私は櫻井識子さんのブログや本を読ませて頂いております。
その中で、「玉置神社」の神様とのお話が何度か紹介されています。
玉置の神様の特徴は、とっても優しいということです。
そして、願掛けに関しては
その人の苦労を半分受け取ってくれるそうです。
いじわるをされて、傷ついたこころの苦しみを半分にしてくれるありがたい神様です。
もし辛いこと、悲しいことなどで胸がいっぱいの方は、一度ご挨拶に行かれてもよいかもしれませんね。
そのような事は数年前から、知識としては知っていました。
一度、参拝してご挨拶したいと思っていますが、
なかなか遠方のため行く機会がありません。
今日は、なんとな~く神様のことを考えていると
「半分受け取ってくれるということは、その半分の苦しみは神様が背負って(感じて)消化している」
と思ったのです。
普通、神様だから魔法みたいなもので「は!」と消し去ってくれるイメージがあると思います。
私も話を聞いた時にはそんなイメージでした。
しかし、あるインディアンの本を読んだことがあります。
「メディスンマン」とも言われ、
普段はバスの運転手などで生計を立てている方なのですが、
病気などで苦しんでおられる方がくると、
その方を不思議な力で治癒させてしまう方です。
そのやり方は、
患者(例えば足の悪い方)がいるとします。その方の横に肉の塊を置きます。
メディスンマンいわく、
足の悪い部分の「負のエネルギー」を
隣の肉の塊に移すことで治癒するということでした。
つまり、負のエネルギー自体はこの世から消すことができない。
ですので、移し終わった肉の塊は、食べては危険だし、必ず燃やすそうです。
ということは、参拝者の心の苦しみなどの負のエネルギーは消えるものではない。
とすると、玉置の神様がご自身にと入れることで消化しているのではないかと思ったんです。
確かに、違う物質に移動させることも可能かもしれません。
しかし、神様です。
ご自身の鍛錬のためにも常に修行中の姿勢はあるでしょう。
とすれば、自分の中で消化することを選ぶのが一番自然です。
それを知ったとき、神様のこころの奥深さに触れたように思い
熱いものがこみ上げてきました。
気軽に参拝して、
この苦しみを半分とってください。
などとは言えなくなってしまいました。
このようなことが知られたら、願う人がいなくなる。
ならば、そんなことは知らずとも、どんどん来なさい。というのが玉置の神様だと思います。
だから、底知れぬ優しさがあるのでしょう。
苦しんでおられる方ほど、他人に迷惑は掛けたくないという気温が強くて
SOSも出せず一人抱えていらっしゃる方も大勢います。
そこで、わしが自分で消化している
なんて知ったら本当に必要な人が来れなくなってしまいます。
気軽に誰でも来てほしい
それが本当に神様のお気持ちなのだと思います。
昔の人などは、そのようなことも気づいていたのかもしれません。
また、そのように神様の言い伝えを子どもたちに話して聞かせていた時期もあったかもしれません。
だからこそ、民衆は神様を敬愛してきたのでしょう。
そんな思いをしったらいい加減な気持ちで接することができません。
現代では、神社の語りと途切れて、そのような考え方も教えてもらえず、
古い建物としか考えることができず、時に柱にらくがきしてしまうようなことも起こるのでしょう。
感じる力を失った日本人は、自ら悲しい道を歩んでいるように思います。
神様は偉いから敬えと言われても、
壊れた学校教育で育ってきた人たちにとっては、
信じられない教師や社会、大人たちを見てきて、
それでも敬いなさいと頭ごなしに押し付けられてきました。
本当に他者を思うこころを育むことができる環境であれば、気づき自然と敬うこころが育つでしょう。
落書きがわるいのではなく、
軽んじるのが悪いというのではなく
日本が壊されてきたということでしょう。
玉置の神様のことから話が飛びました。
神様は本当にすごいと思います。
これがこころの苦しみという視点ではなく、
自分たちに置き換えたらどうでしょうか。
嫌な仕事がめぐってきた。
私がやれば他の人が半分楽になる。
しかし、そこに葛藤が生まれます。
なんで私ばっかり
ずるいよいつも
ここが一つの修行なのでしょうね。
神様はとても大変な修行をして神様になっているとのことです。
このような修行を何度も繰り返して大きなこころを獲得なされたのでしょう。
私も力があれば神様のように人の役に立ちたい
と、思う方も多くいらっしゃるでしょう。
私も一時期思いました。
その時に、守護霊様から言われた気がしたのが、
「お前には両腕がある。その両腕で、人を助けることがいくらでもできるのだ。それをせずに不思議な力で楽に人助けして、自分が気持ちよくなろうとしているだけではないのか。」これに気づかされた時に、「自分の心の中の小さな黒い部分をありのままに認めなさい。」と言われた気になりました。(ちなみに私は霊感はありません。ただそう思っただけです。)
今、自分に出来ること
そこから始めることが大切なんでしょうね。
玉置の神様のこの深さを知ったとき、
それは玉置の神様を通じて愛情を感じたように思いました。
このお礼をお伝えしに改めてご挨拶に伺いたいと思いました。
その時、玉置の神様が嬉しがることってなんだろうと考えてみました。
半分取ってもらわずとも自分でなんとかします。
と言うこと?
それも認めてくれるでしょう。
自分でやりたいのか
とね。
でも、そういうことではない気がしました。
その視点は結局、自分を可愛がってほしいから。立派だねと認めてほしいから。
そんな小さな気持ちがあるように思います。
私が神様だとしたら、
にっこり笑顔で元気よく
神様会いに来ました。こんあことがあってうれしかったと語ってくれる方が嬉しいです。
そして、無理せず時には、こんな悲しいことがあったと語ってくれること
素直に人生を生きながらお互いに寄り添いながら、あたたかい心をもって参拝してくれたらうれしいような気がします。
助ける助けないとか
叶う叶わないを超えて
一緒に人生を共有できる存在として
お互いの心の中にいることができたら
それが良いのではないでしょうか。
神様との付き合い方は人それぞれです。
最初はラッキーをくれる存在ととらえるのも自由です。
いろんな入口があってよいと思います。
そこから神様の愛を知って、信仰心が目覚めたならそれでよいように思います。