日本の服屋は、なぜこんなにもつまらなくなったのか?
90年代に始まったサラリーマンMDの罪と、美意識を殺したデータ至上主義の正体服が「制服」になった日東京の街を歩いていると、ある奇妙な感覚に囚われることがある。渋谷でも、新宿でも、代官山でさえも...誰もが同じシルエット、同じトーン、同じ「安全な選択」を身に纏っている。ユニクロのチェックシャツ、GUのワイドパンツ、しまむらのニット。それ自体を責めるつもりはない。問題は、そこに「自分の物語」が一切見えないことだ。私がさらに思うのは、周りの人とかぶっても気にならないのか?ということだ。ファッションとは本来、その人の美意識と文化的背景が皮膚の外側へにじみ出たものだ。70年代のグラムロックは退廃と反骨を纏い、80年代のDCブランドブームは「都市で生きる知性派」という自己像を服に投影した。ファッションには常に「文脈」があった。思想があった。誰かの怒りや憧れや、社会への応答があった。それがいつの間にか消えた。消えたのではない。正確に言えば、誰かが意図的に、あるいは無意識のうちに、殺したのだ。美意識の崩壊——そして「自主規制の連鎖」が始まった1990年代初頭、バブルが崩壊した。この出来事はアパレル業界に対して、単なる「景気の悪化」以上の構造的変容をもたらした。私はちょうどその時、オンワード樫山で百貨店向けのレディス企画を担っていた。その内側で転換を目撃した世代だ。バブル期のアパレルには、確かに「目利き」がいた。自分の足でパリやミラノを歩き、路地裏の新興デザイナーのショールームに飛び込み、「これは来る」という直感と文化的嗅覚で商品を企画する。バイヤーも然り。そういう人間が、業界のフロントラインに
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