✅失恋の辛い思いからあなたを開放します
✅インナーチャイルドの心を癒します
✅いつでもどんな時もあなたの味方
✅毒親に苦しんできたあなたのお話聞きます
✅誰にも理解されない辛さに寄り添います
✅あなたを包込む母さんの大きな包容力
✅反抗期のお子さんのご家庭のお悩み相談
✅浮気・不倫・複雑恋愛に関するご相談
✅あだ名は【デカパン】が、ダイエット成功
✅寝むれぬ夜やどんな時でも気軽な話し相手
☪️魂を呼び覚ますタロット占い
☪️曖昧な恋の行方、先の未来を占います
☪️恋愛全般の解決の糸口を見つけます
☪️キャリアの転機!進む未来を拓きます
☪️最適な副業、成功への道筋を照らします
☪️人生を導く羅針盤、タロットが照す未来
☪️人間関係などから魂の安らぎを取戻す
☪️壊れそうな心に潜在意識の高次の助言
☪️涙の夜を癒す九星とタロットの導き
☪️吉方位と理想の運気を引き寄せます
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お相手の気持ち/復縁/複雑/遠距離/結婚/出会い/恋愛鑑定♡

恋も仕事も人間関係も✴️九星とタロットで✴️希望に導きます❗

心がこわれそうな時、安心と自信を取り戻すタロットと九星の導き

この度、以前よりご要望の多かった占いサービスを始めました☆彡

ご相談者様♡お待たせいたしました!!ご厚情に感謝申し上げます

ご相談者さま、お待たせしております、申し訳ございません
✼••✼ なでしこなでしこママ・あなたへの応援歌 ✼••✼

タロットカードリーディングの資格を取得しました(*^^*)
WordPress 経験年数 : 4年
Excel 経験年数 : 28年
PowerPoint 経験年数 : 23年
Word 経験年数 : 28年
iMovie 経験年数 : 3年
Google スプレッドシート 経験年数 : 3年
Canva 経験年数:1年
ChatGPT 経験年数:1年
VideoPad 経験年数:1年
・✅失恋の辛い思いからあなたを開放します
失恋は、誰にとっても辛い出来事です。そのためにあなたの気持ちを整理をするお手伝いをします。 それは今の辛い感情を徹底的に全部吐き出し新たな感情に出会うきっかけを作ることです。 ■どのような失恋の経緯だったのか■今はどんな気持ちで日常を過ごしているのか ■そのため日常にどんな支障が起こっているのか■これからはどうしていきたいか・・・ というようなことを一緒に考えて解決の道を探っていきます。
・✅インナーチャイルドの心を癒します
インナーチャイルドとは、心理学用語で「自分の内側に子どもがいる」という考え方です。過去の両親との関係などで傷つき、大人になってもその心の状態が続いている事を指します。結果、アダルトチルドレンのような状態になったり、共依存に陥ったりしますます。 過去に心が傷付きそのままになっている【内なる子ども】インナーチャイルドが引き起こしている具体的な症状と向き合いながら、解決の糸口を一緒に探っていきます。
・✅いつでもどんな時もあなたの味方
理解を求めているのに、理解されない時の行き場のない絶望感に寄りそっていきます。 親子関係・会社の人間関係などで、自分の言いたい気持ちが十分に伝わらない無力感にも。 こんな時は、本当に辛いですよね。 それは、あなたのせいではなくて価値観の相違だったり、あなたの言動に対する単なる感情の相違によるものなのでしかない事なのだから心配ないでとお伝えします。 そして大丈夫だからね!!と勇気づけます。
・✅毒親に苦しんできたあなたのお話聞きます
■どうしてあんたはそうなの! ■言うことを聞かないなら家に入れないよ! ■あんたは我が家の恥だよ! ■あんたなんか産まなきゃよかった! ■あんたは橋の下で泣いてたから拾ってきたんだ! そう言われ続けた心は傷つき、【自分は価値のない人間だ】と思い込んでしまいます。 そうではありません!!あなたは素晴らしい価値のある人なのです!! 吐き出せなかったあの思い・この思い全部吐き出してください
・✅誰にも理解されない辛さに寄り添います
誰にも理解されないと感じる時の孤独や悲しさは、心に深く刺さるものがありますよね。 そんな思いを抱えている方の声に、そっと耳を傾けたいと思っています。 ただ、ただ【わかるよ】と静かに寄り添える存在でありたいと思っています。 どんな思いも、安心して打ち明けられる場所であれるよう心を込めてお話を聞かせていただきます。 あなたの気持ちが少しでも軽くなりますように・・・ただそう願っています。ꔛꕤ。*
・✅あなたを包込む母さんの大きな包容力
波乱万丈の人生を歩んできたからこその深い愛情であなたの話に寄りそいます。 ■あなたの価値観や話す内容に決して否定や批判はしません。 ■あなたは唯一無二の存在なのだとお伝えしたいんです。 ■共感し、いつでもあなたの味方です。 あなたの気持ちが楽になり、ホンワカ・ホッコリなれるように精いっぱいお手伝いさせて下さいね。 もちろん、秘密厳守ですので、安心して何でもお話して下さいね(^^)
・✅反抗期のお子さんのご家庭のお悩み相談
反抗期の真っただ中のお子さんがいるご家庭ってまるで嵐の中にいるような・・・ かつての我が家がそうでした(>_<) ■私には「てめぇ」呼ばわり ■高校には進級できる日数を確認して休む有様 ■そのくせ、親には内緒で進学対策はしてる ■「うるせぇな」と手を出され肋骨にひびが・・ そんな息子も今では母親思いの息子になっています(^^) だから大丈夫、今の状況を吐き出して少し息抜きしませんか?
・✅浮気・不倫・複雑恋愛に関するご相談
男性・女性、不倫したご本人・された側にも対応してます。 ■どうしてもパートナー以外の人と関係を持ってしまう ■パートナーに浮気をされた ■独身だと思って付き合っていた恋愛相手が家庭持ちだった ■W不倫をしてしまっている など、私自身の経験も鑑みて不倫や浮気・複雑恋愛のご相談全般を受け付けています。 ここでのお話は【秘密厳守】✨機密保持契約✨を結んでいます。 安心してお話下さい。
・✅あだ名は【デカパン】が、ダイエット成功
小学校3年生から【動けるデブ】街道を突き進み、一時期はまるで渡辺直美ちゃんの ようなパワフルな体格でした。運動も得意で、体は大きいけれどキレは抜群!! しかし「このままじゃあ、まずい!!」と自覚し、高校3年生で一念発起。 なんと【30キロの減量】に成功し、当時は【歩くダイエット本】とまで呼ばれていました。 今では、自分の変身ストーリーをネタに笑いを届けていますv(*’-^*)^☆♪
・✅寝むれぬ夜やどんな時でも気軽な話し相手
眠れぬ夜や、今すぐ誰かと話したいと思った時、この話聞いてと思った時はすぐにお電話下さいね(^^♪ どんなお話でも大丈夫ですよ・・・ 雑談大歓迎です !(^^)! 今日、電車で乗り合わせた人が可愛かったとか、カッコよかったとか、そんな話でも大喜びです。 あなたが少しでも楽しかったぁ!元気になれたぁ!と、思ってもらえたらこの上ない幸せ! そして、それが明日の元気につながればとてつもない幸せ!
・☪️魂を呼び覚ますタロット占い
この鑑定では、大アルカナ22枚と小アルカナ56枚、計78枚のカードをフルに使用します。 ご相談内容に合わせて最適なスプレッド(展開法)を選び分け、現状や未来を多角的に分析。カードが映し出すのは、あなた自身も気付いていない深層心理や魂の叫びです。 表面的な吉凶を超え、本来のあなたが持つ輝きを呼び覚ますための具体的な指針をお伝えします。迷いを手放し、運命を切り拓く一歩を共に踏み出しましょう✨✨
・☪️曖昧な恋の行方、先の未来を占います
「彼の本音が知りたい」「この恋に脈はある?」…そんな言葉にできない不安に寄り添い、真実を解き明かします✨ 鑑定ではタロットに加え、状況に応じて九星気学で二人の宿命や運気のバイオリズムを紐解き、オラクルカードで今必要な聖なるメッセージを受け取ります。複数の占術を組み合わせることで、曖昧な関係の核心を突き、あなたが幸せを掴むための具体的な道筋を提示します。一人で悩まず、心の内をお聞かせください。
・☪️恋愛全般の解決の糸口を見つけます
片思い、復縁、複雑な愛、不倫など、人には言えない恋愛の悩み全般を深く鑑定♡ 大アルカナ22枚と小アルカナ56枚をフルに使用したタロットで現状を細密に読み解き、九星気学でお二人の相性や動くべき好機を算出。さらにオラクルカードで、好転への鍵となる癒やしの助言を添えます。お相手の細かな本心から未来の可能性まで、あらゆる角度から光を当て、あなたが心から望む結末へ向かうための指針を丁寧にお伝えします。
・☪️キャリアの転機!進む未来を拓きます
仕事への違和感や転職、復職の不安など、キャリアの岐路に立つあなたに寄り添います。 78枚のタロットを駆使して現状の核心を突き、九星気学で天職や運勢が好転する時期を精緻に導き出します。 さらにオラクルカードで、今必要な助言を添えます。あなたの潜在能力を活かし、納得のいく道を歩むための具体的な指針を丁寧にお伝えします。 望む未来へ、自信を持って一歩踏み出しましょう(*^^*)
・☪️最適な副業、成功への道筋を照らします
副業解禁により選択肢が増えた今、「何が自分に合うのか」迷うのは当然です。 鑑定では78枚のタロットをフルに使い、あなたの隠れた才能や適性を可視化します。さらに九星気学で運気のサイクルや最適な開始時期を導き出し、オラクルカードで挑戦を後押しするメッセージを添えます。収入アップや自己実現など、目的に合わせた「あなただけの副業指針」を具体的に提示します。一歩踏み出す勇気を、占いでサポートします✨
・☪️人生を導く羅針盤、タロットが照す未来
人生の岐路に立ち、進むべき道に迷ったとき・・78枚のタロットカードは、あなたの心の奥底にある答えを映し出す羅針盤となります。 九星気学で運命の大きな流れを読み解き、オラクルカードで高次元の助言を添えることで、多角的に現状を分析。あらゆるお悩みに対し、魂が望む方向へと歩き出すための具体的な指針をお伝えします。暗闇の中に光を見出し、再び自分らしく歩むための勇気を、この鑑定で受け取ってください✨✨
・☪️人間関係などから魂の安らぎを取戻す
修復したい関係や家族間のトラブルに直面したとき、78枚のタロットは潜在意識と繋がり、本質的な気づきを提示します。 九星気学で個々の宿命や相性を深く読み解き、オラクルカードで今必要な聖なる助言を添えることで、問題の核心を解明。表面的な良し悪しを超え、あなたが穏やかな日々を過ごすための具体的な解決策をお伝えします。心の重荷を降ろし、光差す未来へと一歩踏み出しましょう✨✨
・☪️壊れそうな心に潜在意識の高次の助言
