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「歯磨き粉は(アズキ1個位)でOK~♪」

・・・ということじゃ。ど?やっぱり、「歯ブラシにいっぱい歯磨き粉をつけたいのかな~?」もし、今まで通りに「山盛り」の「歯磨き粉」を使うと、結果的に「虫歯」になり「糖尿病」にもなる可能性が高いのじゃ!・・・「え?ウソだってかい?」・・それがね~もう結果が出ているよ~じゃね。「だって、いっぱいの歯磨き粉の方が、何か(効果的?)に感じるし~!」と言いたいのじゃろ~けど、あの「歯磨き粉」って、ナニが入っているのか知っているのかな?・・・「え?あまり知らないな~。」・・・「ね~、そうでしょ~!あの中には(ラウリル酸ナトリウム)という(ヤベ~やつ)が入っているのじゃ!」・・・「それって、ヤバイの?」・・「そうだよ~!ちょっと歯磨き粉のチューブとか外箱とかに書いてあるじゃん!見てみ!」・・・「あ~、あった!ラウリル酸・・・。」・・・「そう!それじゃ!それって、簡単に言うと(石鹸=せっけん)じゃね!」・・・「は?せっけんって、あの泡がブクブク出るあの、せっけんなの?」・・・「うん。そうだよ~!ど?オクチの中で(セッケン)をゴシゴシと混ぜて洗って磨いている!」と言うワケじゃ。「どぉ?ちょっと怖いじゃろ?」・・・「う~ん。怖いよ!知らなかった!」、・・・「だから、アズキ1個くらいでイイんだよね~♪OKかな?」・・・「うん。OK!今度からちょっとだけ(歯磨き粉)はつけて、歯を磨くよ!」・・・「OKぇ~♪その調子じゃ!」・・・という架空の会話じゃけど、これは危険かも知れんので、ちょっとご紹介したのじゃ。あと、代表的なのは「研磨剤」じゃ。それに、「香料?」や「フッ素?」だけど、そんな事を言っていたら、使
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緩和ケア病院に早く出会いたかった...

誕生日からしばらくした頃から、母の腹痛がひどくなりました。 腸にガンが見つかり、恐らくその部位が腸閉塞を起こしているようで、その部分が痛むようでした。 しかし、母のような患者さんには、緊急で行われる手術のような処置は命に係わることだったためできず、ただ、痛みを緩和することしかできませんでした。 そして、その痛み止めもモルヒネに変わり、少しずつ眠る時間が増えてきました。 モルヒネの点滴を始めると、母の痛みは少しづつ散らせるようになっていったのですが、その反対に、薬が切れてくるとあの恐ろしい「せん妄」が悪化していきました。 本人は、寝てしまうことを恐れていました。 だから、なるべく起きていようと必死になる度に、体の拒絶反応なのかせん妄が強く出るようになりました。 そのころ、緊急入院をしていた母は、2か月という期間でしか入院できなかったのと、治る見込みのない患者さんの最期を過ごせないということを、看護婦さんと主治医に説明され、すぐに緩和ケア病院を探すことになりました。 最初は、兄夫婦の近くの病院を探す予定だったのですが、私が住む県の病院を探すことになりました。 病院には、こういった相談を乗ってくれるソーシャルワーカーさんがいてくれるので、すぐに相談に行きました。 そして、細かな支持をしてくださり、無事に転院先を見つけ、手続きもしてもらうことができました。 1時間30分もかけて移動することは、簡単なことではありませんでした。 医療タクシーに一人看護師さんが付いてくれていたことが、とても心強かったことを思い出します。 また、運転ドライバーさんも、本当に親切で丁寧で、ゆっくりと慎重に母が苦
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誕生日が辛い日に...

