違和感発想教材モニターさんを募集してフィードバックをもらっています。それは楽しいことですが、やはりこちらが簡単なことと思って、また相手の理解は別なのでここが難しいとするのか、面白いとするのか。その受け取り方で全然違った話になるのかも、という話です。
自分が見たい世界だけでは世界は成立していない
哲学的かもしれませんが、自分が見たい世界、例えば自分がお金を得ているとか、儲かっているとかってそれはいいんですよ。あっても。でも、それが自分だけで成立するわけないのに、「楽なやり方」とかを示されると、どうにも頭が動かない。
これってある人の指摘ですが、楽=考えない、もっといえば考えさせないんですね。考えさせないことが仕事になることもありえますが、それってどうなるか。お客さんが考えなくて良いって楽だし、「価値」かもしれませんが、それってお客さんのためになるのですか?という問いがどうなるかだけです。そこでなると言い切れるならそれもありでしょう。
が、僕はそれは嫌なのでそうしないと。そういうことなんですよね。
ここでは僕が見たい世界は一人ひとりが考える世界です。そういう世界が安定するか、平和かはわからないのですが、僕はそうしたいと。一方でそれを誰も望まないなら僕もそれを放棄せざるを得ないわけです。悲しいですがそういうことはわりと起こるんですよね。
なので、僕もこうしたい、ああなりたいとはいえど、他人が社会が望まないようなことをあえてやろうとしない。すると、メジャーな支配しがちなってことですが、そっちに寄せられる。となると、どうしてもどんどん意見が小さくなると。ここはある種のレジスタンス運動みたいなものですが、そこは変えたくないなあと。まあ、これもピエロのように踊っているだけと思われるかもしれませんが、どこまで一興で受け入れられるかですよね。
分からないは分からないというそのものを受け入れる
フィードバックで分からないとか分かりづらいってこともあるんですよね。こちらの想定でなければ有り難いと。視点がない、その感覚がなかったと。当然届けたい人の想定シナリオとか想定層でなければあまり使いづらいんですが、それでもフィードバックはありがたいと。
分からないものを分かるだろうといって、何も変えなければそのまま折り合いがつかずとなるのでどうするかが問われると。
わりとこの原始的というか、伝える、分かる、分からない、伝わらないみたいなところが紙一重というか、分岐点、試金石というかそんな感じですよね。分水嶺というか。
そこで明らめてしまうというか、面倒だなってどちらでも思ったら終わりなんですよ。実際にコミュニケーション出来ないですからね。でも、それでもなお伝えたいものがあったとか。それならば進められるかもしれない。そんな微差というか誤差がある気がします。
共感をしたり共有して懐に飛び込んでいくしかない
最後にはお客さんであろうがどうだろうが、飛び込みたいとか、知ってほしいならそういう飛び込みがいるのだろうと。常に飛び込めってことでなく、安全圏からガヤガヤしてもだめで。それは理屈としてはそうなんですけど、やはりリスクを取れてないと。リスクを取ればOKってことでなくて、必要なリスクを取らないとやはり平均的なものしかならないかなって印象です。
チャレンジとはある種リスクを見越して許容することなんですよね。それができるかどうかは0か1かだけですけど、実際にチャレンジする前後で色々あると。それをないがしろにせず、丁寧にやると。
最終的には、理屈を飛び越えて感覚や共感という、感情の話になります。それが動かなければ価値ってやはりあまりなくて。というか、平ぺったいものだねと思われて終わるのかなと。
簡単にこれをアイデア一発で改善できるとかはない世界で。つまり、楽=考えないとかはなくて、楽しく=考えるというところですが、それしかない世界なんですよねってことを感じた次第です。
シゴトづくりとしての違和感発想法がどうなるかはこれらをどう感じて動いていくかだけなので、一挙手一投足しっかりやっていきたいですねー。