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弁護士検索・法律Q&A(法律相談)
丁寧に寄り添ってあなたのお話うかがいます
悲しかったことも親身にお話うかがいます。
子育ての大変さ お話・愚痴うかがいます
気軽に愚痴れないあなたのお話お聴きします
毒親についてのしんどいお話お聴きします。
誰にも話せない話、私がお聴きします。
イライラしたお話お聞きします(*^^*)
お話をゆっくり伺って一緒に対策を考えます
4/27(月)13:10〜断続的に待機しますฅ...
ライフスタイル・その他 / その他 経験年数 : 25年
Excel 経験年数 : 6年
Word 経験年数 : 6年
Moneyfoward 経験年数 : 9年
ChatGPT 経験年数 : 2年
CapCut 経験年数 : 1年
PowerDirector 経験年数 : 1年未満
・丁寧に寄り添ってあなたのお話うかがいます
〇今日あった何気ないこと〇 〈何気ない話を気兼ねなくできるひと〉 意外といなくはないですか? 人から見たらどうでも良さそうな、でも自分にとってはちょっとうれしかったこととか… 電話の向こうに実際に会ったことはないけれど、とても話しやすい友達がいる。 あなたの心の友達みたいなそんな人になりたいです。 秘密厳守でお試しでもお気軽に♪ いつでもお電話くださいね(*^-^*)
・悲しかったことも親身にお話うかがいます。
・今日あった悲しいこと 起きたばかりならば今は息ができないほど辛いかも ・昔あった悲しいこと 何度も思い出して胸がギュッと締め付けられるように痛みますよね。 人は忘れていく生き物ですが、都合よく自分の意のままに忘れることはできません。 辛くて仕方ないときは、話して思い切り泣いてみるのも結構おすすめです。 たとえ涙が流れなくても話すだけで楽になることも多いんです。◕‿◕。
・子育ての大変さ お話・愚痴うかがいます
・なんだか夫の言葉がひっかかる… ・仕事は頑張りたいけど、職場で肩身が狭い ・親が言うことにイラついてしまう 子育ての過酷さは経験していない人には中々理解してもらえませんよね。 帰宅後や週末には育児に参加してくれてる旦那様でも、やはり長時間子供と過ごす大変さは理解できなくても仕方ないと思います。 そのモヤモヤをぶつけられない優しいあなたのお話お聴きします。。◕‿◕。♡
・気軽に愚痴れないあなたのお話お聴きします
〈愚痴なんて人に聞かせられない…〉 真面目で繊細なあなたはそんな風に思ってはいませんか? 私も同じなのでとってもお気持ちわかります。 でもね、話をわかってくれる人に聴いてもらうと胸の中に重く詰まっていたものが取り除かれて、風通しが良くなる、そんな感覚になったりするんです☘ これって心の健康にはとても重要かも? 心のデトックスも大切ですね(◍•ᴗ•◍)✧*。
・毒親についてのしんどいお話お聴きします。
【毒親】 思い出すだけで一瞬で暗い気持ちにさせられる… 忘れて自分の人生を楽しみたいけれど、昔あじわった恐怖・屈辱・痛みが何かのきっかけでよみがえってきてしまう。 どうして自分はこんな親の元に生まれてきてしまったんだろう… 何度も嘆くけれど理解者は全くいない。 恨みだって持ち続けたくない、その気持ち、私はわかりますよ。 溜めるとあまりに辛いからたまには吐き出してみませんか?
