読書感想文ほどどうでもいい行為はない。

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コラム
今から書くのは数ヶ月後の自分への備忘録。

読書感想というどうでもいい行為

読書感想ほどおおっぴらに公開するに値しない文章はないと思っている。考察文とか (賛否はあるとして)あらすじのネタバレはニーズがあると思う。でも感想って!そんなの誰が知りたいのか。百歩譲って、知り合いの語る感想や、有名人の語る感想はニーズがあると思う。自分も知りたい。ただしそれは「自分の知ってるあの人ってどういう考えの人なのかしらん?」という人物に対しての興味であって、純粋な感想知りたさとは何か違う気がする。あと、一気に複数の人の「賛否」を見ることは購入を迷うときなんかは有効だと思う。でもそれはAmazonとか一覧性の高い然るべき場所で目にすることに意味があると思う。したがって、どこの馬の骨ともわからない人間がブログなんかで読書感想文を書く行為はかなり他人にとってはどうでもいい行為だと思う。今から自分がやる行為のことなんだけど。

なぜ読書感想を書きたいのか。うっかり公開するのか。

あくまで持論。読書感想はゲロを吐く行為に似ている。本読んで思うところあり、色々考えていると胸がモヤモヤしてなんとも言えない気持ちになってくるから、それを思いっきり吐く。吐いて整理すると気持ちが整理される。スッキリしてよく寝られる。吐かずに翌日を迎えると結構引きずって、翌日、翌々日、うっかりその先も、言葉にもなってないもやっとした感じが心に残って仕事の途中に、ゲームの途中に、あるいは別の本を読む途中に、集中と思考を邪魔しにくる。だから、さっさと言葉にして吐いてしまうに限る。ゲロは汚いので、人前では吐かない方がいいし、吐いたことを後で読み返したくもない。なので書き散らして終わる。じゃ、なんで公開するのか。ブログなんかに書くのか。これは自分でもどうかと思うのだが、少なくとも自分は変態行為で快感を得る行為なのではないかと思う。「公開されていることでこんな汚い内容が人の目に晒されてしまうかもしれない!」私は露出狂ではないのだけれど、きっと公園とかでうっかり裸になって興奮する類の人も同じような気持ちなのではないのだろうか。あるいは、書くのに費やしてしまったサンクコストへの供養?そういう仄暗い理由だ。

ということで、これから自分の読んだ本の感想を書いていこうと思う。今から数年サボっていた読書を頑張ろうと思っていること、そして、自分の豆腐のようなメンタルは吐きながら読まないと毎日の読書に耐えられなさそうだと思うこと、メンタルがやられる、と思いながらもそれでもやっぱり本を読むことは大変楽しいと思っているから。

きっと、数ヶ月後には自分は「なぜこんな恥ずかしい文章を増産する気になったのか」も忘れて悶絶するような気がするから、「実行しない方がいいのに実行してしまった残念な動機について」未来の自分への備忘録としてこの文章を残す。
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