恵方巻きの正体は「大黒様」だ! 新説「恵方巻の起源」

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コラム

 ふだんは依頼者の方の先祖やルーツを調べたり、自分の家系についてコツコツ調べたりしている私ですが、その歴史資料の調査手法を用いて、「恵方巻」の起源について探ってみると、とてもおもしろい発見がありました。

 その結論とは

「恵方巻とは大黒様」である!

ということなのですが、このお話、実はどこの研究者もまだ提言していないようなので、一足お先にみなさんにお届けしておこうと思います。

 そもそも「恵方巻」というのは、節分の日に「恵方」の方角を向きながら、喋らずに一本まるまる太巻きを食べれば、その年は幸せになるよ!という民間信仰・民間伝承です。

 ところが、この伝承、「いつ頃から、どのようにしてはじまったかが定かでなく、また仮説もいろいろある」という段階で、まだまだ研究段階です。

 さらにおかしなことに、2025年の今でこそ日本中で「恵方巻」なるイベントが行われていたり、スーパーで節分には巻き寿司が売られていたりしますが、ここ最近に商業的に広まった風習で、多くの地方の人が

「はて?そんな風習あったかしら?」

と思いながら、それでもなんとかく節分にはお寿司を買ってしまう、という

謎イベント

と化しているわけですね(笑)


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 さて、そうした謎なイベントの起源を解き明かそう、という先行研究ももちろんあります。熊本大学の岩崎竹彦先生の「フォークロリズムからみた節分の巻ずし」(日本民俗学会)などの論文がありますが、その基本的な情報はウィキペディアにもバッチリまとめてありますから、まずはそちらをお読みください。

(ココナラさんのブログでは、直接wikiに飛べないので、ウィキペディアで「恵方巻」を検索してくださればすぐ読めます)


 その内容を簡単にまとめると

■ 発祥は関西圏で、その年の恵方に向かって太巻き寿司を無言で頬張りながら完食すると願いが叶う、という風習

■ 1980年〜に全国に広まり、特に1990年以降には商業的に普及した

■ 大正時代から昭和初期には「新香巻」が多かったが、現在は七福神にちなんだ7種程度の具材を巻くものが多い

■ 幕末から明治ごろ、大阪船場で商売繁盛、無病息災、家内円満を願ったり、若い女性が好きな人と一緒になることを祈ったもの説

■ 船場の色街で、女性が丸かじりをして願掛けをしたという説

■ 江戸時代の中期以降、その年の新香漬けを巻いて、縁起をかついだという説

■ 船場の旦那衆が、節分の日に遊女に寿司を丸かじりさせて遊んだ説

■ こうした説をもとにしながら、1940年ごろ以降、大阪の鮨商組合などがチラシで紹介した

というものです。このあと、大阪をスタートして、「小僧寿し」「セブンイレブン」「ダイエー」などの商活動を通じて全国展開していったと考えられているわけですね。

 とくに、船場の旦那衆と遊女のくだりは「太巻きをアレに見立てて、エッチな食べ方をさせた」のではないか?とセクハラおじさんたちの格好のネタにされていますが、それは御愛嬌。


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 さて、古い寿司屋さんからの聞き取りや、鮨組合のチラシなどの文言を勘案すると、

■ どうもこの風習は花柳界から発祥しているらしい

というところまでは、「現代人における年中行事と見出される意味 : 恵方巻を事例として」という神奈川大学の沓沢博行先生の論文にも言及があります。

 さて、ここまでの整理で、おおむね「恵方巻」の最古の記録にまでは迫っているわけですが、それでもまだ「恵方巻」とは何ものなのか?というその正体については「謎」のまま残されていて、いわば宙ぶらりんになっているのが現段階。

 そこで、このブログ記事では、そこから先へと踏み込んで参りましょう!

 そもそも「恵方」という言葉。平安時代の「方違え(よい方角を選んで、いったん別の場所を経由する)」ならいざ知らず、現代においてはそもそも「恵方」を意識することなんてありません。

 こうした方角の考え方は「陰陽道」に由来するわけですが、節分などの「節気」や「大安」などの「六曜」ならまだ馴染みがあるものの、なんだか「いきなり”恵方”に言及されるようになった」という感じも否めません。

 つまり「陰陽道」もふだん使わないし、「恵方」も「恵方巻」でしか使わないのに、この言葉がいきなり出てくるのは、どうにも唐突に思われるのです。

 ということは、「恵方」に関する元ネタのようなものが、どこかに存在するのではないか?とも考えられることになりますよね。


 その原点と思われるものが、明治27年に発行された「江戸花街沿革史」にあったのが、まずは発見のヒントとなりました。

 そこにはどんなことが書いてあるかと言うと、

■ 江戸の遊郭・花街では正月から二月の初午と八日には『大黒舞』というのが来て、遊女は競って祝儀を取らせた

■ 大黒舞の前唄(口上)は「大黒は元日に恵方に向かいて莞爾(にっこり)と笑い初めたる福寿草〜」というものであった

という感じです。

 これ、現代人にとってはすっかり風習が廃れているのですが、江戸時代から明治ごろまでの花街では「大黒舞」という、まあ獅子舞みたいな門付芸を招いていたのですね。
 そして「大黒様は恵方からくる」という考え方が、定番だったようなのです。

