方角の味——心が北を向く日
今夜の一頁。あなたの呼吸に合わせて。今宵の月は、生まれたての細い月。三日月へ向かう途中の、まだ頼りない光です。動きは小さくて大丈夫。合図は、たいてい体のほうが先に気づきます。三日月は感覚を少しだけ鋭くします。味、温度、音、手ざわり、匂い——そのどれかに矢印が生まれます。小さく光る羅針盤は、胸のあたりにあります。針のかわりに、舌や肌や耳が動きます。正しさより、合うほうへ。今は細い月。いちばん早く気づくのは、舌の記憶です。水の味。眠りは浅かったのに、朝のコップの水が、少し甘い。そのとき、北はだいたい、あなたのほうを向きます。風の温度。窓をすこし開ける。空気が頬に触れる。冷たさが痛くない。肩が落ちる。背中の丸みが、ひと目ぶんほどほどける。ここから右へ——そんな合図です。靴底の鳴り。歩き始めは、ほんの数歩でいい。コツ、コツ。音が浅く、軽く、まっすぐ進む。引っかからない。それが正面。今日の“北”。紙の手ざわり。ノートを一枚、めくる。次のページが、指に吸いつく。ペン先が止まらない。書いた言葉が、少しだけ自分の体温に近い。その行の先に、あなたの方角があります。匂いの記憶。玄関の香り。朝の洗剤。湯気に混じるカップの匂い。いつものはずなのに、懐かしい。懐かしさは、やさしい矢印です。人は“帰りたいほう”へ、いちどは歩いてみるといい。合いにくい日に出るしるしも、体は出してくれます。コップの水が重い。風が肩に当たって、呼吸が浅い。靴底が床をつかむ音が強い。紙が湿っている。匂いがまざる。そんな日は、無理をしません。北は動かさず、速度だけを落とします。三日月の夜は、“新しいこと”を大きくはじめるよりも、“
0