深い孤独や痛みに心が折れそうな時、78枚のタロットは潜在意識の奥底に眠る「真の解決策」を映し出します。 高次からのハッとするような気づきが魂を揺り動かし、現状を打破する目覚めを促します。さらに九星気学で運勢のバイオリズムを精査し、苦しみの出口と最高運気が訪れる好機を特定。オラクルカードの癒やしを添えて、暗闇を抜け出し、光り輝く未来の扉を拓くための具体的な道筋を全力でサポートいたします✨✨
・☪️涙の夜を癒す九星とタロットの導き
一人で涙を流すような孤独な夜に終止符を打ち、希望に満ちた明日を引き寄せます。 78枚のタロットで現状を細密に可視化し、九星気学で運命の流れを読み解きながら、運気が好転する具体的な時期や好機を導き出します。さらにオラクルカードによる高次の助言で、深層心理に眠る輝きを呼び覚まします。暗闇を抜け出し、あなたらしい笑顔を取り戻すための確かな一歩を踏み出しましょう。✨✨
・☪️吉方位と理想の運気を引き寄せます
引っ越しや環境の変化は運命を変える好機です。「今が動くべき時か」「どの方角が幸運をもたらすか」を、九星気学を用いて精緻に鑑定します。 さらに転居先での生活や心構えをタロットで占い、オラクルカードで新しい門出への助言を添えます。凶方位を避け、最大吉方を取り入れることで、あなたの未来を輝かせるための具体的なロードマップを提示します。後悔しない最善の選択を、ここから始めましょう✨✨
タロットリーディングマスター 取得年:2025年
婚活アドバイザー 取得年:2025年
メンタル心理カウンセラー 取得年:2024年
英語 日常会話レベル
会社役員・会社経営・某一部上場企業営業・電話相談 1988年3月 〜 現在
・有限会社○○○入社 / 監査役員 / 法人営業・個人営業・経理・事務(一般事務) 1988年3月 〜 1988年3月
✅匿名・年齢非公開にて活動しているため、企業名・会社名については明示せず、その在籍期間にも 仮想数字にて表示させて頂くことをご理解ください⭐️ ✼••┈┈┈┈••✼✼••┈┈┈••✼✼••┈┈┈••✼✼••┈┈┈••✼✼••┈┈┈••✼✼••┈┈┈••✼ ✼••┈••✼ 生家の家業 私の生家は、祖父が事業を始め、卸業を生業にした個人事業を営んでいました。 祖父は、その事業においてはそこそこの実績を残すまでに成長させたようでした。 その祖父母の元に跡取り娘として誕生したのが、私の母だったのです ꔛꕤ*。゚ 母は看護師の仕事に対して憧れを持っていたようですが、祖父母の一人娘として事業の後継を余義なくされたようで、その夢を断念し、祖父母の元で事業の見習いを始めました。 母が事業を手伝うようになってから、母の母方いわゆる私の祖母方の従妹も住み込みで手伝うようになったようです。 母と母の従妹のおばさん(みーねえちゃん)は仲が良く、いつも姉妹に間違われ、店の【看板娘】と言われたそうでした٩(*´︶`*)〜♬ 祖父の二人に対する指導は非常に厳しかったようで、のちに他県に嫁いだ(みーねえちゃん)に祖父の私たちに対する激甘ぶりを話す機会がありましたが、『人間そんなに180度変われるものなの』と、私の話す、祖父像が信じられないと言ったようでした!! ( Ꙩꙻ₀Ꙩꙻ )!! (みーねえちゃん)から聞いたその躾や礼儀作法の全てにおいて、厳しい指導だったようで、私の祖父像からは想像できないような、今でいえばキッチリ・カッチリのモアハラ指導だったようです。 ⭐️そんな矢先に、母に縁談が舞い込みます。 父は母より6才年上で、そのご縁を持ってきて下さったのが、同業社である祖父の知人の山田のおじさんでした。 父と母は見合いをすることになり、その後結婚に至ります。*:ஐ(●˘͈ ᵕ˘͈)人(˘͈ᵕ ˘͈●)ஐ: ※父と母が私に語った見合い話の後日談によると・・・ 母曰く、父は東京の大学に入学し、その青春時代を東京で過ごして洗練されているように映ったようで、 (父は当時、多趣味でロマンチストであったようですが)母は一目ぼれだったようです*:o(≧▽≦)oアチャ∼ 父はと言えば、お見合いの席でシオラシクふるまう母の姿が可愛く見えたそうでこれまた好印象ではあったようです Σ(゚Д゚;)アラマッ 学生時代はさんざん好き勝手をし、交際をした美大に通う女性もいたようですが、若いとお相手側の家 族に結婚を反対され諦め、上場会社に就職するも、政治活動に没頭して退職をするという経緯もあって、 父にはこれ以上父方の祖父母に迷惑をかける訳にはいかないという気持ちが強くあったようでした(>_<) ※父曰く、【そろそろ年貢の納め時】と、この結婚で父方の祖父母を安心させるのがせめてもの親 孝行と考えたとのことでした。ꔛꕤ。*。 政治に興味があった父は、市に合併される前に村会議員であった祖父の後を譲り受け、政治活動をしたいという野心もあったようでしたが・・・(*,,˃ ᵕ ˂ )✰*。 それに、父が言うには見合いから結婚までの期間が短かったそうで、少しでも早く店の男手がほしい祖父の思惑に乗せられたのだと後世笑って語っておりました(笑・笑) その時の父と母はまだ若く・・・^^; ☘️【結婚前には目を大きく見開いてみよ。結婚してからは片目を閉じよ】☘️(トーマス・フラー)の格言など知るよしもなかったのでしょうね☆⌒(>。≪) ※結婚当初は、二人にとっては恋愛期間の様だったようです、 お得意先の挨拶回りの帰りに一級河川の橋に通りかかったその時に、飛び込んできた夕日やけ空とその夕日を浴びてキラキラ光る水面のあまりに美しすぎるその光景に魅了され、幹線から車を河川敷に止め、二人でその河川敷に腰を下ろし、しばしその光景を楽しむようなロマンチックを満喫していたようです ܀ꕤ* 父は多趣味で、俳句や茶道をたしなんでいたようで、その時にその夕焼けの光景を俳句に詠んだそうで、母はそれを和紙に書いて後世大事に持っていたようでした*.✿* ※そしてその後、第一子として私が誕生します(*´◊`*)ウッヒョォォー❣️ ※父は第一子に男の子を望んでいました・・・望むというより絶対男の子だと信じていたようでした。 そこに第一子誕生の報を受け、母のもとに飛んで帰り、第一子である私が女の子だと分かるや『なーんだ、女か・・・』と、のたもうたそうです・・・( ˃̣̣̥ω˂̣̣̥ ) その時に、男の子用の三輪車を購入して帰ってきたのも想像には難くありません(ーー;) ※その後、第二子として2歳下の弟が誕生、その時の父の喜びようたるや半端ないものだったそうです その話を母から聞かされるたびに、父の私と弟との待遇差にえらく納得したものでした☆o(><;)○ ※当時の父は、私が物心ついた頃の厳格な父とはまるで違い、子煩悩な父だったようです。 2歳の私を上野動物園に連れて行ってくれたりと、何かと私を喜ばせようと様々なところに連れて行ってくれたとの事でしたが、私と言えば、その頃の記憶は一切なく、私の中の父親像は【スパルタ教育】の名のもとに厳しく接する姿しか記憶にありませんでした(´д`lll) ※後年、父より私が事業を手伝うことになった時に、私を上野動物園に連れて行った話を聞く事ができの ですが、その時は〇リに財布を取られた話のおまけつきでした。 そして、その時に財布を取られたより、その財布の中に入れていた美大の元彼女の写真が一緒に盗まれたのが悔しかったと、またまた、のたまわれました ꒰՞˶⊙⊙՞꒱!! そして一言、『これはお母さんには内緒だぞ』・・・父は結婚後も、元カノの事が忘れられなかったなんて・・・父の甘酸っぱい青春時代の一コマを垣間見させてもらえたようで、厳しいだけの父親像が変わった一瞬でもありました(*´︶`*)。.:*♡ ✼••┈••✼祖父も、跡取りができた事で安心したのか、事業から引退し、父母に全て引き継ぐことを決意します。 ※後々の祖父から聞いた話によると、私たち孫が2歳違いで授かっため、これは4人くらい孫が授かるのではないかと思ったようです。 そうなると、当時の家では手狭になると考え、敷地内に隠居家を建て、事業の引退後は孫の子守に関わりたいと考えたようでした。 (みーねえちゃん)の言う信じられない激甘祖父の誕生だったようです。 祖母もよく言いました・・・私が生まれてから祖父は別人になったと・・・ はじめての孫で、目に入れても痛くないような可愛がり様だったとのことꔛꕤ*。゚ こうして、激甘の祖父の元【年寄育ちの三文安・総領のアンダロ(甚六)】の私が育成されたのでした *。(☉ᵕ☉)✧*。(꒪ꇴ꒪|||) 【今の私は祖父のせい・・・?】 父と母にすれば、【寝耳に水】だったようで、忙しさを乗り切った年末、祖父母に年越しの挨拶をし、 一夜明けたお正月の祝い膳の後の祖父からの事業引継ぎの話は衝撃的だったようです(~_~;) ※祖父の想いの中には、私たち孫への思いもあったのでしょうが、たたきあがってきた祖父には、婿養子である学士の父への確執があったようで、それも影響していたようです。 ※父母にしてみれば、祖父の思惑どころではなく、その後3人目が授かるも、祖父母には内緒で諦めたそうでした。 (これは父が亡くなった時に初めて母から聞きました。母がその時に呟いた言葉、『産んでいればよかった・・・』今でも耳から離れません。 私も、もし三人目のきょうだいがいたなら、どんなに楽しかっただろう――そんな思いを胸に巡らせたことは、言うまでもありません。 母のその何気ない一言が、時間が経っても、記憶の奥で静かに息づくように、あの言葉は、私の中に残り続けています。) ※今にして思えば、よく祖父が父母に正座をさせ、説教をしていた事が思い出され、その時には可愛がってくれる大好きな祖父を正当化し、その祖父に説教をされる父母の心情に思いをはせられなかったのは、申し訳なかったと思うばかりです。 ✼•┈•✼✼•┈•✼そして父の婿養子としての 苦悩も知らず、私達は元気に育ちました✼•┈•✼✼•┈•✼ 母と祖母も、祖父と父の間に入り随分に苦労した事と思います。 しかし、その後、父と母は二人三脚で力を合わせ、家業を着実に盛り上げていきました。 社員も四、五人を雇えるまでに事業は成長し、規模も次第に拡大していきます。 しかしそんな折、父が椎間板ヘルニアを患い、外回りが困難となり内勤中心の業務へと移りました。 すると母の役割は一層重要なものとなり、父の采配のもと、母は家業を支え続け、事業は安定した発展を遂げていきました。 ✼••┈••✼ 母の突然の発病 ✼••┈••✼ 母の癌の発症が判明し、当時家業の柱を担っていた母の病気の発覚は、父にとって相当の痛手ででした。 幸いにも、母の胃がんは【早期癌】でホッとしていたのですが、当時は4・5人の従業員さんがおり、女性従業員さんで寿退社を控えている方もいらして、そのあとを引き継ぐ方も見つからず、父は頭を抱えているところでした。 ※そんなところに、私の大学進学の話です。 