愛おしいシーン

愛おしいシーン

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コラム
社会問題だとか政治問題だとか、〇〇問題と言われる現象は数多く存在する。
解決しなければならないと思いつつ、私だけではどうにもならない。

でもこんな日常のシーンは発見できる。
気づけば、そこにはほんわりとした温かさが残る。
熱くも冷たくもなく、肌に心地いい温度の話がある。


夏休みに入り激安スーパーの夕方は家族連れで込み合っていた。小学生や小さな子供たちがはしゃいで走り回ったり、誰かとぶつかりそうになってもまた走る。甲高い笑い声たちは、何よりも賑やかなBGMになっていた。

そんな中、一点を凝視しながら周囲を見回す女の子がいた。
視点の先には無邪気に動き回る少年がいる。何事にも囚われないようなキラキラした眼で前後左右に腕を振る。今買った野菜を覚束ない手で袋に詰めるお婆さんにぶつかっても、無邪気な笑みは変わらない。お婆さんの怪訝な眼は、少年ではなく隣に立つ姉であろう女の子に向けられていた。

女の子は自分が怒られているように怯えた顔をしていた。
動き回る少年の右腕をぐっと押さえながら、お婆さんにこくりと頭を下げていた。「ごめんなさい」も言えない姉をこのスーパーの中で救ってくれる人は誰もいない。賑わいもBGMも止まっているようだ。

障害を持つ少年を斜め視線で人の影から覗く客はいる。でも誰もこの女の子を見ていない。障害を持った少年にはいつもこんな姉が寄り添っているのだろう。少年の手を引く姉の足取りは強く、運動靴の足音キュッキュッと聞こえるようだった。

外に出れば、この世は姉にとって緊張の連続だ。
拒否するわけではないのに、手を差し伸べる人はいない。だからと言って助けを求めることもない。すべては自分達家族で完結しなければならない。「それは私の弟だから」と意味もなく思っている。

でも、「家に帰ればうれしくなる瞬間(とき)もある」、「苦労はあるけど私は不幸じゃない」と、姉のきっぱりした声も聴こえる。
私の聞き違いだろうか?

このとき怯えた目をする女の子はいない。凛とした姉の顔になっていた。


私も認知症の母親を抱え、半年前まで自宅で介護していた。
「自分が看なければ」と重い荷物を背負い、時には降ろせばいいのに疲れたら「よいしょっ」と背負い直し、顔を上げずっと前を見ていた。何かを見ているようで何も見えていない。探しているようで探すものさえわからない。そんな生活が2年続いた。

それでもうれしくなる瞬間(とき)があった。
大好きな羊羹を口に入れ「うまいっ」と一言、私の顔を見て母親がにこっと笑った。九十を超えた婆さんの皺皺の目尻と緩んだ口元が妙に可愛かった。「そうだった、こんな顔して笑ってたな」と母親の柔らかな顔を思い出した。

「そう、よかった」と、言葉少なめに笑い返した。泣きそうだった。悲しいわけじゃない、このときの平らな時間と老いた母親がとても愛おしかった。


女の子にも、そんな瞬間(とき)がきっとある。
愛おしいシーンがきっとある。




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