母を転倒させてしまったのは、実は母の誕生日でした。 そして、翌日は私の誕生日。 小さい頃は、母と1日違いの誕生日を、お友達や兄に自慢していました。 母は、いつも兄の事ばかりひいきするから、たまには私が優先されたい!という気持ちが働いて、そんなことを言っていたのだろうと今では思えますが(笑) 余談でしたが... 母の誕生日だというのに、おでこに大きなたんこぶを作らせてしまったことに、とてつもない罪悪感を感じながら、その日は病院で小さなケーキを買って、兄夫婦と私と母の4人でお祝いをしました。 その時から、母のせん妄は余計にひどくなりました。 みんなでケーキを食べているときも、母は私の事を 「誰?」みたいな顔で見つめてきたり、ケーキを一口食べる?と兄に聞いているのに、私には一つも聞いてくれなかったり、翌日は私の誕生日なんだよね!って兄が話を振ると、そんなこと知らないといった感じで話をスルーされたりと、私的にはかなりショックで辛い時間となりました。 その夜は、私が病室に泊まる日だったので、自宅に帰りたい気持ちを抑えつつも、頑張って看病しよう!と決意し、兄夫婦を見送りました。 母は、夜中うつらうつらしながらも、あまり眠れずに起き上がろうとしたり、酸素の紐を外してしまったり、私を呼んで水を飲ませてくれと10分おきに起こしてきたりと、ハードな夜となりました。 しかし、朝方、私が仮眠から目を覚まして母の事を覗きこんだ時、母はスマホのアルバムを見ていました。 震える手で、ゆっくりスライドしながら写真や動画を見ていました。 私の末っ子の写真を見て「〇〇ちゃん、本当にかわいいね~」とつぶやいているの
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せん妄という地獄

母が緊急入院をして、精密検査をした辺りから母の様態は日に日に悪くなりました。 精密検査では、リンパ節転移、肺、肝臓、腸にあちこちにガンが広がっていきました。 今の時代は、本人に残酷にもすべて告知されてしまうので、気丈であった母もかなり落ち込んでいました。 先生には、治療をすると体が今以上に辛くなってしまうため、ゆっくり休むことがいいのでは?と... その言葉は、つまり、亡くなるその日まで手の施しようがないという意味を表していました。 その頃から、母の様子が少しずつおかしくなっていきました。 今まで、私たちの事まで気を使ってくれていた母が、気持ちと体に余裕がなくなったせいで、看護師や家族に横柄な態度をとるようになりました。 特に、私には何でも言いやすかったのか、身の周りの世話をとにかく細かく要求するようになりました。 そのころ、腸に転移していたため腸閉塞を起こしていました。なので、便が出なくてイライラしていました。 母は、この病院がちょっと怪しいから、見張っておきなさい!とか もしかしたら、お母さん妊娠しているから、ここで産めるか看護師さんに相談してほしいとか 部屋の角からキツネさんが見ているから怖い。部屋を変えてほしいとか... せん妄という症状の特徴です。 過度なストレスや栄養失調などの悪条件が重なると、このような症状ができることがあるようです。 母の体は、158cmで60㎏。腹水が溜まり68㎏まで増えていました。緊急入院をして1か月くらいベットで寝たきりだったので、起き上がることもままならない状態だったのに、母は「トイレに行く!」といって、自力でトイレに行くことに執着してい
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突然の肺炎で入院...

2021年の1月にみんなで元気にお正月を迎え、今年も元気で楽しい生活が送れますように!なんて、談笑をしていたのに.... 2月の半ばに、兄から母が肺炎で入院になったと連絡が入りました。 風邪でも引いたのかな?と思っていたのですが、精密検査をすると肺のガンが大きくなっており、リンパにも転移が見られると告知を受け、家族が全員落胆したのを覚えています。 実は、抗がん治療を丸2年以上休まずに続けてきた母の体が、少し弱っていることもあり、一旦お休みをしましょう...と、担当医から言われていました。 恐らく、抗がん治療を休んだ時から、体のガンは成長を始めてしまったのだと思います。 消えてなくなったのではなく、小さくなって停滞していたガンだったので、まるで休眠から覚めたかのような勢いで、全身に転移していったようでした。 全身の精密検査をすると、肺、肝臓、リンパ、大腸などにガンが見つかりました。 それよりも、その時にかかってしまっていた肺炎で39度の発熱と胸の苦しさで、先生からはかなり厳しい状況ということを告げられてしまいました。 病院につくなり、母はとても元気そうに見えました。 ただ、肺の中からゼロゼロと息くるしそうにしており、無理をしているんだということがわかりました。 そしてもっと悲しく苦しい出来事になってしまったのは、あの「新型コロナウィルス」の発生でした。 母の入院は、コロナ騒ぎが起こる少し前でした。 母が入院した2週間後には、日本中が大パニックになり、発熱しているだけで病院に入れてもらえないという事件もあり、何人もの方が犠牲になったニュースを見てきました。 母は幸いなことに、当時と
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ネットの情報を見ない母