私は父に「家の窮地を助けるのが子供の役目だろう!!」と怒鳴りつけられました。 父はとても教育熱心な人で、それには本当に感謝をしていました。 それなのに何なの今さらと、本当に父のご都合主義を恨みました。 ※学校での三者面談の際、わが父が担任の先生に放った言葉・・・ 「先生、こんな跳ねっ返り娘が東京に行ってごらんなさい。堕落してなり下がるのが関の山ですから」 ☆*:.。. o(≧▽≦)アチャ~o .。. 先生曰く、「君のお父さん、面白い事をいうね~」✨✨✨ ✼••┈••✼ 進学を断念 ✼••┈••✼ 弟の高校卒業と弟が家業になれるまでという条件付きで有限会社○○○に入社。 ■朝は5:00起床・・・自宅・事務所・倉庫の通路を掃除。朝食の準備 8:30・・・・・仕事開始(その日により営業・事務・経理等) 20:00・・・・仕事終了(土曜日は従業員さんが帰った後に一人で倉庫内の整理 清掃・各社用車の清掃で終了が24:00は当たり前) 中学時代のバレーボールで鍛えた体力が役に立ったようです^^; 母も手術後には順調な病気の快復を見せましたが、元のような仕事への復帰はとうてい無理でした。 私も随分と会社の業務にも慣れ、会社の業績も順調に伸びていったのをはっきりと昨日のように覚えています。 ✨✨勿論、祖父母にとって、生来丈夫で大きな病をした事のない母が癌の宣告を受けた事は、計り知れない衝撃だったに違いありません。 まして手術という初めての経験に、不安は尽きなかった事だったでしょう。 それだけに、その後の母の順調な経過と回復、そして私が会社を手伝うことで再び活気を取り戻す様子を見て、心から安堵し喜んでくれていた事は、誰の目にも明らかでした✨✨ ✨祖父母は時折、嬉しそうに会社の様子を尋ねてくれました。商品が変わったことを一つ一つ説明すると、うなずきながら熱心に聞いてくれる姿が嬉しく、私も思わず力を込めて説明したのを覚えています✨
・有限会社○○○設立 / CEO / 法人営業・個人営業 1988年3月 〜 1988年3月
✅匿名・年齢非公開にて活動しているため、企業名・会社名については明示せず、その在籍期間にも 仮想数字にて表示させて頂くことをご理解ください⭐️ ✼••┈┈┈┈••✼✼••┈┈┈••✼✼••┈┈┈••✼✼••┈┈┈••✼✼••┈┈┈••✼✼••┈┈┈••✼ ✼••┈••✼ 弟の入社、営業に勤しむ日々 弟も高校を卒業すると、進学という選択肢を自ら手放し、家業に入る事を決めました。 当時の我が家には、「将来をゆっくり考える余裕」などありませんでした。 家業を守り、母の体調を支え、祖父母の安心を守ること。 それが最優先であり、弟もそれを肌で感じ取っていたのだと思います。 姉弟二人して、朝から晩まで仕事に追われる日々が始まりました。 休みという概念はなく、身体が動く限り働く。 若さだけが唯一の資本だったあの頃、気力で無理を押し通していました。 母の体調も徐々に安定し、荷受けや接客、帳簿整理などの事務作業は以前ほど負担にならなくなっていました。 それを見て、私は「今度は私が前に出る番だ」と思い、営業に力を注ぐようになりました。 外に出て、頭を下げ、話を聞き、断られてもまた次へ向かう。 最初は相手にされなくても、何度も顔を出す事で少しずつ信用を得ていきました。 そうした地道な積み重ねが、やがて数字となって表れ、会社の業績は確実に上向いていきました。 祖父母も、その変化を誰よりも喜んでくれていました。 「最近はどうだ?売上は伸びているのか?」 そうやって私に会社の話を聞いてくる祖父の表情は、どこか誇らしげで、穏やかでした。 その笑顔を見るたびに、「もっと頑張ろう」「期待に応えたい」と自然に思えたのです。 祖父母の存在は、私にとって精神的な支柱そのものでした。 私たち姉弟が家業の中心に立つようになってから、長年張り詰めていた祖父と父の関係にも、微妙な変化が現れ始めました。 口数は少ないながらも、父を否定するような言葉は減り、時折、仕事の判断を父に委ねるような場面も見られるようになりました。 祖父が、ようやく父を認め始めた―そう感じられた事は、私にとって何よりも嬉しい変化でした。 しかし、その矢先でした。 祖父の体調に異変が起こったのです。 ヘビースモーカーだった祖父に告げられた診断は、気管支癌。 静かに、しかし確実に、家族の時間を奪っていく病でした。 ✼••┈••✼ 祖父の闘病と、父の覚悟 父と母は、祖父に対して「重い気管支炎だ」と説明しました。 けれど、祖父自身はすべてを悟っていたように思います。 多くを語ることはありませんでしたが、その目は、自分の行く先を理解している人のそれでした。 祖父は入院を拒み、自宅での療養を選びました。 慣れ親しんだ家で、家族に囲まれて最期を迎えたい―その想いを、私たちは尊重しました。 そこから始まったのは、父母と祖母による、手厚く、そして献身的な介護の日々でした。 父は「できる限りのことをしてやりたい」と言い、会社のことを私たち姉弟に託しました。 その言葉の重みを、私たちはひしひしと感じていました。 中途半端な仕事は許されない。 父が祖父に向き合っている間、会社を守るのは自分達だ―そう覚悟を決め、必死に働きました。 営業で外に出ると、戻るのは夕方。 それでも、祖父の顔を見るために会社へ立ち寄り、短い時間でも声をかけるようにしました。 祖父は苦しそうな中でも、私を見ると微かに笑ってくれました。 特に父の介護は、見ているこちらが胸を打たれるほどでした。 これまでなかなか認めてもらえなかった祖父。 婿養子という立場で、どれほどの葛藤を抱えてきたのか。 それでも父は、愚痴一つ言わず、祖父に寄り添い続けました。 その時間は、父と祖父の心の距離を、確かに縮めていたのだと思います。 言葉は少なくとも、互いの想いが通い合う、尊い時間でした。 ✼••┈••✼ 祖父の死と、取り返しのつかない言葉 しかし、どれほど尽くしても、別れは避けられませんでした。 祖父は七十九歳で、静かに息を引き取りました。 爺ちゃん子だった私にとって、その喪失感は、心にぽっかりと穴が空いたような感覚でした。 仕事をしていても涙が溢れ、集中できず、早々に帰宅する日が続きました。 そんな私に、父は厳しい言葉を投げかけました。 「家業だから甘えが出る。普通の会社なら許されないぞ」 正論だと分かっていても、その時の私には受け止めきれませんでした。 悲しみを分かってもらえない苛立ちが募り、 【私はお父さんが亡くなっても、こんなに悲しみはしない!】 と、口にしてはいけない言葉を吐いてしまったのです。 その瞬間の父の表情を、私は今でも忘れられません。 何も言い返さず、ただ静かに私を見つめていました。 その言葉が、後にどれほど深い後悔になるのか。 その時の私は、想像すらしていませんでした。 ✼••┈••✼ 父との距離が縮まった、束の間の時間 祖父の死から時間が経ち、私の心も少しずつ落ち着きを取り戻していきました。 それでも、祖父のお墓参りだけは毎日欠かしませんでした。 墓前で手を合わせる事で、自分を保っていたのだと思います。 仕事への集中力が戻るにつれ、父との会話も増えていきました。 父も、祖父を看取れた充足感や、一周忌を無事に終えた安堵感からか、以前のような厳しさは影を潜めていました。 私の意見に耳を傾け、時には「それでいこう」と言ってくれる。 そんな父の変化に、私は胸が温かくなるのを感じていました。 会社の将来について語り合い、改善点をぶつけ合い、話は明け方まで続く事もありました。 眠気よりも、語り合える喜びの方が勝っていました。 「ようやく、親子として向き合えている」そんな実感が、確かにあったのです。 ✼••┈••✼ 突然の別れと、凍りついた真夏の日 その日常は、一本の電話で唐突に終わりました。 事故に巻き込まれたという知らせ。 弟に祖母を託し、母と共に病院へ向かいました。 真夏の〇月〇一日。 灼けつくような暑さの中、身体を突き抜ける悪寒。 救急室で告げられたのは、心拍停止という現実でした。 父は、もう戻りませんでした。 悲しむ暇はありませんでした。 翌日には大口取引が控えており、会社を止めるわけにはいかなかったのです。 その時、祖父が亡くなった時に放ったあの言葉が、胸をえぐりました。 取り消したくても、もう取り消せない言葉・・・ 父は、命をもって、私に現実の厳しさを教えたのだと、そう思わずにはいられませんでした。 ✼••┈••✼ 父亡き後、止まることを許されなかった日々 父が突然この世を去った現実は、あまりにも重く、冷酷でした。 悲しみに浸る時間すら与えられず、私は翌日から何事もなかったかのように仕事に向かいました。 喪服のまま取引先と向き合い、頭を下げ、数字の話をする。 心と身体が切り離されたような感覚の中で、ただ役割を果たしていました。 夜、布団に入ると、父の声が耳の奥で響きました。 「頼むぞ」 その一言が何度も繰り返され、眠りを妨げました。 泣いてしまえば楽になると分かっていても、涙は出ませんでした。 泣いた瞬間、すべてが崩れてしまう気がしていたのです。 父の死は、母の心を確実に蝕んでいきました。 会う人会う人に父の話をされ、その度に説明し、同情される。 その積み重ねが、母を人との関わりから遠ざけていきました。 やがて母は外出を避け、家に閉じこもるようになりました。 昼夜の区別も曖昧になり、家の中には重い沈黙が漂っていました。 仕事を終えて帰宅するたび、その空気に胸が締めつけられました。 そして再び、母の身体に異変が現れます。 癌の再発でした。 ✼••┈••✼ 母の壮絶な闘病と、最期の言葉 母は驚くほどの気力で病と向き合いました。 「親がいるかいないかで、子ども達への世間の目は違う」それが母の口癖でした。 自分が倒れれば、残された子ども達がどう見られるのか、母はそれを何よりも恐れて いたのだと思います。だからこそ、限界まで生きようとしてくれました。 私たちも、できる限りの治療を探し、手を尽くしました。 それでも、病状は静かに、確実に進行していきました。 ある日、母は私の手を強く握り、かすれた声で言いました。 「もう・・・お父さんのところに行きたい・・・」 その言葉に、私は何も返せませんでした。 ただ手を握り返し、頷く事しかできなかったのです。 ・・・母は、父のもとへと旅立っていきました。 ✼••┈••✼ 四年で三人の別れ、そして祖母の最期 父、母、祖父。 四年という短い年月で三人の肉親を失った事で、私の中から【安心】という感覚は消えていきました。 「今年こそ、何も起きませんように」それが、毎年の祈りになっていました。 祖母は高齢ながらも、私達孫を支えようと懸命でした。 野菜をふんだんに使った手料理を毎日作り、事務所にも顔を出し、 「無理せずにね」と、何度も声をかけてくれました。 祖母自身も深い悲しみの中にいたはずです。 