・誰にも話せない話、私がお聴きします。
✔今の関係を壊したくない ✔家族には絶対に知られたらまずい 誰にでも秘密の1つや2つありますよね。 バレるわけにはいかないけれど、胸の中にしまっておくとふとした時に思い出して 〈彼この映画好きだったなぁ…〉 〈彼女とよくこの店に行ったな…〉とか。 匿名で相談出来るココナラで話して思い出を味わいませんか? そうしたら今大切な人をもっと大事に出来るかも(*˘︶˘*)♡
・イライラしたお話お聞きします(*^^*)
・電車で並んでいたら割り込まれた! ・上司の言っていることが毎回違って困る! 小さなイライラから、激しいイライラまで、毎日たくさんのことが起きますよね。 イヤな気持ちを引きずりたくないのに頭から離れない~( `ー´)ノ そんな時は思い切り話してはき出してしまいましょう✨ 感情のデトックスのお手伝い、させていただけませんか? 早く忘れて一緒に前を向きましょう(✿^‿^)
・お話をゆっくり伺って一緒に対策を考えます
会ったこともない相手の話を真剣に聞いてくれるのかな、と 思いますよね? 自分でも不思議なのですが、誰かが悲しかったり寂しかったり、 それが私には自分のことのように辛く感じるのです(/_;) だからどうやったら解決できるのか、 気持ちが楽になるのか、 一緒に考えましょう。 あなたのお力になれたら、 そんな嬉しいことはありません。 お電話お待ちしてますね(*^^*)
英語 日常会話レベル
さとう まり 現在までのあらすじ 1970年4月 〜 1971年4月
・4㎏オーバーで元気にうまれる! / その他 1970年4月 〜 1971年4月
◇◇年齢などの詳細を非公開とさせていただいているため、誕生年などは設定できる昔寄りの数字とさせていただきました。ご了承ください。◇◇ 家から100mほどの小さな街の産婦人科で、4,400g越えのビッグサイズで生まれました。 父は建築会社を営み、母は専業主婦、2つ上に、同じく4,200g越えで生まれた兄と大型犬という家族構成でした。 当時母はお腹の子供の分まで二人分食べなきゃ、と25㎏増量したと聞いています。 今なら定期健診で注意されてしまいそうですね(^^;) 兄はパッチリふたえなのに、なぜか私はしっかり一重でうらやましく思ったこともありました。 父は真面目でギャンブルもせず、お酒も飲まず、いつも図面を書いていたような記憶があります。 母は幼いころはとても貧しかったそうです。 母のお父さんは公務員として稼いだお給料を子供が3人もいるのにもかかわらず、全額ギャンブルとお酒につぎ込み、暴力も振るい母のお母さんは大変苦労したとのことでした。 小学生から近くの歯医者さんの清掃のバイトをして、家計を支えたそうです。 そんな苦労人の母は、父と結婚し社長夫人としてお金に困らない暮らしを満喫していました。($・・)/~~~ 髪にグリーンやパープルのメッシュを入れて、小学生くらいになると恥ずかしかったのを思い出します。 夜に飲み歩いて夕飯がなかったり、子供のわたしはお腹を空かせて泣いていたこともあったのでした。 母について書きだすと長くなってしまいそうなので、また別の機会に書きたいと思います。 ˖✻*˸ꕤ˸*⋆。˖✻*˸ꕤ˸*⋆。˖✻*˸ꕤ˸*⋆。˖✻*˸ꕤ˸*⋆。˖✻*˸ꕤ˸*⋆。 *天才ピアニストになるはずだった* 小さい頃はおもちゃのピアノでよく遊んで、本物のピアノがきたら練習ばかりしている子供でした。 4歳からはピアノ教室にも通い、順調に上達していくかと思われましたが・・・ 小学2年生の時に教えてくれた先生に手を鍵盤に叩きつけられて、簡単に心が折れ、意外にも早く終わりが訪れるのでした。 *かしこすぎるシェパード君* 飼っていた大型犬のシェパード君にはお馬さんごっこに付き合ってもらったようで、記憶はありませんが写真が残っています。 大人になった今、悪いことをしたなぁとしみじみ思いますが、子供とはいえ重かっただろうに耐えるなんて、ものすごい忍耐力だなとワンちゃんの頭の良さに驚いてしまいます。(゜o゜) *むかしは虫とりができた* 兄がいたこともあり、サッカーをしたり、カマキリを捕まえたりする女の子でした。 今では虫は苦手だと思っています。 苦手だと思っている、と言うのには理由があるのです。 なぜなら、 ・よく見かける虫(玄関先の花に住み着いたりでよく会う虫)には名前をつけています。 カメムシ→カメちゃん、カマキリ→カマちゃん、芋虫→イモちゃん といった感じです。(^-^; ・こわい虫を見たらすぐにGoogleで調べて理解しようとします。 そしてその虫がいかに恐ろしかったか、と調査結果を誰かに話してしまいます。 ・調べた結果、私の育てている植物を食べたいようなら、枯れない程度なら良しとして、成長を観察します。 これらを踏まえるともしかしたら好きなのかもと少し思ったりします。 *運動神経はいまひとつ* 兄とサッカーをしたり、活発なタイプだったかな、と思いますが、 走るのは平均よりやや遅め、 ハードルはなぜか普通に走った時とほぼ同じタイム。 