母のガンが発覚した時、一番落ち込んでしまったのは兄でした。 告知を受けた母は、意外と気丈振舞ってくれていたので、周囲が動揺せずに過ごせていたように思います。 母の口癖はこうでした。 「なるようにしかならない」 父は、ガンへの治療は一切しませんでした。余命1年半といわれていましたが、治療をしなかったせいか、2年と長生きしてくれました。 しかも、手術をしなかったので大きなリスクを負うことなく、また、痛みをあまり感じることなく闘病生活を送ることができたように思います。 しかし、母は違いました。 本当は、父に手術をしてもっと長生きしてもらいたかったという後悔があったので、自分は子供たちに悲しませたくないという願望から、子宮の全摘出という大きな手術を決意してくれました。 母の余命は、半年でした。 すでに、肺や肝臓に転移していたので、化学療法を併用しての治療がすぐに始められました。 手術の当日は、母はとても緊張していました。 手術室に入る前に、みんなで手を握って入っていきました。 手術は当初7時間と予定されていましたが、実際は10時間と3時間もオーバーしての大手術となりました。 母の子宮のガンは、腸などにも癒着をしており、なかなか癒着の部分が取れなくて長くかかっていたようです。 65歳の母の体には、かなりリスクがあったにも関わらず、先生のおかげ様で、無事に手術を終えることができました。 手術室から帰ってくる母は、意識が朦朧としており、とても衰弱していました。その姿を見るだけで、本当に苦しくなりました。 頑張ったんだね!と手を握ることができた時、母の手がとても冷たくて涙が出てきました。 安心
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今度は母のガンが...

母は、父が亡くなってからとても弱くなりました。それと同時に、私にとって「母」という存在から、一人の「人間」という存在へと変わっていきました。 私には兄がいるのですが、兄に対しては、とてもかわいい息子というような感じで接していました。しかし、私にはそのような家族という感覚を与えてくれるような、甘えていいのかなっというような感覚を与えてくれる時間がとても減りました。 あくまでも、私からの視点観点の問題なので、母がどう思っていたのかは不明ですが... そんな中、母が少しづつ元気になり、私の孫にも「会いたい!」と、周りに目を向けれるようになりました。 私には3人の子供がおり、長男は、とてもばあちゃん子でありました。 母は、とても私の子供たちをかわいがってくれました。 3人を平等にかわいがってくれました。子供たちは本当に、おばあちゃんがとても好きでした。 その子供たちを見て、私が子供のときにこうやって接してくれていたら、とても嬉しかったなって、心で拗ねていたこともあったくらいです(笑) 父が亡くなって、4年の月日が流れました。 母が、私の家に遊びに来てくれたある日のことです。 母は、もともと糖尿病を患っており、いくつかの薬を飲んでいました。また、ひどい腰痛持ちで、体のあちらこちらをいつも「痛い痛い」といっているような人でした。 しかし、その日はちょっと様子が違っていました。 やけに、腰やわき腹をさすっているのが気になりました。 私「どっか痛いの?」 母「いつもの事なんだけどね」 私「どうやって痛いの?」 母「大丈夫だよ!いつもの痛みだから」 私「最近、病院いってるの?」 母「糖尿病の薬は
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残された母...

