——もう、戻れないのかもしれない
昼休み、教室の空気が少しだけ軽くなる。椅子を引く音、笑い声、机を寄せ合う気配。凪は窓際の席で、ペンを指で回していた。ノートは開いているけれど、文字はほとんど頭に入ってこない。——朝のあの沈黙。あれは、夢じゃなかった。悠真は友だちに呼ばれて、席を立つ。いつもと同じ動き。同じ背中。それなのに、凪の視線は無意識に追ってしまう。「……あ」自分でも驚くほど小さな声が、漏れた。もちろん、誰にも届かない。悠真は廊下に出る直前、ほんの一瞬だけ立ち止まる。振り返らない。けれど、何かを確かめるように、足を止めた。——気のせい。凪はそう思おうとする。でも、その一瞬で、胸の奥が静かにざわついた。昼の光は明るい。教室は、さっきよりも賑やかだ。それでも、昨日の夕焼けと、今朝の沈黙と、たった今の一瞬が、凪の中でひとつにつながっていく。期待してはいけない。分かっている。けれど——何もなかったことにするには、少しだけ、遅かった。悠真の背中が、ゆっくりと遠ざかっていく。足音は、教室の外に吸い込まれて、やがて聞こえなくなった。凪は、指でペンを回すのをやめて、指先を机の上にそっと置く。さっきまで感じていた気配が、急に空白になった気がした。——行っちゃった。それだけのことなのに、胸の奥が、少しだけ冷える。教室のざわめきが戻ってくる。誰かの笑い声、椅子を引く音、「次、どこ行く?」という軽い会話。凪は顔を上げる。窓の外は、昼の光で満ちている。昨日の夕焼けとも、今朝の光とも違う、はっきりした色。——もう、戻れないのかもしれない。そう思った瞬間、自分でも驚くほど、その考えが嫌じゃなかった。凪は小さく息を吸って、ノートを開く。文
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