ずっと水泳を習っていましたが、 バタフライなんて出来ないですし、 学校で選手に選ばれても、 驚くべき遅さでみんなをビックリさせていました。 運動はすこし苦手意識がありますが、 いつかは 体を動かさないと気持ち悪いんです(^_-)-☆ と言うくらいの運動習慣を身に着けたいと思っています。 *両親の離婚* 私の人生の一大事として両親の離婚があります。 父はとても温厚で釣りとゴルフが好きな人でした。 お酒は1滴も飲まないので、母はたくさん飲みましたが 父がいつも運転してくれました。 最初に少し触れましたが、母はすこし奇抜なタイプだったため、 私はおとなしめの父によくなついて一緒に遊んでいました。 小学3年のとき、父が休みの日に出かけようと一緒に行くと、 知らない女性を紹介されました。 一緒に買い物へ行き、普段母には買ってもらえないタイプの洋服も、 その人は大人っぽくて良いんじゃない?と言ってくれて、 優しい人だなと思ったのを覚えています。 後にその女性は父の通っていた床屋さんの理容師の女性だったとわかりました。 その日の帰宅後、今日の話は内緒ね、と父が私に自宅の駐車場で言いました。 帰宅後の親子が車からすぐに降りてこないのを不思議に思った母が、 私を問い詰めて、父の浮気は発覚してしまうのでした。 それからは子供にとっては厳しい日々でした。 母はいつも父と言い合いになり、毎日毎日口論をしていました。 ある時は母が「死んでやる!」と言って包丁を持ち出し、 父と私の前で包丁をお腹にあてたこともありました。 たまたま1週間前に刃先が折れていたので刺さりませんでしたが、 子供の私にとっては地獄絵図でした(T_T) そのためかはわかりませんが、私は先端恐怖症で、 指ですら先端が細い形状のものは見るのが辛いです。 そのあとだいたい父は言うのでした。 「もう大丈夫だから、心配かけて悪かったね。」 そんなことを何度か繰り返すうちに、100mほど離れた場所に父は出ていき 両親は別居することになりました。 別居は数年続き、その後離婚することになったのでした。 離婚に至るまでも書き出したら色々と…あったものです。(*_*; ・父に連れていかれた相手女性の家を、思い出して案内しなさい! ・相手女性宅前で偵察!小学生のわたしも同伴!! ・裁判では『死んでやる~』と叫ぶよう指示! 離婚成立のころに中学生になっていた私は、 これで大喧嘩や、目の前で死のうとする母を見ないで済むんだ、 と思ったのでした。 *剣道部のはずが…* 兄の影響を受けて、女子力高めではなく、 男子力高めに育っていた私は、 中学で剣道部に入ろうと考えていました。 中学受験をして地元から少し離れた女子校へ進学しました。 それにもかかわらず、とても珍しいことに、 同じ小学校の友達がその中学へ入学したのでした。 当然慣れない電車通学なので、 はじめは一緒に通学し、 部活動は何にするか相談しました。 私は剣道部、彼女は吹奏楽部を希望したので、 2つのクラブを見学に行くことにしました。 最初に剣道部へ行くと、いかにも武道をしている感じの さわやかな先輩が案内をしてくださいました。 わたしは、「そうそうこういう感じをイメージしてたの♪」 と剣道部に入った未来を想像していたのでした。 その後友人の入りたい吹奏楽部へ行くと、 女子校ゆえに人気のパート(フルート、クラリネットなど)と、 人気のなさそうなパート(低音楽器、パーカッション)との 歓迎の度合いに大きな差があり驚きました(+o+) ひときわ大歓迎ムードで目立っていたのが、 様々な楽器を派手にたたきながら叩いてみる? とグイっと距離をつめてきたパーカッションの先輩でした。 一瞬でド素人(わたし)相手にセッションしているかのような空気を演出し、 私できるのかも(^^♪ と中学生の私は思ってしまうのでした。 この流れから、私は吹奏楽部へ入っちゃったんだろうなぁ、と 予想される方は多いと思います。 (ー_ー)!! 入りました。 吹奏楽部へ。。。 担当はもちろんパーカッションです。 今でも先輩のインパクトはすごかったなぁと思います。 私がパーカッションの流れは先輩の個性の強力さもあって 仕方ないと思うのですが、 もう一人の登場人物の友人が最終的にどこを選んだかというと、 Σ(・ω・ノ)ノ! 剣道部‼‼‼ エッ、そんなことある!?(*_*; 吹奏楽部でおしとやかにフルート吹くかもしれなかった友人が 急に 「メーーーーーン!!」 「ヤーーーーーーーーー!!!!!」 とかなりますか・・・と思いましたが、 女子中学生のこころはうつろいやすかった、と いうことでしょうかね(^^;) それから友人も私も、中高一貫の長い間、 その部活を続けたのでした。 私は朝練をするほど熱中し、 吹奏楽界隈ではレジェンドのアルフレッド・リードさんと 共演することもできました(^^♪ それはそれは幸せで、 リードさんが怖すぎて!強烈な思い出となっています。 詳細説明: リードさんが怖すぎて!