによって残った創造的な仕事も作業になりえないか?

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AIによって創造的仕事も作業になるのでは?

そんなことをふと思ったので少し考えてみた。

結論的には、創造的な仕事が消えないとかはわからないし、誰も言えないと思う。色々な見方ができるが、AIができることは合理的なことが多い。ここでいう創造性とは、思わぬ視点や人が良いと感じたりエモーショナルなことなどを指す。

AIがこれもロボット的な身体を得れば身体性を得られる。痛みなども得られると痛いのでやめてくださいなどの体験が得られる。だから、身体性など人っぽい発言や感覚もトレースできる。怖いかもしれないが、理屈ではそれができたら人っぽさが増す。求めているかどうか、社会が望むかはまた別だ。

作業とは、それを楽しんでやるとか、自分がいっちょやったりますか、というような感覚がないものといえる。創造的仕事とは正解がない、わからない、感覚がある程度入るものといっていい。合理だけではない。

乱暴だが以下にまとめられる。
・作業(合理的仕事)=再現性が高い、ものさしがわかりやすい、正解がある
・創造的仕事=再現性は高くない、ものさしがわかりにく、正解はない
正確には仕事単位や職種単位ではなく、例えば事務職でも創造的仕事がある面もあるだろう。例えば、新しい書類をつくるとか、適したフォーマットを選んでおくなど。それが誰かに決められるのでなく、自分で決めるなどであれば創造的だと思う。

イラストレーターなどがイラストを描くとして、背景も必要だ。手が回らないからアシスタントに任せる。その時、もちろん背景が創造的ではない、ということではない。しかし、概ねタッチを似せてそこまでバリエーションがないなら、アシスタント「でも」できる。というようなものは、アシスタントにとっても創造性は低いし、依頼するイラストレーターにとっても合理的な仕事として作業感が強まるだろう。

創造的仕事の最後のとりで

そういった創造的仕事をエッセンスのようにAIが残してくれるか、残すようにする、またはなっていくとする。

先の例でいえば、イラストレーターは背景を描くことは一部で、メインのイラストに注力できる。それはそれで素晴らしい。

一方でここで失われるのではないかというのが、
・背景を描く=作業的な仕事をすることで得たリラックス、またはそこから得た身体的な気づき、学び
というのがないだろうかということだ。シンプルに余白とか、無駄といっていい。

これは初学者なら必須であるが、すでに仕事としている人にとっては不要かもしれない。仮にマインドフルネス的なそういった単純作業をすることで、ととのう(サウナで言うあれである)ことができたとする。それを奪われたとしたら、それは大きなダメージだ。気づけばいいが、気づかないと、さらにその背景を描いていた時間をイラスト制作につぎ込むかもしれない。

当然描いたら休めばいいし、誰もがそうなるわけでもない。

世の中は面白くて、無駄を省いたら全部綺麗に物事がうまくいく、だけではない。無駄に付随するものも消える。外来種を殺せば、それによって保護されたりした在来種が死ぬかもしれない。生態系とは言わないが、仕事自体は結構複雑なんじゃないかなというのが提示したい視点だ。

では、ここでいうとりでっなにかというと、無駄や余白だと思う。要するに、意味がなさそう、有益ではなさそう、良くわからないこと、というのが砦だと思う。

意味がわからないことをやろう

ここで提示したいのは、無駄をやろうということだ。

意味がわからないけど、やるというのは、人らしい。AIは無理でそれを指令されないとできない。しかし人は勝手にそれができる。

無駄によって、なにか得られる成分、それでしか得られないものがあるとしたら、それがまさに創造力のガソリンというか燃料というか、刺激みたいなものがある。

もちろんこれも程度はある。毎日わけがわからないことをやり続けることがあて、それを日常的に毎日やっていればそれも日常化してしまうので「無駄に飽きる」のだと思う。非常に厄介だ。

だから、100%無駄とかはない。ただ、時代の流れとして、無駄が省かれ、タイパやコスパという言葉が氾濫しているところでは、無駄を確保して無駄時間をつくる。滑稽だと思われるかもしれないが、多分これが創造の生きる道であり、生き残る手段ではないかと思う。


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