御崎良三は大将から、餞別まで貰いその上に片腕としていた俺が自立の為に辞めたいと言った事に恨み言一つ言わないで、励ましの言葉を掛けて貰った事に感謝していた。
御崎の心は自立して自分の城を持つのだと言う未来に自分が一国一城の城主になった姿を見て心が弾んでいた。
しかし、一つだけ御崎の後ろ髪を引く事があった。
それは、半年くらい前にフラッと一人で入って来た女性が居た。
バツ悪そうにしながら何処に座ろうかと迷っていた。
女性が一人で入って来るのは特別な事ではない。
しかし当人にしてみれば、やはり友達と数人で飲みに来る方が気楽ではあるだろう。
御崎は女性客の心情を敏感にくみ取って、店の中でも最もプライバシーが保てる席に案内した。
プライバシーが保てると言っても混み合う居酒屋の店内だ。
高級料亭とは違う。
それでも、店の中では一番プライバシーが保てる場所だが、
そこは大きな観葉植物の大きな鉢が置いて有って少し様子を隠してくれるだけの席だ。
大きな荷物を持っていたので旅行中かと思った。
その後この女性客は時々この店に通ってくるようになった。
最初は少し緊張気味だったようだが、だんだんと店の雰囲気に慣れて来たのだろう。
自然に料理とアルコールを楽しんでいるように見えた。
涼し気な目元、品の良いヘヤースタイル、柔らかい物腰、控えめな所作のこの女性を御崎はいつの間にか気になるようになっていた。
しかし、俺は今夜限りでこの店を辞めるのだ。
御崎は居酒屋の経営のやり方、店員の指導、接客のやり方、調理方法、揃える設備等すべてが頭の中に入っている。
後はこの頭の中に描いている設計図を現実の物とするのだ。
今迄、ネットなどで不動産情報を見て探していたがフリーになった今のんびりできない。
毎日が居酒屋を出すに相応しい条件などを考慮して探さなければならない。
しかし御崎にとってこの作業は楽しいもので有った。
都内の不動産屋に足を運びネットで探し候補が幾つか残った。
その中で一つに絞って行くのだ。
不動産を探して気が付いたが物件と言うのは何処の不動産も同じ物件を持っている。
不動産も卸問屋みたいな所から情報を仕入れて種としているようだ。
だから、なるべく親切な所や手数料が安い所を利用しようと思った。
仲介手数料は、こちらが黙っていると、ぼったくられる。
平気で家賃の一か月分を盗るから腹立たしい。
不動産法の報酬の規則では仲介手数料は半月分と定められている。
それを知らないと、勝手に家賃の一か月分を盗られるから注意が必要だ。
御崎は良心的な不動産屋に決めた。
今日は契約の日だ。ワクワクした気持ちで不動産屋に向かった。
事務所に入ると、先客が居た。
でも、どうも不動産の事で来店しているような客では無い。
不動産屋の奥さん相手に何かを説明している。
その前には、数種類の化粧品と、健康食品が並べられている。
売り込みに来ているようだが、客と売り手の雰囲気が友好的で今日いきなり
飛び込んで営業している感じでは無く付き合いが長く信頼関係もあるような
穏やかな雰囲気である。
御崎は、横目で見ていたが記憶の中にこの紹介している女性に見覚えがあった。
それは、大将の居酒屋、”仁右衛門”のお客で御崎が好意を寄せていた女性だ。
居酒屋で見る雰囲気とは違って今の彼女はテキパキと要領良く説明をし、それでいて急がない安定した空気を醸し出していた。
こんな所で邂逅するなんて御崎は驚いた。
大将の店”仁右衛門”を辞める時に後ろ髪をひかれる思いをこの女性に抱いていた。
この広い大都会では二度と出会う事は無いだろうと思っていたのだ。
それが、不動産屋の事務所で出会うなんて。
不動産屋の担当者が御崎に話しかけるのを見た女性は
あっ あなたは居酒屋の店長さん、女性が吃驚した様子で言った。