というのは、 ご本人が作曲された曲目をリハーサルしていた際に 音がずれていたり、抜けたりすると、 指揮台を指揮棒で激しく叩いて、 担当パート方面にげきを飛ばしていたからです。 作曲者の一音一音に込めた情熱を感じた瞬間でした。 学生時代にリードさんの指揮で演奏する機会に恵まれたことを、 今でも感謝しています。 ………………………………………………………………… その女子校吹奏楽部へ、入部してからというもの、 驚きと発見の連続でした。 小学校時代は可もなく不可もない普通の子で、 どちらかといえば静か、やんちゃには程遠い性格でした。 それが中学校で個性強めの先輩と過ごすようになってから、 ・打楽器パートなのに、なぜか走り込み! ・コンクール前の練習を抜け出し美術館鑑賞!! ・でも基礎練習はめちゃくちゃ真剣に!!! といった不思議な日々を送ることになったのでした。 個人練習で上手にできた時の小さな達成感も嬉しかったですし、 本番の合奏でうまくいったときの全身ゾクッとするほどの感動は忘れられません。 地道に努力を続ければ一つ一つ達成していける、と今の私が思えるのは 吹奏楽のお陰かもしれません。 娘が少し前にピアノを習い始めたときには、 自分がうまくもないのに熱心に指導し、 練習が大変、と娘は1年ちょっとでやめてしまいました。 (たぶん私のせいだと思います)(^^;) その時ピアノはレンタルしていたので私も再開してみようと 再開する大人向けの楽譜も買って数回は弾きましたが、 毎日弾くと決めても全然できず… 今の自分はほかにやりたいこともあるから、 ピアノはあとのお楽しみにとっておこう!と 潔くあきらめピアノとお別れしたのでした。 それがいまの私にはちょうど良かったようで つたない自分のピアノにイライラすることもなくなり、 プロフェッショナルの素敵な音楽に心を揺さぶられようと、 辻井伸行さんのピアノコンサートへ行くことにつながるのでした。 久しぶりに心から感激し、 自分にも推し(辻井さん)ができたようで、 これからの楽しみと張り合いが一つできました。 辻井伸行さん、本当に素敵な演奏をありがとうございます(^^♪ 今は吹奏楽はできないけれど、 小さい頃に早々に挫折したピアノをまたいつか再開する日まで、 辻井伸行さんやそのほか素敵な音楽家のコンサートに触れて、 エネルギーをチャージしていく予定です。 コンサートに行けなくても YouTube動画などを聴いて心の洗濯をして 毎日を少しでも豊かにできたらと思います!(^^)!
さとう まり 現在までのあらすじ 2 1971年4月 〜 1971年5月
・お金持ちの家から母子家庭へ / でも母は見栄っ張り! 1971年4月 〜 1971年5月
*両親の離婚 その後* 両親が中学生の時に正式に離婚したあと、 近所ではまあまあお金持ちと言われていた我が家は失速していきました。 その土地を離れれば良かったと思うのですが、 父が建設会社をやっていた看板の跡が残る家に 名字も変えずに住み続けたため、 母は一生懸命見栄をはり続けることになりました。 離婚前の別居時代は、子供たちは絶対に私立中学へ行かせたいと母は言い、 兄と私は二人とも地元ではなく1時間ほどかかる中学まで 通うことになり、毎年のように海外の南の島へ旅行に出かけたり…。 母は頻繁に高級時計やブランド品を買って、 今思えば私は不幸なんかじゃない! シングルを満喫している!! とそんな風に見せたかったのかな…なんて 思ったりします。 母は離婚後、40代で突然証券会社の営業になりましたが、 父から受け取っていた生活費ほどは全然稼げなかったと思います。 それでも「みじめになりたくない」と口癖のように言っていたので、 どうにかお金の心配を子供たちにかけないように ちょっと良いものを買うことをやめずに暮らし続けるのでした。 そのため、ご飯がものすごく節約メニューになったり、 必要なものが買えなかったり、そういうことはなく 母子家庭でも過ごさせてもらいました。 後から聞いたところによると、 父からは毎月20万もの仕送りがあったそうなので、 父も自分の会社をつぶして離婚したあと、 それだけの金額を送るのは大変だっただろうな、と 大人になってから感じています。 その仕送りは、きっと暮らしはもちろんのこと、 母の壊れかけのこころも支えてくれてたんだなぁと 思います。 *シングルになった母* 母は証券会社で稼いだお金と、 父からの仕送り、そして貯めていたへそくりで 生活レベルを落とさない【みじめではない】暮らしを続けました。 でも父の浮気の末の離婚で傷ついた心は 本当は何も癒えてはいなかったと思います。 なぜなら毎晩のように、声を殺してすすり泣くのが 聞こえたからです。 それを毎晩聞くのは、 学生時代の私には中々厳しいものでした。 母が家族思いで献身的なお母さん像であれば良かったのですが、 母は派手で夜遊びをよくする人でした。 