歴史は時として、あまりにも冷徹に「結果」だけを語ります。
島原の乱はあまりにも悲劇的な結末を迎えましたが、私たちは後からその決まったルートをなぞるようにいとも簡単に知ることができます。
400年前のあの泥まみれの大地を、必死に生きていた当時の人々には、未来なんて一歩先すら見えていませんでした。
彼らの目に映っていたのは、ただ過酷な現実だけです。
容赦なくむしり取られる重い年貢や明日をも知れぬ飢え。
その先にあった先の見えない暗闇のような生活。
胸の奥に澱(おり)のように積み重なっていく不安と、どこへぶつければいいのかすら分からない、行き場のない怒り。
そんな極限状態に置かれたとき、私たちは一体、何を求めるのでしょうか。
圧倒的な武力による支配を跳ね除ける力や
誰も知らないような深い知識でしょうか。
あるいは、一時の飢えをしのぐお金でしょうか。
もちろん、それらも生きていくためには必要です。
けれど限界まで精神的に追い詰められたとき、人が最後に求めるものは
自分の人生における「意味」なのです。
なぜ、こんなにも理不尽な世界で今を生き、苦しい思いをし続けなければならないのか。
この暗闇の先には、一体何が待っているのか。
自分が今ここで息をして、泥をすすっていることに対する、納得のいく意味が欲しいのです。
だからこそ、誰かが提示してくれた希望は狂信的な力になります。
都合のいい物語は、何万人もの人間を一瞬で動かします。
当時の民衆は、自分の人生の舵を放り投げてでも、一人の少年にすべての願いを重ね合わせ、依存したのです。
天草四郎という少年が、本当に生まれながらにして特別な存在だったのか動画、それは私には分かりません。
けれど、一つだけ確かなことがあります。
当時の人々は、彼という存在の向こう側に、自分たちが失いかけていた「生きる理由」を必死に見出していたのだということです。
ここで少しだけ考えてみてほしいのです。
現代を生きる私たちは、本当にあの時代の人々と「違う」と言い切れるでしょうか。
世界は驚くほど便利になりました。
飢えに怯えることもなくなり、物質的には信じられないほど豊かになりました。
手のひらのスマートフォンを開けば、ありとあらゆる情報が溢れかえっています。
それなのに、私たちはどうして、こんなにもずっと生きづらいのでしょうか。
私たちは今もなお、あの島原の民衆とまったく同じように、自分の人生の意味を血眼になって探し続けています。
毎月、スマートフォンの画面で確認する銀行の口座残高。
すり減るまで働いて手に入れたはずの、会社の肩書。
誰かに愛されているという安心感や、SNSの通知に表示される、名前も知らない誰かからの「いいね」の数。
そういうヒエラルキーにも似た分かりやすい数字や他人の目線に、自分の価値を必死に証明してもらおうとする。
それでも心が満たされないとき、私たちはまた、スマホの画面をスクロールして「自分が言ってほしい言葉」を代わりに叫んでくれるインフルエンサーや、都合のいい成功論を語るカリスマを探し、その口癖をなぞるように信じ込んでしまうのです。
私たちは、天草四郎の顔も本名も本当はよく知らないかもしれません。
けれど私たちは、あの時代に絶望していた人々と同じ問いを今も胸の奥に抱えたまま、この現代という街を彷徨っているのではないでしょうか。
だから歴史は決して「終わった過去」などではありません。
姿形を変え今この瞬間も私たちの目の前で繰り返されている、人間そのものの姿なのです。
私たちは今も、あの答えのない乱の中にいます。
動機がなんであれ誰かに「救ってほしい」と、心の中で手を伸ばしている。
次回は、人はなぜ、これほどまでに自分以外の誰かへ「答え」を求め続けてしまうのか。
その先を考えていきます。
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