90年代の「あの曖昧さ」に救われていた私たちが、今、生きづらい理由。
皆さん、こんばんは。心理カウンセラーのルーム718です。先日、吉本ばなな原作、森田芳光監督の映画『キッチン』(1989)を観ていて、当時の記憶が鮮烈に蘇ってきました。私が青春真っ只中だった90年代。あの時代は、今振り返ると不思議で、どこか「奇妙な優しさ」に満ちた空気感でした。「スタイリストです」「カメラマンです」「プロデューサーです」と名乗る自称業界人が街にあふれ、実際に何で食べているのかはよく分からない。でも、それをあえて聞くのは無粋(タブー)とされていました。解像度が低いままでも、「〜ぽい雰囲気」という記号とコネだけで、しれっと世の中に居場所を作ってしまう、ちゃっかりした大人たちがたくさんいたのです。■ 「説明できること」が正義になった現代翻って、今はどうでしょうか。何をしている人か、いくら稼いでいるのか、何者なのか。SNSで重箱の隅をつつかれては、あらゆるものが「可視化」され、「説明できないもの」は存在すら許されないような窮屈さを感じませんか?90年代のあの「曖昧さ」の中には、実は救いがありました。当時は「発達特性」という概念すら一般的ではありませんでしたが、私のように機能不全家庭で育ち、どこか社会に馴染めない「風変わりな人間」でも、あの混沌とした世界線の中では、なぜか面白がられ、評価される隙間があったのです。■ ラベルを貼られる前の、あなたへ今、私たちは「親ガチャ」「HSP」「アダルトチルドレン」……さまざまなラベル(名前)を貼られて生きています。もちろん、名前がつくことで救われる部分もあります。でも、常に誰かと比較され、効率と正解を求められる今の世界で、「説明のつかな
0