子供の私から見ても一生懸命働く父をねぎらう、 といった様子は記憶になく、 夕飯がなかったり、何時になっても帰らなかったり… 複雑でしたが、父の気持ちが他の女性へ向くのも仕方ないかな、 なんて中学生の頃の私は生意気にも思っているのでした。 母のこころと同じように、生活も少しづつ少しづつ 壊れていくようでした。 家はごみ屋敷になり、当時飼っていた毛の長い猫のチンチラも キッチンに閉じ込めていました。 中学生の私は母に対する冷たい本音を胸にしまい、 まず自分が生きるために悲しむ母を どうにか助けなければ!と 母が喜ぶことを一生懸命やりました。 ・埃だらけのトイレ掃除 ・カビが生えたお風呂掃除 ・髪の毛を誰も拾わない洗面所の掃除 ・猫缶を洗わないで放置したため虫のわいたキッチンの掃除 可愛がられていた猫は急に飼育放棄状態になり、 私や兄がご飯やトイレのお世話はしたものの、 長毛種なのにもかかわらずブラッシングは出来ておらず、 毛玉が多く出来てしまっていました。 ある日、泥酔した母は、ごめんね、と 泣きながらその猫を連れてきて、 いつもしていたように毛玉を切ろうとしましたが、 手元がおぼつかないため、 皮膚を傷つけてしまうのでした。 そのたびにギャッ!と猫が鳴き、 何度も何度もやめてくれと兄と頼みましたが、 酔った母を止められず、 猫は体のたくさんの場所に切り傷を負ってしまいました。 毛玉があまりに多く、体も清潔に出来ていなかったため、 トリマーさんに依頼することになりました。 シャンプーをしてきれいになって帰ってくると思っていましたが、 予定より早く帰ってきてしまいました。 どうしたものかとお話を聞くと、 母が傷つけた傷が激しく開いたようになっていて、 とても洗ったりできる状態ではないから、 病院へ連れて行ってあげてください、とのことでした。 自分が傷つけてしまった母は病院へは行けないといったので、 大学生になっていた私が病院へと連れて行きました。 すると、猫を診察した獣医さんはとても悲しい顔をして 「どうしてこんなに傷ができてしまったの?」 と聞きました。 私は泣きながら恥ずかしい家の事情を話しました。 すると獣医さんはさらにどうしようもなく悲しい表情で 「この子は乳ガンです。 はさみの傷ができた場所に腫瘍があって、 腫瘍が破けた状態です。 もう手の施しようがないから、 消毒をしながらこれからは毎日大切にしてあげてください。」 そう私に伝えたのでした。 帰って母に話すと今までのことを反省するように涙し、 それから約1か月後にその子がなくなる日まで 大事に大事に残された時間を その子第一で暮らしました。 今思い出しても、胸が苦しく、 そんな寂しい日々を、そして痛い思いをさせないように 私がもっとできることがあったのでは、 と後悔が消えることはありません。 …………………………………………………… 両親の離婚後はいつだって、 私は母を喜ばせようと、 喜ばせる母思いの娘でなくてはいけない、と 思う気持ちは止まりませんでした。 高校生の時にアルバイトをはじめた時も、 常日頃から 「ルイヴィトンのリュックサックが欲しい」 「ルイヴィトンのこのシリーズの長財布が欲しい」 と聞いていたので、 真っ先にプレゼントしなければと 思っていました。 今思えばおかしな話だな、と思いますが その時は当たり前だと思っていました。 でも苦しい気持ちは持っていたような気がします。 なぜなら私が必死で稼いだお金が、 どうしてもどうしても必要で欲しいもの、というわけでもない、 着飾るための1つの装飾品のようなものに変わってしまい、 私は自分の欲しいものは我慢していたからです。 対照的なことに、兄は母のために何かをしなくちゃ、 という感じはなく、 もらえるものはもらうタイプでした。 子供ってそういうものかもしれませんが、 当時の私は少しお小遣いをあげる、と言われたら、 「私はいらないから母の好きなものを買って」 という子でした。 頑張って、少し無理をしながらそんな状態だったので 兄はどうして甘えてばかりで母の力になろうとしないのか、 なんて自分が正義のように思い込んでいました。 母はその後スナックを開店し、 残念ながら経営に苦しむ日々を 十数年細々と続けましたがのちに閉店することになりました。 なぜそんなに細々と続けられたかというと、 自宅を改築して店舗を作って毎月の家賃がかからないようにしたからなのでした。 バーテンダーの修行をはじめる際は、 「そんな水商売をするなら家を出ていきなさい!」 と猛反対で家を追い出されました。 母子家庭の奨学金の返済と母への仕送りがあり、 見習いバーテンダーのお給料では到底暮らしていけませんでした。 このころにバーテンダーを週6日、 残りの1日はラウンジでバイトをして どうにか暮らしていきました。 キャッシングなどもかさんで一時は100万円ほどになり、 当時の私は稼いでは返す、の繰り返しでした。 自分のお金じゃないのに、 若い頃の私は使ってよいお金のように考えてしまい、 とても長い年月をかけて返済することになるのでした。 