それでも弱音を吐かず、ただ孫の私達を案じ続けてくれました。 しかし、その祖母も脳卒中で倒れ、意識不明となります。 「今日、明日が山です」医師の言葉に、私はもう動揺すらしませんでした。 祖母は三か月もの間、懸命に命をつないでくれました。 意識が朦朧とする中でも、ひ孫の〇〇を近づけると微かに笑みを浮かべ、頬ずりしようとしました。 それが、祖母にしてあげられた、せめてもの恩返しだったのだと思います。 ✼••┈••✼ 弟の過ちと、崩れ落ちた信頼 時が流れ、会社は順調に成長していきました。 従業員も増え、事業も拡大し、ようやく光が見えた頃でした。 弟が高校時代の同級生から持ちかけられた話に乗り、約一億円の取り込み詐欺に遭っていた事を知ります。 義妹は私に言い出せずにいました。 取引業者の様子に違和感を覚えた私が問いただし、ようやく真実が明らかになったのです。 無借金経営を目指し、必死に働いてきた結果が、一瞬で崩れ落ちました。 弟は、自〇すら考えるほど追い詰められていました。 私は責めるよりも、 「どう立て直すか」それだけを考えていました。 ✼••┈••✼ 私自身の決断、そして新たな一歩 掛け売り中心の事業から、現金収入を増やす方向へ舵を切る・・・弟は踏み切れずにいました。 そこで私は、自分自身でテナント出店を決断します。 銀行に相談すると、驚くほど前向きな反応でした。 売上データを示す事で、弟は一年後、ようやく決断しました。 しかしその後、【遺産相続における弟の巧妙な搾取】が明らかになります。 信頼していただけに、その事実は青天の霹靂でした。 ***【兄弟は他人の始まり】*** その言葉を、私は現実として突きつけられました。 弟と袂を分かち、有限会社〇〇〇を設立。 ここからは、自分の人生として生きると決めました。 ✼••┈••✼ 限界まで働いた身体と、小さな異変 大手スーパーへのテナント出店と並行し、卸業にも力を入れました。 従業員、パート、アルバイト…皆が懸命に支えてくれました。 帰宅は連日夜十一時過ぎ。 身体は限界で、過食嘔吐も止まりませんでした。 後戻りできないという思いだけが、私を前に進ませていました。 そんなある日、私は自分の身体の、ほんの小さな異変に気づいたのです。
・有限会社○○○の売却、そして株式会社○○○設立 / CEO 1988年3月 〜 1988年3月
✅匿名・年齢非公開にて活動しているため、企業名・会社名については明示せず、その在籍期間にも 仮想数字にて表示させて頂く事をご理解下さい⭐️ ✼••┈┈┈┈••✼✼••┈┈┈••✼✼••┈┈┈••✼✼••┈┈┈••✼✼••┈┈┈••✼✼••┈┈┈••✼ ✼••┈••✼ 結婚への決断・・・揺れ動く命と覚悟 恋愛はしていたけれど、結婚はまだ先の事だとどこかで思い込んでいました。 仕事もようやく軌道に乗り始め、事業の手応えを感じ始めた矢先の妊娠でした。 正直に言えば、最初に胸に湧き上がったのは、喜びよりも戸惑いでした。 命を授かったという事実は、確かに尊く、有難いものでした。 けれど、無条件に喜べるほど、私は身軽ではありませんでした。 事業の責任、従業員の生活、将来への不安。 経営者としての立場、そして母として生きていく覚悟。 それらが一気に押し寄せ、私の心は大きく揺れ動きました。 【本当に、今なのだろうか】【私は、ちゃんと守れるのだろうか】 そんな問いが、何度も何度も頭の中を巡っていました。 以前から、私は産婦人科の先生に【子宮の発育不全】を指摘されていました。 「もしかしたら、お子さんは授かれないよ」 淡々と告げられたその言葉は、当時の私にとって、どこか遠い世界の話のようでした。 自分が【産めないかもしれない側】の人間だという現実を、心のどこかで直視しないまま、仕事に没頭していたのだと思います。 だからこそ、この妊娠は想定外であり、同時に奇跡でもありました。 喜びと不安が、同じ重さで胸の中に存在し、どちらか一方だけを選ぶ事ができないまま、時間だけが過ぎていきました。 そんな時、ふと脳裏に浮かんだのは、母の言葉でした。 三人目の子どもを諦めた話をしてくれた時、「産めばよかった・・・」そう、か細い声で呟いた母の後悔。 その声は、今でも耳の奥に残っています。 あの時の母の表情、伏せた視線、静かな諦念。 何気ない一言だったけれど、その中には、【選ばなかった人生】への深い悔いが滲んでいました。 あの後悔を、私は自分の人生で繰り返したくない。 そう思った瞬間、揺れていた迷いの天秤は、静かに傾きました。 揺れ続ける私の心を察したのか、産婦人科の先生は、少し言葉を選びながら、こう言いました。 「妊娠できた自体が、奇跡に近いと思っていいよ。 この妊娠を大事にしないと、一生お子さんを持てないかもしれないよ」と。 その言葉は、脅しでも命令でもなく、現実を真正面から差し出すものでした。 私は、ようやく腹を括りました。 この命と向き合おう、と。 ところが、出産を決意した直後の検査で、「子宮頸部の軽度異形上皮」が見つかります。 妊娠の進行とともに「重度異形上皮」へ移行する可能性があり、 重度になれば癌化し、通常出産はできない―― 先生から告げられた現実は、想像以上に厳しいものでした。 紹介された国立の総合病院。 専門用語が飛び交う説明を受けながらも、 私の胸を占めていた不安は、病気のことだけではありませんでした。 「もし〇〇症の子だったら……」 その可能性を、事前に知っておきたかったのです。 恐れたわけではなく、ただ、心の準備が欲しかった。 その正直な気持ちを打ち明けると、先生は私の思いを否定せず、 胎児学の権威である医科大学附属病院の〇教授へ紹介状を書いて下さいました。 結果が出るまでの一か月は、永遠のように長く感じられました。 一日一日が不安で、心が落ち着く瞬間はありませんでした。 そして、異常は見られず、男の子だと聞いた瞬間――私はその場で泣き崩れそうになりました。 新幹線の中でも涙は止まらず、 人目も気にせず、ただ泣き続けました。 命がここにあることへの安堵と、これから背負っていく人生の重みが、 一気に胸の奥から溢れ出したのだと思います。 満を持して彼に打ち明けると、彼も心から喜んでくれました。 その笑顔を見て、ようやく「何とかなるかもしれない」そう思えたのです。 そこからは驚くほど順調に話が進み、私たちは入籍し、一緒に暮らし始めました。 けれど… 人生は、そんなに単純ではありませんでした。 ここからが、次の波乱の始まりだったのです。 ✼••┈••✼ 結婚生活の違和感と、静かな亀裂 結婚前、彼はよく言っていました。 【女性がバリバリ働くのは良い事だ】 【君の営業姿勢は、本当に立派だと思う】 その言葉を、私は疑いませんでした。 だからこそ、結婚後に感じた違和感は、余計に大きかったのです。 私が彼より帰りが遅くなると、朝に伝えてあっても不機嫌になる。 理由を言わず、ただ黙り込む。 無言の圧力が、部屋の空気を重くする。 「この人、こんなに面倒な人だったっけ…?」 そう思いながらも、見て見ぬふりをしていました。 そんな中、結婚から一年ほど経った頃、彼に転勤命令が出ます。 転勤族の企業に勤めている以上、覚悟はしていました。 彼は新しい赴任地へ向かい、私は…正直に言えば、少しだけホッとしたのです。 息子は保育園へ預け、家のことは家政婦さんにお願いし、私はひたすら働きました。 家政婦さんは本当に良い方で、息子をまるで実の孫のように可愛がってくれました。 この方には、後に事業に失敗した時も支えていただき、感謝してもしきれません。 多くの人に助けられ、支えられながら、事業は確実に伸びていきました。 けれどその裏で、息子には寂しい思いをさせてしまいました。 迎えに行った帰り道、 寝入った息子を起こさないよう、そっと車に乗せながら、 【私、母親失格なんじゃないか…】 そう思い、ハンドルを握りながら涙した夜もありました。 それでも、息子の笑顔に救われ、また前を向く。 その繰り返しでした。 ✼••┈••✼ 疑念、そして離婚という選択 息子が二歳になった頃、彼はまだ単身赴任中でした。 そんなある日、自宅の電話に無言の留守電が頻繁に残るようになります。 胸の奥に、言いようのない不安が広がりました。 帰省した彼を問い詰めても、「知らない」の一点張り。 しかし、赴任先の住まいで、私は【ある物】を見つけてしまいます。 彼でも私でもない、女性の存在を示すもの。 事情を問いただすと、職場に好意を寄せてくる女性がいるが、関係はない、あくまで一方的な思いだと説明されました。 一件落着・・・そう思いたかった・・・けれど、その女性からの留守電は増えるばかりでした。 なぜ自宅の電話番号を知っているのか・・・疑念は消えず、私は離婚を決意します。 協議離婚成立・・・ 後になって「辛抱していれば」と思う事もあります。 けれど、あの時の私は、これ以上心を削る事ができなかったのです。 ✼••┈••✼ 会社売却と、再出発 有限会社〇〇〇の店舗部門が順調に伸びていた頃、大手企業から買取の話が舞い込みました。 当時としては非常に有利な条件でした。 新たな事業構想もあり、熟慮の末、私は会社を売却します。 そして、株式会社〇〇〇を設立・・・新しい挑戦の始まりでした。 事業は順調に拡大しました。 しかし、息子の寂しさは、保育園での問題行動という形で表れます。 お迎えに行ったある日、園長先生にそっと呼び止められました。 責めるでもなく、かといって曖昧に濁すでもなく、先生は穏やかな声で状況を教えてくれました。 我慢がきかずに手が出てしまう事、落ち着きがなくなる事・・・ どれも【性格】ではなく、【寂しさ】の形なのだと、先生は言いました。 私は、胸の奥をぎゅっと掴まれたような気持ちになりました。 あれだけ働いて、あれだけ必死に守ろうとしていたはずなのに、息子の心には、ぽっかりと穴が空いていた。 その事実が辛くて、言葉が出ませんでした。 園長先生は続けて、こんなふうに提案して下さいました。 【〇〇ちゃん、ワンちゃんが大好きでしょう? もし環境が許すなら、ワンちゃんを飼ってあげるといいかもしれない。 情操教育にも良いし、【自分が守る存在】がいる事で、心が落ち着く子も多いのよ】 その言葉が、不思議と私の胸にすっと入ってきました。 私は、息子の笑顔を取り戻せるなら、できる事はしたいと思いました。 そうして我が家に迎えたのが、シェパードの【チャッピー】でした。 息子はチャッピーを見た瞬間、目を輝かせて、まるで宝物に触れる様にそっと抱き寄せました。 私はその姿を見て、初めて【間に合うかもしれない】と思えたのです。 チャッピーは賢くて、優しい子でした。 息子の荒れた心を、言葉ではなく体温で受け止めてくれるような存在でした。 息子が泣きながら帰ってきても、チャッピーはただ寄り添い、顔を埋めるだけで、息子の呼吸が落ち着いていく。 