父が亡くなったその日の事は、とても鮮明に覚えています。 親戚が帰るのを見送ると、病室に戻り父の亡骸を見た時、なんだかとても安心していました。 悲しみというより、実感がわかないのです。 父の悲しみや苦しみ、寂しさが、その亡骸から消えていたのがわかりました。 闘病を経ての死とは、そのような感情から解放されるものなんだって、改めて思えた瞬間でもありました。 それと同時に、本当にこの世にいなくなってしまったんだという、空虚感が沸いてくるのが感じました。 母は、父と最後のキスをしていました。 そして、看護師さんたちが父の体をきれいに拭ってくれました。 これからの段取りをしなければならなかった母は、その後、すぐに帰宅し遅くまで業者などのやり取りに負われていました。 その後、父を家に迎えて通夜があるその日まで、体のケアを家族で寝ずに行ないました。その時は、父を大好きでいてくれた親戚数名が駆けつけてくれて、ろうそくの火を灯してくれました。 母は、意外と元気に過ごしてくれてました。 父と母は、本当に仲睦まじい夫婦関係でした。 父の経営をしている会社で、副社長として一緒に仕事もしていました。若い頃は、毎日のように喧嘩をしていましたが、年を取ってからは、喧嘩もせずに仲良く二人でいる時間を満喫していました。 なので、父が体調を崩して入院してからは、毎日病院に通って父のケアをしていました。母は、本当に父を想っていました。とても大好きでした。 父を自分の片割れのように、とても大切にしていました。 だから、父が亡った後の事が、とても心配でした。 その不安は、残念なことに的中してしまいました。 母は、毎日泣い
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亡くなったその日...

...父が亡くなるその日は、とてもお天気がよく清々しい日でした。 親戚一同が集まり、総勢20人は来ていたと思います。 緩和病棟だったので、そのあたりについては、寛大だったと思います。 父は、亡くなる数日前から、意識が朦朧としていました。食事も水も絶っていたので、尿も茶褐色で少量しか出ていませんでした。 しかし、父はとても穏やかな顔をしていました。 亡くなる数日前に、少しだけ会話ができた時に、母にこう話したようです。 「俺は、病気に勝った!ガンに勝ったんだ!」と... 私は思いました。 人がこの世を去るとき、きっととても心地が良くなるのだろう...と。 もう、十分頑張った!だから、もう楽になっていいよ。 そんな気がしました。 父は、亡くなるその日、とても穏やかで安らかに永眠しました。 本当に穏やかでした。 悲しみというより、私はその「穏やかさ」に安堵したことを覚えています。 人の最後は、色々な形があります。 交通事故で一人で亡くなる方。 父のように、沢山の人に会って亡くなる方。 自ら命を絶つ方。 それぞれの命の最後があります。 悲しみや苦しみは、亡くなるその方よりも 残された方が感じる感情なのでしょう。 その経験をしている人が、死を恐れてしまうのでしょう。 亡くなるということは、絶対に避けられない道です。 むしろ、自然の現象です。 苦しみの向こう側は 確実に安堵が待っている。 何も怖くなる必要はないと思えることに、感謝しかありません。 父は、私に「生きる」ということを、全部教えてくれたんだと思いっています。 父との思いでは、思い出しません。 単純に、切なくなるからです。 笑顔を思
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神頼み...