借りたお金を返すってこんなに大変なんだ(>_<)と 頼るあてもない私は必死に働きました。 その必死なときのエピソードとして今でもたまに思い出すのが、 トマトは高級品!! で買えなかった、ということです('◇')ゞ お恥ずかしい話ですが、トマト1つが100~150円くらいで売っていて、 キャベツも同じくらいの値段だったのです。 トマトは1度に食べてしまうかもしれないのに、 キャベツは何回か食べられちゃうのです(ー_ー)!! キャベツ最高!! でも実はトマト大好きでして、 今もトマトが自由に買えるって素晴らしいなぁ…幸せだなぁ…✨ と、トマトを買える今をかみしめているのです。 小さな幸せですね。 ある時期は返済に追われ過ぎて ラウンジバイトを週に1日増やして 多く稼いで返済をする、という風に するしかないときもありました。 ラウンジのお仕事は女子らしさに自信はあまりない、 可愛さをアピールすることがだいぶ苦手な私には向いてなさそうでしたが、 生活やバーの修行を続けるため稼ぐ、というはっきりとした目標があったため、 頑張ったのでした。 それでも嘘をついてお客様をお店に誘ったり、 誕生日が頻繁に来るようなやり方は頑固な私は出来なかったため、 気の合う、上品で紳士的なお客様に支えられ、 その時期をどうにか乗り越えられたと感謝しています。 ………………………………………………………………………… このココナラの自己紹介文を書きながら、 ラウンジバイトのことを久しぶりに思い出しましたが、 (ほぼ頑固おや〇な)私はラウンジで働くうえで決めていたことがありました。 それはお客様に触れないこと、そして触れられないことです。 甘え上手の女子力高めのかわいい子はボディタッチも交えつつ、 恋人気分を演出したりできているのに、よく働けたものです。 そんな完全に向いてなさそうな私でも、 飲み友達のように会いに来てくださる方もいてくださり、 常連様も沢山ついてくださりやっていけたのでした。 少し無理をした時代でしたが、 その時期があったからこそ、 今好きな仕事を続けられていることが、 貴重なことだなと感じます。 好きなことを仕事として続けるために 若い頃は毎日毎日復習と反省を繰り返しながらやってきました。 今では自然に楽しくお話して、 笑顔でお帰りいただけるコミュニケーション術を身につけられたと思います。 その結果バーテンダーを25年以上も続けてこられて、 夢だった自分の店も15年以上も続けてこられたのも すべてお客様のお陰だと思います。 ただ、夜の時間帯の仕事ということもあり、 子育てと並行していくのは困難を極めています( ;∀;) 私の家族には残念ながら助けてくれる祖父母はいません。 夢は実現したものの、維持するのは本当に難しく、 現在は数名のシッターさんに交代で助けていただきながら どうにか少ない日数だけ開店できています。 子供たちが小さいころは、保育園へ行きたくないと泣かれるたびに 胸が張り裂けそうになりながら、 仕事もしっかりしたい自分もいて… それでも子供が生まれてからは、 子育て期間中は最優先は子供、と決めているので、 随分と仕事に打ち込むことが難しくなってしまっています。 お店もあまり開けられなくて、 真剣に仕事について考察することもあまりできない、 そんな自分がバーテンダーを続けていても意味がないんじゃないか、 葛藤の連続でした。 それでも悩みながらも必死に続けてきたことを今では誇りに思っています。 色々と辛いこともありましたが、一つの経験として 誰かにお伝えすることで、元気が出たり前向きになれたりしてもらえたら、 そんなに嬉しいことはありません。
さとう まり 現在までのあらすじ 3 1971年4月 〜 1971年4月
・中学から高校のころ 1971年4月 〜 1971年4月
◇◇年齢などの詳細を非公開とさせていただいているため、誕生年などは設定できる昔寄りの数字とさせていただきました。ご了承ください。◇◇ 私は母の希望でその地域ではお嬢様学校と言われている中高一貫の女子校へ進学しました。 お嬢様学校というと素敵そうですが、 親世代には評判良く同世代には地味でダサい学校というイメージの学校でした。 その時代はルーズソックスが流行っていたのですが、 ルーズソックスに合うようなチェックの可愛いスカートとかでもない 変わった色の制服なのでした。 学校でのスカート丈チェックに引っかからないように 細心の注意を払いながら少しだけスカートを短くする、 といったことくらいしかアレンジもできない、 結果として冴えない制服なのでした。 そういう校風ということもあり、 入学する子も多くは真面目でおとなしめの子が多かったです。 吹奏楽部の仲間たちはみんな良い子たちばかりでした。 クラブが一緒の子はクラスでも仲良く過ごし、 中でも一人の子ととても仲良くなりました。 彼女は私とはだいぶタイプの違う、明るく元気な子でした。 真面目だけどノリが良く、ピアノも上手で みんなの人気者でした。 彼女はその明るさで上級生からも慕われていました。 