私にできなかった事を、チャッピーがしてくれている――そんな気がして、胸が熱くなりました。 けれど、チャッピーは半年ほどで体がぐんぐん大きくなり、やむを得ず外で飼う事になりました。 すると息子は、ある日ぽつりと言ったのです。 「お家の中で、僕ひとりでママを待ってるのは寂しい・・・」その言葉に、私は息が止まりそうになりました。 その寂しさを作ってしまったのは私だと思うと、胸が苦しくてたまりませんでした。 そこで、室内で一緒に過ごせる子を迎える事にしました。 それが、ミニチュアダックスの【ももちゃん】です。 ももちゃんは小さな体で、家の中をちょこちょこと走り回り、息子の笑い声を引き出してくれました。 チャッピーが【守ってくれる背中】なら、ももちゃんは【日常に灯りをともす存在】でした。 私は、息子が二匹に話しかけ、世話をする姿を見ながら「愛情を渡せる場所」を息子が得た安堵を感じました。 本当に、この二匹には助けられました✨✨ 小学校の時に息子にADHDの診断も下りましたが… 私たち親子の家に、笑い声とぬくもりを戻してくれたのは、チャッピーとももちゃんだったと思います。 息子は今でも、二匹の遺灰をキーホルダーにしたものを大事に使っています。 それを見るたびに、私は胸が一杯になります。 どれほど救われたか、どれほど守られたか―― 言葉に言い尽くせぬほど、二匹の存在は私達の人生に深く根を張っていました。 ✼••┈••✼けれど、時代は味方してくれませんでした。 バブル崩壊、金融危機。 思い切った不動産投資が仇となり、資金繰りは急速に悪化します。 最後の切り札として融資を相談していた信用金庫が、県の保証協会に行くと言っていたその日に、まさかの経営破綻。 新聞の一面でそれを知った時の衝撃は、今も忘れられません。 高金利の融資に頼り、何とか資金を回しましたが、その重荷は次第に経営を圧迫していきました。 本来なら、もっと早く清算すべきだった。 成功の夢を捨てきれなかった自分の未熟さ、今となっては、悔やむよりほかありません。 ✼••┈••✼ 廃業・・・そして、苦難の道へ こうして、株式会社〇〇〇は廃業。 それは、会社を失ったという事実以上に、【これまで信じてきた自分自身】を一度、完全に失う出来事でした。 肩書きが消え、数字に追われる日常が終わり、それでも生活は続いていく。 朝、息子を送り出し、静まり返った部屋に一人残るたび、私は何度も自分に問いかけました。 【ここから、どう生きていけばいいのだろう】と… ――それでも、人生終わらせるわけにはいかない。 私は迷い、立ち止まり、それでも前を向いて行こう…と。
・昼夜問わず働きましたが、まだまだ生活の基盤は成り立たず(>_<) / そしてある日、東証プライム上場会社の求人が目に見止まります 1988年3月 〜 1988年3月
✅匿名・年齢非公開にて活動しているため、企業名・会社名については明示せず、その在籍期間にも 仮想数字にて表示させて頂く事をご理解下さい⭐️ ✼••┈┈┈┈••✼✼••┈┈┈••✼✼••┈┈┈••✼✼••┈┈┈••✼✼••┈┈┈••✼✼••┈┈┈••✼ ✼••┈••✼ 生活の為、派遣の仕事やアルバイトの仕事をいくつも掛け持ちし、働きました 株式会社〇〇〇を廃業してからの生活は、まるで地面が抜け落ちたようでした。 肩書きが消え、名刺が消え、信頼という形のない土台が音もなく崩れていく。 それでも、息子は毎日成長し、明日は必ずやって来る。 私が立ち止まっても、生活は待ってくれませんでした。 家は競売にかかったものの、ぎりぎりのところで何とか守る事ができました。 しかし、それ以外の動産・不動産は、文字通り、すべて失いました。 生活費にも事欠く日々。 何度、電気や水道を止められたことか分かりません。 「私が守るはずだったものは、いったい何だったのだろう」 自分を責める声だけが、夜の静けさに響き続けました。 無我夢中で働きました。 とにかく、その日を生きるために・・・ 派遣会社からの日払いの賃金。 掛け持ちのアルバイトも、日払いのものを選び、深夜に従事しました。 交通量の検査の仕事は、当時一晩で¥12,000頂けたのが本当に有難かった。 隙間時間には回転すしで皿洗い。 まかないを頂けた事は、食費を浮かせるという意味でも、心が救われるという意味でも、感謝してもしきれませんでした。 何より、仕事がある時間だけは、余計なことを考えずに済んだのです。 身体を動かして、汗をかいて、目の前の事をこなしていれば、心の奥に沈み込んでいく恐怖や不安が、少しだけ遠のいてくれる気がしました。 それでも、その日の暮らしを何とかするので精一杯でした。 ひとつ穴があけば、連鎖的に全てが崩れそうで、毎日が綱渡りでした。 あるお正月の日の事です。 携帯に息子から連絡が入りました。 【ママ、電気が止まっちゃったみたい】その一言が、胸に突き刺さりました。 お正月。 本来なら家族で笑って、温かい部屋で、ささやかなご馳走を囲むはずの日。 それなのに、私たちの家は暗く、息子は不安の中で私に電話をしている。 不甲斐ない母親のせいで、どんなに不安な思いをさせた事か。 申し訳なさで、胸が締め付けられる思いでした。 けれど・・・そんな時に、息子を見守り、癒してくれたのが、あのワンちゃん達でした。 チャッピーとももちゃん。 息子の小さな心を、言葉ではなく体温で優しく包んでくれた存在です。 あの子達には、どれほど救われたか分かりません。 今も息子は、二匹の遺灰をキーホルダーにしたものを大切に持っています。 それを見るたび、私は心の奥で何度も「有難う」と呟いてしまいます。 家が暗い日も、食卓が寂しい日も、息子の心に【あたたかい場所】を作ってくれたのは、 確かにあの子達でした。 ✼••┈••✼ 反〇との攻防 そんな暮らしの中、ある日の深夜。 債権を譲渡されたという反〇の人が、私が仕事で家を空けている時に訪ねてきました。 その時、私は運転代行会社のアルバイトをしていました。 車の中で鳴った携帯の着信音。 息子の名前が表示された瞬間、胸がざわつきました。 電話口の息子は、心細さを隠しきれない声で言いました。 【ママ、外にすごく怖い目をしたおじちゃんが来ていて、ママを出せって。 お仕事に行っていないって言ったら、居留守使うんじゃねぇ!!早く出せっ!!って・・・ 怖いんだけれど…どうしたらいいの?】 私は血の気が引きました。 息子が、家で一人、そんな場面に晒されている…それだけで胸が潰れそうでした。 私は息子に、反〇の人に携帯番号を教え、それに電話をかけるよう伝えてと指示しました。 息子は震える声で返事をし、言われた通りにしてくれたのでしょう。 ほどなくして、私の携帯に反〇の人から電話が入りました。 「今すぐ会いたい」 その声は威圧的でした。 私は深呼吸をし、はっきり伝えました。 「こんな深夜に、二人で会う事はできない」と そして、警察署に連絡をし、取調室の一室をお借りできるか確認しました。 刑事さん立会いの下であれば会う事が可能だと、そう条件を提示したのです。 警察署でも状況を配慮して下さり、刑事さん同席のもと取調室の一室をお借りする事ができ、私は心の底から安堵致しました。 あの時の警察署の方々のご厚情は、今でも忘れられません。 私はアルバイトを切り上げさせてもらい、警察署へ向かいました。 刑事さんに事の成り行きを話しながら待つ事十五分ほど。 反〇の人が、肩で風を切るような格好で歩いてくるのが見えました。 取調室の空気は、妙に冷たかった。 刑事さんがいる事で、心強かったですが、それでも、言葉の端々に滲む圧力は強烈でした。 三十分ほど話したでしょうか。 相手は自分に分が悪いと感じたのか、「もういい!」と声を荒げ、その場を後にしました。 私は刑事さん、警察署の方々に丁寧にお礼を伝え、息子の元へ急ぎました。 腕時計を見ると、明け方の三時過ぎ。 家のドアを開けると、息子は寝ずに待っていたのでしょう。 【ただいま、ごめんね】 そう声をかけた時の、安堵した息子の顔は、今でもはっきり覚えています。 私は、あの小さな顔を、二度と恐怖の中に置き去りにしたくないと思いました。 それからが、本格的な反〇との攻防の始まりです。 後に知ったことですが、先頃家に押しかけてきたのは【住〇会】系の〇〇団の若〇だったと聞きました。 あの警察署での一件が功を奏したのか、それ以降は法に触れないように配慮した形で、手を変え品を変え訴訟を起こしてくるようになりました。 代理弁護士を立ててくるのです。 こういう案件に関わる弁護士がいる事にも驚きましたが、驚いている暇はありません。 私は知り合いの弁護士の先生から、このような場合の債権譲渡は法的に無効だというアドバイスを詳細にいただいていました。 依頼する費用もない私に、少額で電話アドバイスに応じて下さった先生。 その存在がどれほど心強かったか、言葉では表せません。 訴訟されるたびに、私は答弁書を自分で作成し、裁判所に送り続けました。 勝訴すると、今度は起訴内容の文言の一部と原告名を変え、また訴訟を起こしてくる。 本当に大変でしたが、諦めませんでした。 そんな攻防の中で、新たな局面も見え始めます。 起訴状の原告名が変わっているのに、書面内の名前が以前のままだったり、整合性が取れてなかったり。 反〇の焦りが透けて見えました。 挙句の果ては、〇頭の下の方なのか、人の良さそうなお兄さんが「何とかして下さい」と丁重にお願いに来る始末。 何をどう「何とか」なのか、最後まで分からないままでしたが、最終的には、高金利分の支払いを含めれば元金はとっくに全額支払い済という事で、一件落着となりました。 ・・・とはいえ、ひと段落したからといって、生活の困窮が消えるわけではありません。 とにかく、正社員で働けるところに就職しなければ、私は求職活動に必死でした。 ✼••┈••✼ ある求人広告との出会い そんな時、インターネットで、とある東証プライム上場企業の中途採用求人情報を見つけました。 よく調べていくと、私の住む地域の支社でも採用情報がハローワークに掲載されていました。 私は【これは神様のお導きだ】と感じ、その支社に応募をしました。 ところがです、【女性ではこの営業は無理!】そう言われ、はっきりと断られる始末です。 それでも諦めきれず、自分の【覚悟と想い】を伝え続けたところ、その支社長は理事で、もうすぐ退職であり、本社では女性を採用するかもしれないから、人事部に掛け合ってみるといいと言ってくれました。 応対に出た人事担当の女性社員が上の方に確認し、履歴書を本社まで送付するよう指示を下さいました。 急いで履歴書を送り、返答を待つ時間は、驚くほど長く感じました。 そんな日々の中で、面接の連絡が来た時の喜びは、言葉になりませんでした。 本社が関〇なので、〇京のホテルを借り切り筆記試験と面接を行うとの事。 