世間が変わったのではない。自分が老いたということを知るべし

世間が変わったのではない。自分が老いたということを知るべし

記事
コラム
タイトルは、林真理子さんの新書「80代になると~」の新聞広告で見つけた一文。

最近、テレビを見ていて何だかつまらないと感じている。
ドラマもニュースも、バラエティも何だか空々しい。どこが面白いのかと訝しがる。世間はずいぶんと変わってしまったものだ、とひとり呟いていた。

そんな時に
「世間が変わったのではない。あなたが老いたのだ」
と林真理子(敬称略)に言われた。

そんなことは、老いたことは言われなくても分かっている。
それでもつまみ食いをしながら、何とか世間の変化についていこうとしていた。

でも、とうとう来るべき時が来てしまったようだ。
頬がほころぶ笑いのつまみ食いにも、もう感嘆を感じることはない。自分の無感情を嘆き、再び「あなたは老いたのだ」ときつい言葉を突きつけられた。

世間は変わっていない。
時代の変化に対応して形を変えて今も流れている。長い年表の上を流れる船のようだ。人は船に乗って流れに沿ってみたり、逆らって川上に藻掻いでみたりする。それでも世間という大船は大河を急いで流れていく。私はもうそのスピード感や高揚感に耐え切れない歳になったようだ。

自分より若い世代が様々な分野でヒーローになった今、「世の中は変わった」と勝手に思う。ヒーローは自分より少し年上でなければならない。それは自分が好奇心旺盛な少年であるためだ。

「令和」という元号にも今も馴染めず、書類にもついつい「2026」と西暦を書いてしまう。冷たく四角張った透明なプラスチックのような危うさを「令和」という文字に感じる。だからどうしても愛着が湧かない。

「これが老いのはじまりか?」と自分に残る年数をノートに数え始めている。数える年数はざっと十年間、78歳まではたぶん大丈夫(?)という希望的観測だ。70歳にはこうなって、75歳にはああなって?それ以上は…今は想像できない。

「自分が老いたということを知るべし」

この言葉を見つけたとき、改めて「老」という文字を突きつけられた。「老人、老害、老齢年金、老人ホーム」、そして高齢者運転の四つ葉マーク。この「高齢者」という文字も憂鬱だ、自分は違うと思っていたのに…。


それでもこんなことも考えている。

体力も気力も衰え船を漕ぐ力がなくなったら、岸に上ればいい。「自分が老いた」ということは、「自分が安全な岸に立った」ということかもしれない。


新しいステージ(安全な岸)の賞味期限は短い。
それでも過去の経験が生かせる。世間という潮流の中で藻掻き苦しんだ挫折や嫉妬がある。そんなものをそぎ落として新しいステージに立つ。だから、「老い」は成れの果ての姿なんかじゃない。

パンダは環境の変化に対応して山に登った。それが「生き残る」条件だったと言われる。でも私にとって必要なのは、世間で「生き残る」ことじゃない。大切なのは最後まで「生き抜く」ことだ。

生き抜く原動力は、「好奇心」
知りたいと思うわがまま。


「それを知りたい」「どうして?」という疑問に対する答えをいつまでも探す。分かったところで何の得もない。でも知りたい。ただただ知りたい。だから今を生き抜く。そして、知ったことで彩色を施された世界を体験したい。

だから、老いは「一分一秒を味わい尽くす」といった特別な時間じゃない。「知りたいのに見つからない、見つけたと思ったらまた手から滑り落ちる」そんな悶々とした日々が続く。

それでも、いま私は「老い」を楽しんでいる。
「老いは神様から与えられるもの」ではない。
自分で磨き上げ輝かせるものだ。


そして私は後に続く若い人を育てる「先生」ではない。
今も勝手に「知りたい」を追及する好奇心旺盛な老人だ。
そうして今を生き抜く。







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