彼女には通学途中の電車で会う 一目で恋に落ちてしまった人がいました。 その彼はたまたま私が通っていた塾で一緒だった人で、 とっても真面目で優秀な男の子でした。 面白いエピソードなど一つもないのでは、 というくらいの勉強家でしたが、 私の友達は彼の塾での様子をうっとり幸せそうに聞く かわいい恋する中学生なのでした。 今ではわが母校の教師をしています。 一方の私は、小学校時代はクラス替えがあるたびに、 毎年好きな男の子が変わる一途になれない小学生でした。 あげくの果てに学校にも塾にも好きな子がいて、タイプもバラバラで 友達の一途な恋の話を聞いているときはとてもうらやましく思ったものです。 最後の6年生で一緒だった大人っぽい雰囲気のイケメン男子と 朝駅まで一緒に行く約束をして、 ワクワクドキドキ(いまどき言わないですね)していましたが、 お互い緊張してぎこちなく、会話もはずまなかったので、 3日も持たず、2日で終了となったのでした。 その後も電車で素敵な人を見つけたりすることもなく、 友達の恋愛話を興味津々に聞いては、 キュンとしているような女子中学生でした。 残念ながら通学途中で男子にキュンとすることはありませんでしたが、 吹奏楽にはどっぷりハマってしまい、 練習が楽しくて仕方ありませんでした。 そのせいか中学生で所属した社会人が多く所属する楽団では、 打楽器の上手な人はみなカッコよく見えたのでした。 ティンパニをダイナミックに叩く中学校教師の方や、 正確にバスドラムをたたく高校生。 大人ってすごい!かっこいいなぁ、と眺めていました。 一番の思い出は吹奏楽ですが、ほかにも 50M走と50Mハードルがあまりタイムが変わらないという不思議! (50M走が遅いということ…) 例の真面目な友達と自習時間に脱走して 校内探検→見つかって涙ながらに先生に謝る( ;∀;) など、思い出してみると色々あった中学校生活でした。 ……………………………………………………… 私の通った学校は中高一貫でしたが、 高校になると中学の時と同じ人数の生徒が 新たに入ってきました。 高校から入学してきた子たちは、 中学からの生徒たちとだいぶタイプが違う 少し世間を知ってそうな生徒が多かったようです。 「この前出会い系で社会人と遊んだの。今度一緒に行かない?」 「大学生と合コンするけどどう?」 部活ばかりやっている私は、 (◎_◎;) えっ!なんのこと!? と全くついていけませんでした。 先生にどんなに怒られようとも髪を明るく染めてみたり、 マラソン大会は歩いてみたり、 はっきり反抗的な姿勢をみせるのはすごいな、と思っていました。 私は高校へ進んだあたりから、 理系と文系で親友とクラスがわかれたことや、 高校から入ってきた新しい友達と仲良くなったこともあり、 時どき学校をさぼるようになりました。 友達と一緒に映画を見に行ったり、 通学途中にあるファーストフード店に行くと友人に会えたりして、 丸一日は休まずに、遅刻や早退をする生活をはじめました。 これは不良か、と言われれば不良なのかもしれませんが、 髪も黒く見た目は地味で反抗的な態度も先生にはとらない あいまいな非行に走っていたのかもしれません。 当時の担任は物静かなベテランの女性教師で、 怒ると怖いと恐れられていましたが、 私には注意することもなく、 見守ってくれている、と私は感じていました。 私の家庭が母子家庭であることはもちろん先生はご存じで、 普通なら何時間も遅刻したら家に電話がかかってきそうなものですが、 それも一度もかかってきたことはなく、 たぶんこの子はとんでもなく悪いことはしないだろう、と 信じてくださってたのでは、と前向きに考えています(^^;) サボりだらけの生活でしたが、 休んだ回数はしっかりメモしてカウントし、 ギリギリ補習などにならないラインを死守していました(ー_ー)!! そこにそんなに頑張れるなら、 学校行けなかったかな…と思われてしまいそうですね(^^;) その時の私には温かく包み込んでくれる 安全な基地のような家は存在しませんでした。 甘えられる母もいませんでした。 うまく表現は出来ないですが、 激しく非行には走らないけれど、 普通に通う、という当たり前と言われそうなことが 出来ない普通っぽい見た目の高校生だったのです。 周りから見たらごく普通の何の変哲もない高校生だったと思いますが、 幸せそうに見える同級生にはバレないように表面的には明るく、 心の中に暗いものを隠して暮らしていたように思います。 今思い出しても明るく楽しい青春時代とは言いづらい 外見は普通を装った、心の中は暗い高校時代だったなぁと思います。 それでも吹奏楽部で一緒だった友人や先輩とも今もつながりはありますし、 時間がたった今では辛くて仕方ない思い出とかいうこともなく、 ちょこっと胸がキュッとなるような感覚で、 当時の苦しさは継続していないです。 時間が癒してくれる部分も大きいのかもしれませんね(*^。