当日は心臓が張り裂けそうで、面接会場へ向かった事を、今でもはっきり覚えています。 そして――採用通知が届いた時、私は封筒を持つ手が震えました。 早く、この生活苦から脱出しなければ・・・その一心でした。 本当に、それまで何度【消えたい】と思い詰めたか分かりません。 真夜中、祖父母・父母の写真の前で、声をこらえて泣いた事もあります。 その膝元に、息子がそっと青い折り紙で折ったウサギを置いていった事がありました。 そこには、拙い文字でこう書かれていました。 ✨【ママ、がんばって!ぼくはいつもママをおうえんしているよ!】✨ 私は自〇できなかった。 この子を孤児にするわけにはいかないという思いが、私を踏みとどまらせたのでした。 のちに息子が言った言葉があります。 ✨【お母さん、よく自〇しないで頑張ってくれたね。今日ちゃんと帰ってくるかって、 いつも不安だった】✨ 幼い子どもにそんな不安を背負わせていたのだと知った時、胸が張り裂ける思いでした。 当時の生活が、どれほど凄絶だったか・・・改めて突きつけられた気がしました。 そして、私の心に寄り添い、号泣しながら話す私の言葉を、ただ黙って聞いて下さった方の存在…その方が、私を次の希望へと導いてくれたのです。 ✼••┈••✼ 採用秘話を聞くに至り・・・ のちに、採用された会社の本社での表彰式後の懇親会で、〇社長から私の採用秘話を聞く事になります。 私にとって初めての表彰式は、外資系の超有名ホテルで催されました。 立食式の懇親会。 表彰を受けた五百人近い営業の中から、〇社長が私を見つけて下さり、当時〇日本を統括していた○○常務と一諸に労いに来て下さいました。 そして驚くべき採用秘話を聞かせて下さったのです。 〇社長は言いました。 【実は、君を採用するつもりはなかったんだ。会社が要望していた資格も持っていなかったし、同業社で の勤務経験もない。採用を見合わせようかと思った。 でも、○○常務が『営業経験が長いようなので採用してみては』と言うんで採用したんだ】 私は言葉を失いました、そんな裏話があったのか、と。 そして、断られても諦めなかった自分と・・・本社に繋いでくれた支社長と○○常務に感謝・感謝!!! 私は思わず【有難い限りです!!】と○○常務に向かって柏手を打ち、深々と頭を下げたら、その場で三人で大爆笑。 ✨あの空気の温かさが、今でも忘れられません✨ それ以来、お二人には何かと心にかけて頂きました。 私のモチベーションの根源になったのは、言うまでもありません✨ ✼••┈••✼ すべてのご縁に感謝し、思う事 ܀ꕤ୭* 人との出会いが、人生にどんな希望を与えてくれるか・・・それは、予測もできないからこそ、有難さがあるのだと思います。 ふと立ち寄った店で出会った人の一言が、落ち込んでいた心に灯りをともす事があったり、偶然隣に座った人との会話が、自分の価値観を揺さぶり次の一歩を踏み出すきっかけになる事もある・・・ 本当に、人との出会いは、時に未来を大きく変える種を、静かに蒔いていくものだとつくづく思います。 そして、諦めないからこそ、その尊いご縁を繋げる事ができるのだと、心から思うばかりです。
・東証プライム上場企業へ入社 / 営業・店長 1988年3月 〜 1988年3月
✅匿名・年齢非公開にて活動しているため、企業名・会社名については明示せず、その在籍期間にも 仮想数字にて表示させて頂く事をご理解下さい⭐️ ✼••┈┈┈┈••✼✼••┈┈┈••✼✼••┈┈┈••✼✼••┈┈┈••✼✼••┈┈┈••✼✼••┈┈┈••✼ ✼••┈••✼ 東証プライム上場企業入社 ――未経験からの挑戦 私がこの会社に入社できたのは、どん底の人生の中で、ようやく「生活を立て直せるかもしれない」と思えた、大きな転機でした。 家計は火の車で、いつまで持つのか分からない。息子の未来を思えば思うほど、焦りと恐怖が膨らんでいく。 それでも、立ち止まった瞬間に崩れてしまう気がして、私は働き続けるしかありませんでした。 東証プライムに上場している、いわゆる〇〇業界の大手企業。 関〇に本社を置き、全国各地に拠点を持つその会社は、業界の最先端を走り続けるリーディングカンパニー的存在でした。 求人票の会社名を見たとき、私の胸は大きく脈打ちました。 【ここに入れたら、人生が変わる】そんな直感がありました。 けれども、そんな会社に飛び込んだ私には、〇〇の知識も経験も全くありませんでした。 正真正銘の【未経験者】 履歴書に書けるのは、過去に自分で事業を回してきた経験と、営業の現場で揉まれた経験くらい。 業界の事など、何ひとつ分かっていない・・・ それなのに、私は応募したのです。 今でこそ業界に関わる言葉を耳にすればすぐにイメージできますが、当時は【基〇】も【躯〇】も【耐〇構〇】も、すべてが未知の言語に思えたものです。 専門用語が並ぶだけで頭の中が白くなり、理解しようとしても手がかりが掴めない。 それでも、逃げたくはありませんでした。 社内は圧倒的に男性比率が高く、営業職となるとさらにその傾向は強まります。 営業職だけで全国に2,000人以上いる中で、常に上位をキープし続ける事は、想像以上に困難な道でした。 生活の為、そして背負った借金の返済為。 もう一度、息子の前で胸を張って笑いたい。【大丈夫だよ】と言える母親に戻りたい。 心身共に厳しい日々ではありましたが、【自分で蒔いた種は自分で刈り取らなくてどうする!】という気持ちで、とにかく走り続けるしかありませんでした。 ✼••┈••✼ 入社式の朝、覚悟を決めたあの瞬間 入社式が行われたのは、〇都にある○○○○研究所でした。 まだ肌寒さの残る春先、全国各地から中途採用で集まった仲間は、私を含めて36名。 それぞれの地域で採用された人たちが一堂に会し、少し緊張した面持ちで入社式を迎えました。 私はその日、スーツケースとバックを抱えて〇都に向かいました。 けれど、物理的な荷物以上に、心には重たいものを背負っていた気がします。 過去の失敗、生活の不安、返済の計画、息子の学費、明日が見えない恐怖・・・ そういうものが、見えない荷物として肩にのしかかっていました。 それでも、心の中でははっきりと決めていました。 ☘️もう後戻りはできない。ここでやる。何がなんでも、この会社で結果を出さなければ…☘️ 入社式での社長の挨拶、会社の理念、先輩社員さんの励ましの言葉を聞きながら、その決意はさらに強くなりました。 私は心の中で何度も頷きました。 【ここからが新しい出発点だ】そう思えた瞬間でもありました。 ✼••┈••✼ 研修と初めて触れる〇〇の世界 入社後はすぐに2日間の研修が始まりました。 研究所での実地研修や座学を通しての、会社の商品の特徴や業界の仕組み、営業の基本を学ぶ時間は、実物を見て、触れて、説明を受ける中で【〇〇の奥が深さ】を思い知る驚きの連続でした。 しかし、専門用語は全くと言っていいほどわかりません。 説明を聞きながらも【AIC?】【GL〇法?】【引○○し?】と、頭の中は【???】で一杯。 私はその場では分かったふりをして、ホテルに戻ってから必死に調べました。 自腹で専門書を何冊も買い込み、毎晩のように勉強を始めました。 車の中には研修で配られた小冊子を常に携帯し、信号待ちや昼休憩の合間など、隙あらば読み込む毎日。 それでも最初の数ヶ月は、電話対応時には今まで言い慣れた廃業した自分の会社名を言いそうになり、いつも緊張していました。 机の上のマットに会社から支給された名刺を挟み、失礼にならないように言葉を確認してから電話を取る・・・そんな些細な事ですら、当時の私には大仕事でした。 飛び込みをした営業先で【で、あなた何しに来たの?】と、ケンモホロロに厳しい一言を投げかけられた事もありました。 言葉が胸に刺さって、その場で帰りたくなる・・・けれど私は、帰れませんでした。 【ここで折れたら、また崖の下に落ちる】そう分かっていたからです。 ✼••┈••✼ 同期との出会いと別れ…残ったのは9人だけ 同期として同じ支社に入社したのは、私を含めて3人。 うち2人は業界経験者で、既に一定の知識と実績を持っていました。 私はそんな2人を前に、【同じスタートラインに立てる日はいつ来るんだろう】と不安と焦りで一杯でした。 それでも、地道にコツコツと努力を重ねていく中で、少しずつ手応えを感じるようになりました。 けれどこの業界、簡単な道のりではありません。 最初の1か月で、同期社員が【やってられない】と言って辞めていきました。 必死に止めたのですが、彼女の決意は固く、それほどに環境の厳しさが身に染みていたのだと思います。 そこからは、残ったもう一人の同期と二人三脚。 何度も励まし合い、時には愚痴を言い合いながら、一歩一歩前に進んできました。 しかしその彼も、4年後には体調を崩して退職。 ふと気づけば、全国に散らばっていた36名の同期のうち、10年後の時点で残っていたのは、わずか9名だけでした。 【生き残る】という言葉が、これほど現実味を持つ世界があるのか・・・ 私はその現実に、何度も震えながら、それでも前に進みました。 ✼••┈••✼ 訪問禁止リストと、月150時間の残業 営業エリアとして任されたのは、先輩社員が過去に担当していた地域でした。 ところが、その先輩から引き継いだのは【訪問禁止リスト】 A4用紙にびっしり書かれた【このリスト先には行かないように】との注意事項に、私は思わず絶句しました。 【え、じゃあ、どこに行けばいいの…?】それが本音でした。 でも、そこで諦めるわけにはいきません。 リストにないところを探しては飛び込み訪問を繰り返し、とにかく足を動かして回り続けました。 暑い日も、寒い日も、雨の日も、毎日が挑戦の連続でした。 当時の労働環境も、今では考えられないようなものでした。 月150時間を超える残業も珍しくなく、プライベートの時間はほとんどゼロ。 朝方の3:00まで一人で残業をした時には、最後のロックキーが掛からない状況を不審に思った警備会社の巡回パトロール車が訪れ、職務質問もどきをされた事もありました。 寝ても覚めても仕事の事ばかり・・・ふと気づけば季節が変わっている事もよくありました。 けれど私は、倒れるわけにはいきませんでした。 倒れた瞬間に、また生活が崩れる・・・それだけは避けたかったのです。 ✼••┈••✼ 苦しかったからこそ見えたもの 営業活動の毎日は、文字通りの体当たりでした。 担当エリアには前述の訪問禁止先も多く、実績が思うように出なかった時期もありました。 そんな時には、朝から晩まで地図を広げて飛び込み訪問を繰り返し、自分なりの営業ルートを一から開拓していきました。 地元の〇〇〇屋さんにお願いをして見込み客情報を頂いたり、自社のオーナー情報から将来的なニーズを把握し、積極的に、かつ地道に草の根活動をしていきました。 