話す楽しさとその代償
話すことは楽しいけど、やっぱり疲れるよねという話ですね。
コミュニケーションの醍醐味であり、新しい視点や発見が生まれる刺激的な行為なわけです。
しかし、その楽しさには代償があります。特に長時間の会話は、想像以上に脳と体力を消耗します。たとえば、2時間の会話だけでも疲労感が顕著であり、1日7時間もの会話となるとヘトヘトです。
自分がメインで話す時間が短くても、相槌や相手への対応も含めると、実際には思った以上に「話す」という行為が占める時間とエネルギーは膨大です。
ということを最近やったイベントだけでなく、体感的にやっているとそう言えそうです。まあ疲れるんですよ。あ、だからやりたくないのでなく、疲れるのは当然結果としてあるのだけど、めちゃくちゃ楽しいのでやりたい。
けど疲れる(笑)けどやりたい。みたいな感じです。
話すことに必要な体力と気力
「話すことは簡単」と思われがちですが、実はそうではありません。
声を出して言葉を紡ぎ、相手に伝える行為は、意外にも体力と気力を求められます。
それに加え、話を聞く側も同様に体力が必要です。
例えば、2時間の講義を行った後は、話す側では疲れたし、あと聴く側も結構疲れる。疲れるんですよ。若いとわからないかもしれないですが。
さらに言えば、話すのが未経験だと、想像以上の負担となるかもしれません。
こうして考えると、「話す」や「聞く」には個人の慣れや経験だけでなく、基礎的な体力と気力がそもそもないとできないか、途中で終わるのかなと思ったわけです。
書くこととの比較:ローコストな思考のアウトプット
書くことは相対的にローコストに感じられます。本当か?というのはおいておいて、僕がそう感じているだけです。
1日8時間とか打ち込んでいても多分できるのですが、当然ずっと考えて打つとかではなく、休みますよ!(笑)
同じ内容を考えるにしても、「声を出す」よりも「キーを叩く」ほうが消耗は少ないように思います。
もちろん書くことにも一定のエネルギーは必要ですが、身体的負担が少ないため、長時間続けやすいのかなあと。(得意なら逆もあると思っていて、話し続けられる人もいるけど、書き続けられない人もいるのかもと)
話すことも練習や習慣で慣れれば負担が軽減しそうですが、よく分かっていないです。
いずれにしても、「考えること」自体が体力と気力を必要とする行為であるからこそ、そこで生み出されるアウトプットには価値があるんじゃないかという仮説です。
全く何も労力がかからない、何も資源を使わないものなら、ヘルシーがゆえに価値がないとかって思われるわけですが、いやいやそうではないよな、というところを痛感したわけです。
話すことのハードルと信頼
さらに「話す」という行為の奥深さを考えると、単に言葉を発するだけではなく、相手との信頼関係も必要ですよね。
対話は一方的では成立せず、双方が体力や気力を注ぐことで初めて価値あるコミュニケーションとなります。
話すという行為が一見シンプルで普遍的に思える反面、実際には難易度が高く、誰にでも簡単にできるものではないのかもしれないなあと。
まとめ
話すことは、当然ながら情報伝達ではなく、体力や気力、さらには信頼を伴う高度な行為ではないかと。
そして、気づきというか仮説としては、書くことはローコストなアウトプットとして自分は活用できる気がしました(とはいえ限度もあるし、今そう言っているだけかもです)。
例えば、話したほうが早いみたいな人って、書くのがコストが高すぎるから真逆のことを言っていそうですよね・・・。だから人次第でもあるかなと。
「話す」ことの価値を改めて感じつつ、「書く」ことも価値としてあるなと。一方で、このコスト感、体力とか気力である健康であること、信頼というところなど色々諸条件があることで成り立つのが「対話」だとすると、結構なハードルがあるなということを改めて感じたところでした。