愛しているのに、うまく伝えられない— グザヴィエ・ドラン監督の映画を観て

愛しているのに、うまく伝えられない— グザヴィエ・ドラン監督の映画を観て

記事
コラム
こんにちは、原田です*

映画監督シリーズ、
今日はカナダのグザヴィエ・ドラン監督について書いてみようと思います。

ランティモス、イニャリトゥと続けて書いてきましたが、
ドラン監督作品は
また違った角度で私の心を掴んで離さない存在です。


『マイ・マザー』
『わたしはロランス』
『トム・アット・ザ・ファーム』
『マミー』
『たかが世界の終わり』
『マティアス&マキシム』

……20代前半という若さでデビューしてから、
驚くほど密度の濃い作品を撮り続けてきた監督です。


家族という、一番近くて一番伝わらない関係


ドラン監督の作品に繰り返し出てくるのが、母と息子の関係です。

『マイ・マザー』も『マミー』も、
愛し合っているはずの母と息子が、
些細なことで激しくぶつかり合い、傷つけ合ってしまう。

でもその奥には、確かな愛情がある。

このもどかしさって、実はすごく普遍的なものだと思うんです。
家族って、一番近い存在だからこそ、うまく言葉にできなかったり、
素直になれなかったりしますよね。

「ちゃんと言えばよかった」
「あんな言い方しなければよかった」

そういう後悔を抱えている人は、決して少なくありません。


『たかが世界の終わり』では、
余命宣告を受けた主人公が数年ぶりに実家に帰り、
家族に本当のことを伝えようとするのですが、
結局最後まで言葉にできずに終わってしまいます。

観ていて苦しくなるほどのすれ違いなのですが、
同時に「これ、すごく現実的だ」とも思うんです。

伝えたいことがあっても、いざ目の前にすると言えなくなってしまう。

そういう経験、私自身にもありますし、
お話を聴いていても本当によく耳にします。


感情の「過剰さ」を肯定してくれる映画


ドラン監督の映画は、
音楽の使い方も演出もとにかく感情表現が過剰です。

スローモーションで音楽が高鳴り、
登場人物の感情が画面いっぱいに溢れ出す。

人によっては「やりすぎ」と感じるかもしれませんが、
私はそこがすごく好きなんです。

なぜなら、
実際の感情って、本来はあんなふうに過剰で、収まりが悪いものだと思うからです。

私たちは日常生活の中で、感情を「ちょうどいいサイズ」に整えて、
周りに合わせて出すことに慣れすぎているんじゃないかなと。

でも本当は、
誰かを愛する気持ちも、傷ついた気持ちも、もっと不格好で、もっと激しいものなんですよね。


電話やチャットで色々な方のお話を聴いていると、
最初は淡々と話していた方が、
ふとした瞬間に感情があふれ出す場面によく出会います。

そういうとき、私はドラン監督の映画のことを思い出すんです。
「ああ、この過剰さこそが本物なんだな」って。

感情を小さくまとめる必要なんて、本当はないのかもしれません。


分かって欲しい、という切実さ


ドラン監督自身が10代の頃から
「自分のことを誰にも理解してもらえない」
という感覚を強く持っていたと語っているのを、
以前インタビューか何かで見た記憶があります。
(うろ覚えですみません…)


彼の作品に出てくる登場人物たちも、
みんな「分かってほしい」「認めてほしい」という切実な願いを抱えています。

それがときに暴力的なまでの衝突になったり、
痛々しいすれ違いになったりする。

この「分かってほしい」という気持ちは、
私がお話を聴く仕事をしていて、一番よく出会う感情でもあります。

特別な悩みがあるというよりも、
ただシンプルに「誰かに、ちゃんと自分の話を聴いてほしい」。

その願いがどれだけ大きいか、
ドラン監督の映画を観るたびに、
そして日々のお仕事の中で、改めて実感します。


おわりに


ランティモス監督の「抑圧された本音」、
イニャリトゥ監督の「見えない痛みのつながり」、
そしてドラン監督の「伝えたいのに伝えられない愛」。


並べてみると、
私が惹かれる映画にはどれも
「言葉にならない気持ち」というテーマが流れているんだなと、
書きながら自分でも気づかされました。

もしドラン監督のファンの方がいたら、ぜひ好きな作品を教えてください。


そして、
「分かってほしいのに、うまく言えない」
という気持ちを抱えている方がいたら、
いつでもお話を聴かせてくださいね(^^)


最後まで読んでいただき、ありがとうございました★

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