「お話だけでも構いません」その言葉を何度口にしたか分かりません。 飛び込み営業は冷たくあしらわれることも多く、玄関先で門前払いされることも日常茶飯事です。 それでも、時折見せてくれる「頑張ってるね」「根気あるなあ」と掛けて下さった一言に、どれだけ救われたかわかりません。 特に心に残っているのは、あるオーナー様との出会いです。 最初は「忙しいから」と冷たくあしらわれましたが、何度も顔を出すうちに奥様と懇意になり、その奥様がオーナー様への橋渡しをして下さったのでした。 【根(こん)負けしたわ】オーナー様に笑われ、その日初めて名刺を受け取って下さった時の嬉しさと言ったらありませんでした。 そこから一年近く、様々なご提案をさせて頂き、ようやく受け入れて頂いた取引が大きな実績に繋がったのは言うまでもありません。 【努力は報われる】という綺麗事ではなく、【努力し続けた人にだけ、扉が少し開く瞬間がある】そんな現実を私は見た気がしました。 ✼••┈••✼ 後輩の存在が教えてくれた事 仕事にも慣れ、成績が安定してきた頃から、後輩の指導を任されるようになりました。 最初は正直なところ、【自分のことで精一杯なのに、人に教える余裕なんてない】と思っていました。 けれど一緒に動くうちに、後輩の目線で物事を見る事で、自分自身も初心に立ち返る事ができました。 【何がわからないかが、わからない】そんな状態の後輩に対して、昔の自分を思い出しながら、言葉を選び、ゆっくり説明するよう心がけました。 彼らが成果を出して褒められている姿を見るたびに、自分の事のように嬉しかったし、そして私は、気づき始めていました。 【自分一人で必死に走る】だけでは、いつか限界が来る、誰かと支え合い、チームで高め合っていく事が、長く働くためには必要なのだと、いう事に・・・ 時に励まし合い、時に競い合いながら、お互いを成長させていける関係、それはこの会社に入ったからこそ味わえた、かけがえのない経験でした。 ✼••┈••✼ 息子の存在と、表彰式でのモチベーションのアップ そんな過酷な日々の中で、私の支えになっていたのは、やはり息子の存在でした。 まだ幼かった彼は、私が働く背中を見ながら育ち、時には寂しい思いもさせてしまったと思います。 小学校時の時の予期せぬADHDの診断に戸惑いながらも彼には寄り添い続けましたが、その頃に事業の失敗もあり、彼には本当に想像以上の心的負担をかけてしまったと思います。 とくに高校時代は、思春期特有の反抗期もあり、私への反発もかなり強く出ていました。 何度もぶつかり、心が痛むこともありましたが、彼の視線をどこかで感じながら、【母として、逆境を乗り越える姿を見せよう】と頑張れたのだと思います。 ある時、彼との小競り合い末、あばら骨にひびが入ってしまった事があり、笑うと痛みが走るので会社では、階段で踏み外してしまったと方便を使い、後々方便がばれて大笑いされたという逸話があります。 背中で語る強さを、言葉にしない愛情を、少しでも彼に伝えられたら・・・ そんな願いを抱えながら、私は毎日仕事に向かいました。 今振り返ってみると、あの反抗期すらも、愛おしい時間だったように思えます。 彼のためにも生活を立て直さなければという必死な思いが、何よりの原動力になっていたのですね。 そして、もう一つ大きなモチベーションになっていたのが、年に二度の表彰式でした。 〇社長や○○常務の前で成績を評価されるその舞台に立つことが、私にとってのゴールであり、次のステップへのエネルギーでもありました。 努力が認められ、数字としての成果が認められる。 これほど報われたと感じる瞬間を頂けた事は、本当に有難い事でした。
・東証プライム上場企業を退社・そして現在に至る 1988年3月 〜 現在
✅匿名・年齢非公開にて活動しているため、企業名・会社名については明示せず、その在籍期間にも 仮想数字にて表示させて頂くことをご理解ください⭐️ ✼••┈┈┈┈••✼✼••┈┈┈••✼✼••┈┈┈••✼✼••┈┈┈••✼✼••┈┈┈••✼✼••┈┈┈••✼ ✼••┈••✼ 走り続けた先に見えた景色 振り返ってみると、本当に多くの困難がありました。 知識ゼロ、体力勝負、過酷な労働環境、そして精神的なプレッシャー。 それでも【何としてでもここでやり抜く】と覚悟を決め、逃げずに立ち向かってきたからこそ、見えた景色だったのかもしれません。 ✼••┈••✼ 退職への決断――「安定」を手放す、静かな覚悟 おかげ様で生活も安定し、債務の返済にもようやく目処が立ってきました。 この言葉を、こうして心からの安堵と共に書ける日が来るなんて――どん底にいた頃の私には想像もつきませんでした。 在職中は、有難い事に安定した収入があり、信頼できる仲間に囲まれ、大変と言えどもやりがいのある仕事に就いていました。 全国二千人以上の営業職社員の中でも、常に上位をキープできるようになり、やっとの思いでつかんだその地位を、私は誇りにも思っていました。 【私は、もう大丈夫だ】そう言い聞かせるように、毎日を走り続けていました。 けれど、時が経つにつれ、職場の顔ぶれも会社の方針も大きく様変わりしていきました。 以前感じていた【あの空気感】が、少しずつ薄れていく・・・ 同じ会社のはずなのに、別の場所へ移ってしまったような感覚が、私の中に芽生え始めたのです。 私の入社を後押ししてくださった〇社長や〇〇常務、入社時にお世話になった各部署の方々も、すでに会社を去っていました。 方針も大きく方向転換し、かつてのような活気が影を潜めたように感じられるようになると、私は心の奥に小さな違和感を抱え始めました。 【私は、ここで何を目指して走っているのだろう】 【この先の数年を、同じ温度で続けられるだろうか】・・・答えはすぐには出ませんでした。 私は、やっと掴んだ【安定】を失うことが怖かったのです。 安定とは、私にとって【命綱】でした。 二度と、電気が止まるような生活に戻りたくない、息子を不安にさせたくない。 その想いが強かったからこそ、変化への一歩が踏み出せませんでした。 そんなある日、グループ会社から独立し会社を立ち上げていた方から声が掛かりました。 『うちに来ないか』と・・・ しかも、『業務配分はあなたに任せる』とまで言っていただいたのです。 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなりました。 【信頼されている】【必要とされている】 それは私が長い年月をかけて取り戻してきた感覚でした。 もちろん不安もありました。 安定した生活を手放し、新しい環境に飛び込むこと、それは、過去の痛みを知っている私にとって、簡単な決断ではありません。 けれど同時に、私は直感していました、これは自分にとっての新たなチャンスだとも。 迷いに迷った末、私は思い切って退職する決意を固めました。 【今の私なら、もう一度挑戦できる】そう信じたかったのだと思います。 ✼••┈••✼ 退職後に訪れた【想定外の心身の崩壊】 退職してから次の仕事に就くまでの間、『しばらくゆっくり休もう』そう思っていました。 けれど現実は、そんなに甘くありませんでした。 役所や保険関係の手続き、各種の手配、生活の段取り、引き継ぎの連絡――。 【休むどころじゃないな】と苦笑いしながら、私は慌ただしく日々を過ごしていました。 そして、そんな忙しさの中で、ある朝・・・体が突然、言うことをきかなくなったのです。 『・・・起き上がれない』 目は覚めているのに、体が鉛のように重く、ベットから出ることすらできない。 最初は【疲れが溜まっているだけだろう】と思いました。 血圧が低いのかもしれない、栄養が足りないのかもしれない・・・食事にも気をつけ、水分も摂り、散歩も試みました。 でも、一向に改善の兆しは見えませんでした。 私はもともと、事業の失敗をきっかけに【うつ病】を患い、以来ずっと心療内科に通っていました。 薬も欠かさず服用し、自分の精神状態にある程度の理解もあったつもりでした。 けれど今回の症状は、明らかに【いつも】とは違いました。 不安で眠れない、気分が落ちる――そういうものではない・・・心以前に、身体が完全に止まってしまっている。 ブレーキを踏んだのではなく、エンジンが落ちた、そんな感覚でした。 私は息子に電話で相談しました。 すると息子は、少し強い口調で言いました。 「それはもう、一度病院に行ったほうがいい」その言葉に背中を押され、再び心療内科を訪れました。 ──診断は──【燃え尽き症候群】────── ✼••┈••✼ 頑張りすぎた自分へのツケ その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に何かがストンと落ちる感覚がありました。 【ああ、そうか・・・】 【私は、限界だったんだ】 前職での忙しさ、期待に応え続けるプレッシャー、孤独、そして生活を取り戻すための責任。 がむしゃらに走り続けた日々の積み重ねが、ここで一気に噴き出したのだと気づきました。 医師からは【しばらく休養して下さい】と言われ、いつもの薬に加えて新たな処方も受け取りました。 けれど、そう簡単には回復しませんでした。 薬を飲んでも、寝ても、横になっていても、朝が来るとまた起きられない、体を動かす気力が湧かない。 やる気を出したいのに、何も手につかない。頭では分かっているのに、身体が動かない。 ──頑張る──という言葉が、遠い世界のものになっていました。 そんな状態のまま、再就職先の入社予定日が刻々と近づいていきました。 何とかしなければ・・・でも、何もできない──。 ギリギリまで悩んだ末、私はその会社を訪れ、事情を正直に話して入社を辞退しました。 その時の心の中には、【この状態から抜け出せるのだろうか……?】という恐怖と、 【この先、どう生きていけばいいのだろう】という不安が渦巻いていました。 私は、再び【足元の地面が抜ける感覚】に襲われたのです。 ✼••┈••✼♡❀✨✿☘️ そして、ココナラさんとの出会い☘️✿✨❀♡✼••┈••✼ ✼••┈••✼ココナラさんとの出会い 身も心もボロボロになっていた私が、それでも【何かできないか】と探し始めたのは、ネットサーフィンでした。 うつろな気持ちでPCに向かい、何も考えられず、ただ漠然と画面を眺めていたとき、ひとつのブログが目に止まりました。 そこには、ココナラで電話相談を始めた方が、一年間の記録を丁寧にブログにまとめておられました。 その方の言葉は、なぜか胸にスッと入ってきたのです。 ――【これなら、朝起きられない私にもできるかもしれない】―― そう思ったのは、朝起きることが出来なくても、自分の時間に合わせて待機ができる自由度に魅せられたことと、これまでの自分の人生が、誰かの役に立つかもしれないと感じたからでした。 