^*) ……………………………………………………… 両親が離婚していた私は母子家庭のための奨学金を 中学から受けていました。 高校卒業後の進路を考えたとき、 私はすでに相当な額の借金を抱えた状態だなと思いました。 そこで大学でどうしても勉強したいことがあるのなら行きたいのですが、 特にないのなら借金を増やしたくないな、と考えた私は、 進学の希望はないと担任の先生にも伝えました。 しかし進学校だったこともあり、先生方は動揺した様子でした。 家では自分が苦労して育った母から 自分がいけなかった大学へどうしても行ってほしい、と強く強く言われ、 渋々付属の大学へ進むことになりました。 英文科でしたが、英語に興味はありましたが 妙に現実的な女子大生だった私は大学生活を楽しむより、 レストランのホールのアルバイトを時間がある限りやっていました。 接客はとても楽しくやりがいがありました。 ファミリーレストランだったのでマニュアルがしっかりありました。 そのため当時はマニュアルは守りながら、お客様に合わせてアレンジしながら お客様に喜んでいただけるよう日々頑張っていました。 常連様の笑顔にはとても救われました。 特に印象的だったのは、アルバイトをはじめた当初は苦手だった子供が はじめて笑顔で手を振ってくれたときでした。 騒いで走り回って周りのお客様に迷惑をかける困った存在だと思っていたのに、 なついて話しかけてくれて、バイバーイと手を振ってくれた時は 【なんてかわいいの⁉】 と衝撃が走りました。 私が子供をかわいいと思って接するようになってからは、 どんどん子供たちが寄ってきてくれるようになり、 私も子供が大好きになりました。 常連さんで友達のようになる子供もあらわれ、 自分の意外な一面を発見したのでした。 今は自分の子供もいますから接することに抵抗は全くありませんが、 子供は思い通りに動いてくれないので、 いつも子育ての厳しさを痛感しています。(>_<) ファミレスバイトを真剣に続けた結果、 私はさらに一人一人のお客様にあったサービスができる仕事はなにか、と 考えはじめました。 働いていたファミリーレストランでも仕事ぶりを評価していただいていたので、 そのままファミレスに就職することも考えました。 しかし、当時24時間のファミリーレストランに女性が正社員で入っても、 店長になった後の未来がどうにも描けませんでした。 結婚・出産などできないのではないか、 そもそも女性の就職先として24時間のファミリーレストランはどうなんだろう。 そして私は母を支えなければという使命感のようなものがあったので、 自分で手に職をつけ、独立して稼げる仕事はなにか、 そして誰かに喜んでいただける仕事はなにか、 を真剣に考えました。 ・レストランの開業 ・介護のお仕事 ・バーテンダーとして独立開業 熟考した結果、より一人一人に合ったサービスを提供し 喜んでもらえるかも、とバーテンダーを志すことにしました。 今思えば、ファミリーレストランの正社員よりもはるかに 女性の末永く続くキャリアを思い描きにくい職を選んでいることに愕然としますが 変なところが頑固でやると決めたら絶対にやる、やらないと気が済まないタイプのようで、 そのような流れになってしまったのでした。 それでも頑固さがたまには功を奏し、 25年以上も続けたいほどの仕事につけたのですから、 頑固も悪くないのかもしれません。(^^;) ……………………………………………………… バーに入る時も募集を見て応募するのではなく、 自分が素敵だと感じた人のもとで学びたいので、 実際うかがってサービスに感動したお店に突然問い合わせて、 募集していないのにもかかわらず採用してもらうことに成功し、 無事素敵で尊敬できる師匠のもとで修業をスタートすることができたのでした。 そのころから、自分が感銘を受けた人には突撃して勉強させていただくスタイルが だんだん確立されてきたかな、と思います。 若い頃はただ突撃して、偉い人の時間を奪う無礼も多々あったと思います。 申し訳なかったです。 コンペティション終了後にお疲れの審査員の方にお話を聞こうとしたり、 いま思い出すと恥ずかしいことだらけですが… だんだん誰かの時間を使って何か助言をいただいたりすることとは、 どういうことか考えるようになってきてからは、 だれにとっても貴重な時間を一方的に奪うようなことがないよう、 いつも気を付けて過ごしています。 それゆえに声を掛けられずにもじもじして 自分の時間を無駄にしてしまうことも多くあるのですが、 自分の時間なら、まあいいかな、と感じています。(よくないかも…) たくさんご迷惑をお掛けしたと思いますが、 今まで出会ってかかわって成長させてくださった方々には感謝の気持ちでいっぱいです。(*^-^*)
某リキュールメーカー カクテルコンペティション 上位入賞 2002年6月
某バーテンダー組織 カクテルコンペティション 上位入賞 2001年10月
某都市主催 カクテルコンペティション 上位入賞 2002年11月