 大黒舞とは、

大黒舞 
「室町時代から江戸時代にかけて行なわれた門付芸の一つ。大坂や江戸を中心に遊芸人が大黒天の姿をまねて面と頭巾をつけ、打出の小槌を持って門ごとに立ち、毎年新作した祝の詞を唄いながら舞うもの。江戸では正月二日から二月初午頃まで吉原などで芝居狂言なども演じた。」(日本国語大辞典)

というものだそうです。

 また、全国各地にこの「大黒舞」の名残をもった舞踊なども残っていて、「秋田大黒舞」では「あきのほうから福大黒 舞い込んだ」とも歌われています。
 あきのほう、とは「明けの方」であり、つまりは「恵方」ということになります。

 もちろん、この「大黒様」の信仰は「恵比寿様」とセットで始まっており、「恵比寿大黒」が対のような形で信仰され、どちらの神も「恵方」からやってくるのですが、江戸時代においては「恵比寿はえびす講という別の信仰形態があった」「大黒は大黒舞が正月から二月にかけて門付をした」という違いがありました。


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 さて、この段階まででは、まだピンとこないかもしれません。吉原や大阪の色街で「大黒舞」が恵方からやってきて、新年を祝う踊りや芸を行った、という部分的な合致しかないからです。

 そこで、今度は、江戸時代の「大黒信仰」をより詳細に見てゆくと、さらにおもしろいことがわかってきました。

 江戸時代において「大黒様」に捧げるささげものは「二股大根」と決まっていたようです。二股大根と大黒様の絵は、ネットにたくさん転がっているので、ぜひ検索してみてください。

 懸命なる読者諸君が思い描いたとおり、これは当然エッチなことを暗示しています。黒光りの神様と、白くてすべすべの二股の大根足、という意味ですね。

 このあたりの話を、真面目な論文で調べてみると、もっと詳細がわかってきます。

 東北文教大学の「東北の大黒信仰儀礼の基礎的研究」という菊池和博先生の論文を要約すると、

■ 大黒信仰への供物は「二股大根」であり、性的な意味を持つ。
■ 大黒さまを後ろからみると男根。
■ ズバリ、大黒様へ女性を捧げる、のである。(豊穣の象徴)
■ そして大根以外の依代供物がなぜか「豆」なのだ。
■ 大黒さまは耳が遠い神として信仰されている。「耳あけ」という行事名。
■ (大黒様の)「嫁迎え」という行事名になっている 

という話が浮かび上がってきます。

 これで、いよいよ「恵方巻」が抱えていた「謎」の要素が、いろいろ明らかになってきたわけです。

 まず、なぜ「恵方」なのかは「(恵比寿)大黒」が恵方からやってくるのが当然だと思われていたからです。そして大根以外の供物が「豆」であり、これはすなわち節分と関わってきます。

 もちろん、花街などでさかんに行事として広まっていた「大黒舞」も正月から節分ごろまでが、その期間でした。

 なおかつ「食べ終わるまで喋らない」という恵方巻きの風習は「大黒様は耳が聞こえないから」に通じます。

(もともとセットの神様である恵比寿神が、障害を持って生まれているという伝承があるので、それと混同が起きている可能性があります)

 ここでいよいよ「太巻き」とは「大黒」の形状、イメージ、ことばの類推なのではないか?となるわけです。

 恵方巻きには、もともと伝承に「エッチな要素」がありましたが、「大黒様がエッチである」ということを踏まえれば、これもイメージはつながりやすいと思います。


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 こうして整理すると、「恵方巻」の正体が「大黒様」信仰の変形であるとわかってくるのですが、もっと細かなことを言えば幕末から明治にかけての「大阪の恵方巻の起源が ”新香巻” らしい」という点も「香のもの」とは本来「大根漬け(たくあん)」を意味する、ということなども関係がありそうです。そしてちょうど、この明治前後に大阪で花街の客向けに「新香巻」そのものが発案されたらしいのですね。最先端の流行だったわけです。

 大黒様へのお供えは、「大根」と「豆」というのを思わず思い出しますね。


 では、最後の接点である「新年から節分に大黒舞が行われていたが、なぜそれが幕末もしくは明治の大阪で恵方巻に変化するのか」という部分です。

 これについては、江戸時代の研究をしていた三田村鳶魚が、まず

「鳥追とともに初春の景物として、この大黒舞を覚えた。江戸では早く亡びたが、大阪には久しく残っておった。」(全集 第20巻)

と書き残していて、

■ 大阪に大黒舞が残っていて、江戸では廃れていた

ことがわかります。

 そして、実はこうした門付芸は、差別を受けていた人たちによって芸能が担われていたのですが、明治2年から4年頃にかけて新政府がかなり規制をかけて、代金のもらい方を変更したり、自由に「大黒舞」を含めた演舞ができないようにされてしまったらしいのです。

 この2点を考えれば、

■ 幕末から明治にかけて大黒舞ではなく、
■ その代わりに当時発案された新香巻が、
■ 大黒様の縁起物として「恵方巻」のベースになっていったのでは?

ということが推測できると思います。


 というわけで、これまでずっと謎だった「恵方巻」の正体が、「大黒様の化身」のようなものだとすれば、みなさんもずいぶんと納得がゆくのではないでしょうか。

 歴史は面白いですね!


























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