父の鬱は、日に日に悪くなりました。 胃がんの進行も進んでしまって、胃に穴が開いてしまうほどでしたが、本人は痛みの症状がなく、食事もしていました。 幸いなことに、痛みがなかったので食事をすることができたようですが、胃の機能が低下していたので、栄養が取れずに栄養失調になっていきました。 その頃から、食事の度に私に電話がかかってくるようになりました。 今日は、おいしく食事ができたから、ガンが消えたのかもしれない! なんだか、胃の調子が悪いから、ガンが悪化したのかな...など 遠方に住んでいる私と連絡が取れる手段が電話だったので、毎日電話がかかってくるようになりました。 その頃、私には乳飲み子の娘と2人の息子を世話しながら、自営の仕事をしていたので、長電話する時間は正直ありませんでした。 でも、私の声を聞くと安心するから、話す時間をくれ!と言って、日に日に電話の回数が増えていきました。 最初は、1日に1回だった電話が、朝昼晩と3回になり、5回になり...ひどいときは、10分ごとにかかってくることもありました。 子供が泣いていても、父は自分の不安を解消してほしい!と縋ってきました。 父は、私を「神」のように崇めるようになりました。 以前から、神頼みをする傾向にあった父ですが、自分の娘を神にする行為がとても怖かったのを覚えています。 そのプレッシャーは、とにかく私を苦しめました。 父が私に「命」を助けてくれ!と縋るのです。 何度も病院に行くように、話ました。でも、神を信じこんでいる父は、病院を刑務所かのように悪い場所と見立てていたので、病院に行かせようとする私をひどく怖がることもありました
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ガン患者の苦しみ...

はじめまして。 私は、両親をガンで亡くしました。 父は胃ガン 母は子宮体ガン 二人の介護は、本当に辛く苦しいものでした。 私は、19歳の時に パニック障害と診断をされました。 小さい頃から多方面で敏感症で、空気を読む天才といわれたくらい 周囲に目を配る子供でした。 今思うと、HSP(ハイリー・センシティブ・パーソン)だったんだなって思います。 その性質なゆえ、両親のガンと向き合うことが本当に苦痛でした。 世間で上手にやりくりできてしまう私は、誰にも相談をすることができませんでした。 病棟では、ガン患者とその家族に対して、カウンセラーの方が相談に乗ってくれるサービスもあったのですが、まったく癒されたことがありませんでした。 むしろ、カウンセラーの方が来ると、逆に気を使ってしまったり、癒えたフリをしないと問題扱いをされてしまうので、その時間が苦痛でしかありませんでした。 ガン患者を持つ家族は、自分の心のケアなんてしている暇はありません。 一番心を病んでしまっている家族のために、何かをしてあげようと必死になることでしょう。 しかし、実は、ここに大きな落とし穴があります。 ケアをしている人が、自分をしっかり守ってあげることで ガンを患っている家族を、救うことができるようになります。 現実は、とても残酷な場面をいくらでも突き付けてきます。 介護している人を、どんどん追い詰めていきます。 そこには、やり場のない気持ちだけが育っていくのです。 まずは 「気づく」ことが大切です。 病を治そう!とするよりも 戦うよりも 今に「在る」ことです。
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ガン患者の家族の苦しみ

はじめまして。私は、両親をガンで亡くしました。父は胃ガン母は子宮体ガン二人の介護は、本当に辛く苦しいものでした。私は、19歳の時にパニック障害と診断をされました。小さい頃から多方面で敏感症で、空気を読む天才といわれたくらい周囲に目を配る子供でした。今思うと、HSP(ハイリー・センシティブ・パーソン)だったんだなって思います。その性質なゆえ、両親のガンと向き合うことが本当に苦痛でした。世間で上手にやりくりできてしまう私は、誰にも相談をすることができませんでした。病棟では、ガン患者とその家族に対して、カウンセラーの方が相談に乗ってくれるサービスもあったのですが、まったく癒されたことがありませんでした。むしろ、カウンセラーの方が来ると、逆に気を使ってしまったり、癒えたフリをしないと問題扱いをされてしまうので、その時間が苦痛でしかありませんでした。ガン患者を持つ家族は、自分の心のケアなんてしている暇はありません。一番心を病んでしまっている家族のために、何かをしてあげようと必死になることでしょう。しかし、実は、ここに大きな落とし穴があります。ケアをしている人が、自分をしっかり守ってあげることでガンを患っている家族を、救うことができるようになります。現実は、とても残酷な場面をいくらでも突き付けてきます。介護している人を、どんどん追い詰めていきます。そこには、やり場のない気持ちだけが育っていくのです。まずは「気づく」ことが大切です。病を治そう!とするよりも戦うよりも今に「在る」ことです。
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