私は、20代で祖父母・両親の4人を見送り、その頃に摂食障害(過食嘔吐)を発症し、離婚を経験し、弟の裏切りにもあいました。 事業の失敗、うつ病、債務整理、燃え尽き症候群。 数えきれない試練の中で、何度も心が折れそうになりました。 ──「誰もが経験したことのないようなどん底人生」── そう言ってしまえば簡単ですが、その一言では言い表せないような壮絶人生でした。 少なくとも私は、何度も【終わり】の淵を見ました。 それでも、息子がいたから踏みとどまれたんですね。 支えてくれる人がいたから、つながれたんです。 そして、やっとの思いで歩いてきたこの道が、もし誰かの役に立つなら――。 私は、初めて【過去が意味を持つかもしれない】と思えたんです。 ✼••┈••✼ ココナラ・ゼロからの挑戦 さあ、そこからが大変でした。 何をどう始めたらいいかまったくわからず、右も左も手探り状態・・・ けれど、不思議と怖くはありませんでした。 【自分の力で一歩を作る】という感覚が、久しぶりに胸の中で息をしていたからです。 YouTubeで「ココナラ 電話相談 出品方法」と検索し、出品者さんの動画をひたすら視聴。 メモを取りながら、何度も繰り返し再生して勉強しました。 サムネイルは、ブログを立ち上げた経験のときに覚えたCanvaで試行錯誤しながら作成。 サービス内容の文章も、何度も書き直しました。 【この言い方は押しつけにならないかな】【この表現は、苦しい人の心に負担にならないかな】そうら、言葉を選び続けました。 気づけば二週間、食事と睡眠以外のほとんどの時間をパソコンとのにらめっこ… 夢中でした・・・とにかく自分の【これからの一歩】を形にしたかった。 そして・・・パソコンと格闘した末、なんとか出品までこぎつけることができました。 ✼••┈••✼ それが忘れもしない2024年3月6日のことでした✼••┈••✼ ✼••┈••✼ 出品後は…… 出品後、すぐにたくさんの依頼が来たわけではありません。 けれど、少しずつ、少しずつ、自分の声が誰かに届くようになりました。 誰かの心に寄り添い、話を聴き、【ありがとう】と言ってもらえる… それは、かつての職場で感じていた【達成感】とは、まったく違うものでした。 もっと温かくて、もっとリアルで、もっと人間らしい【つながり】でした。 私はようやく分かったのです。 人は、苦しみの中で孤立した時ほど【話したい場所】【聴いてもらえる場所】を必要としているのだと。 そして私は、長い人生で得たもの―― 痛みも、後悔も、涙も、挫折も、それらが✨【誰かの灯り】✨になる瞬間がある事を知りました。 ✼••┈••✼ ♡❀✨✿☘️ そして現在に至ります ☘️✿✨❀♡ ✼••┈••✼ 【誰もが経験したことのないような壮絶どん底人生】・・・そう思っていた私ですが、気づけば、たくさんの方々に支えられてきました。 ✨✨✨深く深く感謝いたします✨✨✨ 事業を失敗させた時、親類や多くの友人・知人は私の元を去っていきました。 気づけば、私と息子の二人だけ。 暗い部屋の中で息子の寝顔を見つめながら「私は、明日を乗り切れるのだろうか」と、何度も自分に問いかけました。 そんな状況にあっても、ただ一人、私を支え励まし続けて下さったのが家政婦の〇〇さんでした。 彼女はお亡くなりになるその日まで、私に寄り添い、励まし続けて下さいました。 この場をお借りして哀悼の意を表すと共に、とりわけ深い感謝の念に堪えません。 ❤️♡゚・。♡。・゚♡゚・。♡。・゚♡゚・。♡❤️ 長い長い文章をここまでお読み頂き、本当に感謝に堪えません。 ココナラでの新しい人生は、まだ始まったばかりです。 そして今の私は、誰かのお役に立てる【自分】になれたら…そう願う日々です。 ✼••┈••✼✼••┈••✼ 人生は、何度でもやり直せる ✼••┈••✼✼••┈••✼ ☘️✨その事を自分に教えてくれたこの経験と、全てのご縁に、深く深く深く感謝いたします!✨☘️
✼•┈•✼あとがきに代えて…今まで話せなかった、私の【ボタンの掛け違い】✼•┈•✼ 2024年3月 〜 現在
・書斎の片隅の、幅60cm・奥行き40cm・高さ90cmの四段チェストに、今も静かに眠る私の戦いの記録 2024年3月 〜 現在
✼••┈••✼ 最後に――今まで話せなかった【ボタンの掛け違い】 ここまでお読みくださったあなたに、最後にもう一つだけ、詳しくお話をしたいと思います。 これは、お恥ずかしくて、今まで誰にも語らずにきたことです。 【時が来たら、お話ししよう】・・・そう思って、ずっと胸の奥にしまってきました。 ようやく、その時が来たように思います。 思い返せば、あのテナント出店には、一つの【ご縁】がありました。 実家の家業が窮地に立たされていた頃、祖母のいとこにあたる叔母が嫁いだ先の土地に、東日本を中心に店舗展開をする大手スーパーが出店することになったのです。 「そこに出店しないか」――その話は最初、私を通して、実家の会社への打診として届きました。 けれど当時の弟には、それを受ける余裕など、どこにもありませんでした。 高校時代の同級生から持ちかけられた話で、約一億円もの取り込み詐欺に遭った直後だったのです。 心の余裕も、金銭的な余裕もない。 「受けられるはずがないだろう。やるんだったら、専務(私のことです)がやったらいいだろう」 弟の答えは、そういうものでした。 一方の私は、日銭商売こそ、今のうちに必要なものだと痛感していました。 卸の商いは、月掛けがほとんどです。 売上が立っても、現金が手元に入るのは先のこと。 だからこそ、毎日現金が入ってくる【日銭】が、どれほど大切で、どれほど商いを支えてくれるものか――私は身をもって感じていたのです。 「それでは、私がやります」 覚悟を決めて銀行に相談すると、二つ返事で乗ってくれました。 こうして私は、自らテナント出店へと踏み出したのです。 そして、日銭の入る商売の強さを、実際の売上という形で示し続けた結果―― 弟もようやくその大切さに気づき、実家の店舗を現金売りの効く形へと立て直し、見事に再建を果たしました。 あの時のご縁と決断がなければ、実家は持ちこたえられなかったかもしれません。 ここまでは、すでにお話しした通りです。 私がずっと言えずにいたのは、ここから先のことです。 あの出店の決断には、切羽詰まった末の必死さと同時に、【慢心】もありました。 「私がやれば、うまくいく」 実際に結果を出せてしまったことで、その慢心は、私の中で静かに育っていきました。 そしてその慢心は、のちの【会社売却と、新会社設立】という大きな決断へと、私を向かわせていったのです。 その中には、数々の不動産投資もありました。 有利な条件、新たな事業構想、広がる夢―― 当時の私は、それらの選択を疑いもしませんでした。 幼い頃、祖父のそばであれほど慣れ親しんだはずの九星気学を、慢心ゆえに、私はないがしろにしてしまっていたのです。 星の巡りに問うことすらせず、自分の力だけを信じて、突き進んでいました。 その恥ずかしい真実と向き合わせてくれたのが、九星気学のお師匠様との出会いでした。 『人は一生懸命生きているつもりでも、いつの間にかボタンを掛け違えて、誤った道を歩んでしまうことがある』 お師匠様のこの言葉と、星の巡りの読み解きを通して、私は初めて認めることができたのです。 私の掛け違いの一点は、あの【会社売却と新会社設立】の時だったのだと。 運気の流れを知らぬまま、慢心を追い風と勘違いして、動いてはいけない時に、大きく動いてしまった。 一つ目のボタンのズレが、数々の投資の失敗となり、負債となり、競売となり、どん底へと繋がっていた―― そう認められた時、悔しさよりも先に、不思議なほど深い納得が胸に広がりました。 だから私は、一度はないがしろにしてしまった九星気学を、お師匠様のもとで本格的に学び直すことを決めたのです。 祖父が遺してくれたものの本当の価値に、遠回りをして、ようやく辿り着いたのだと思います。 掛け違いに気づけたなら、ボタンは、いつからでも掛け直せる。 私の人生が、その証です。 信じられないような道のりだと、自分でも思います。 けれどこれは、脚色のない、私が実際に歩いてきた人生のすべてです。 ✼••┈••✼ 書斎の片隅で眠る、戦いの記録 その道のりの、動かぬ証が、今も我が家に残っています。 長い戦いの中で積み重なった訴訟の資料や、競売の時の書類。 それらは今、書斎の片隅にある、幅60cm、奥行き40cm、高さ90cmほどの四段のチェストの中で、すべて静かに眠っています。 一度は、すべて処分しようと思いました。 けれど、これは私が戦ってきた紛れもない事実。 そう思い直し、処分せずに残しておくことに決めました。 時折、その引き出しを開けて資料に目を落とすと、今でも胸が痛みます。 ですから、もうずいぶんと、あのチェストの引き出しは開けていません。 息子には「処分したらどうだ」と言われます。 けれど、まだその気にはなれません。 あれは、私が戦ってきた記録ですから。 その息子は今、首都圏に出て、経理関係の仕事に就き、頑張って働いています。 「いずれ帰ってくるの?」と問うと、「分からない」と言います。 そして、帰ってきたとしても、この家には住みたくない、と。 息子にとってこの家は、つらい思い出の多い場所なのでしょう。 私が必死になって守り抜いた家ですが、息子には息子の、あの日々の記憶があります。 それも、無理のないことだと思っています。 だから私は、息子にこう伝えています。 「この家は、お前の好きなようにしていいよ」と。 その時が来たら、あの四段のチェストに眠る私の戦いの記録も、きっと一緒に、処分することになるのでしょう。 それでいいのだと思います。 掛け違えたボタンは、もう掛け直しました。 記録を手放す日が来ても、そこから学んだことは、私の中に生き続けます。 その時まで、私は元気に頑張るつもりです。 長く険しい道のりでしたが、今、私はようやく穏やかな日々を送れています。 だからこそ願うのです。 あなたにも、一日も早く、その穏やかで幸せな日常が戻りますように・・・と。 そのすべてを、あなたの穏やかで幸せな日常のために使わせていただけたら、こんなに嬉しいことはないと思っています。 ✨✨これからも、どうぞよろしくお願いいたします✨✨ 長い長い私の壮絶人生を、最後までお読みくださって、本当にありがとうございました。 ✼••┈••✼ 人生は、何度でもやり直せる ✼••┈••✼ それを、私自身が、この身で証明してきました。 ✨✨これから出会う、すべてのご縁にも、深く深く深く感謝いたします✨✨ ✼•✼❤️♡❀✨✿☘️ あなたとお話しできる日を、心より楽しみにしております ☘️✿✨❀♡❤️✼•✼
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