すべては祖母から始まった

すべては祖母から始まった

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コラム
すべては祖母から始まった

高齢福祉を生業にして、振り返れば35年以上が経っていた。
昨年、退職…一区切りをつけた。
長かったような……短かったような。
働くうちに、人生の中での役割も増えていった。
娘、妻、母。
その傍らには、いつも仕事があった。

いつも祖母がいた

中学生の頃、私は部活動に明け暮れていた。
帰宅するのは当然、夕方の暗くなる時間。
家に帰ると、夕飯は当たり前のように食卓に用意されていた。
食べ終えるとエネルギー切れで、その場で寝落ち。
そんな私に入浴をせかすのは、いつも祖母だった。
「お風呂、早く入りなさい!」
「宿題はないの?」
「早く入って、勉強したら?」
「わかってる」
「今、入るから」
そんな返事をしていたと思う。
両親は自営業を営んでいた。
仕事場は同じ敷地内にあったものの、二人とも忙しく、夕飯を早々に済ませると、また仕事へ。
出たり入ったりすることはあったけれど、夕飯のあと、家族みんなでゆっくり過ごすのは日曜日くらいだった。
普段、家にいるのは祖父母と私だった。

祖母が転んだ

ある夕方。
いつものように部活から帰ると、珍しく父が自宅にいた。
夕飯を食べていて、祖母の姿がないことに気づいた。
父に聞くと、
「転んだんだ。けがをしたんだ」
と、ため息。
転んだ?
躓いて、足でも痛めたのかな?
その程度に思っていた。
祖母にはリウマチがあった。
和裁を教え、自らも着物を仕立てていた。
いつも着物を着て過ごす人だった。
活動的に動き回る人ではなかったので、激しく動いて転ぶ姿など、正直想像できなかった。
よくよく聞けば、庭で重い物を持ち上げようとして転倒。
物を持っていたため、右肘を骨折したという。
ギプスを巻き、三角巾で腕をつった祖母。
ただただ痛々しかったことを覚えている。
少しずつ、変わっていった
その後は持病も重なり、祖母の動きは徐々に減っていった。
本来の柳腰にさらに拍車がかかり、子どもながらに「弱ってきた」と感じていた。
一つ髷に着物。
若かりし頃は、竹久夢二の「黒猫」に出てくる女性のようではなかったか……。
私の中では、そんなイメージの祖母だった。
その祖母が、少しずつ話さなくなっていった。
反抗期真っただ中の私でも、それは心配だった。
両親は、夕方、従業員が退社したあとも二人で仕事をしていた。
だから幼い頃から、祖父母は私にとって育ての親のような存在だった。
帰りの遅い両親を待ちながら、祖母と一緒に眠るのが日課。
もともと社会性が高い人ではなかったけれど、やさしい祖母だった。
私にとって、大切な存在だった。

我が家でも介護が始まった

徐々に祖母は、家事を嫌がるようになった。
夕方になるといつも横になり、特に炊事を嫌がった。
代わりに家事をする母は、いつもイライラしていた。
嫁の不機嫌を横目に、横になる祖母。
そして少しずつ、「うっかり」も増えていった。
心配した親族は、その頃としては珍しく大学病院を受診させた。
そして、
「脳軟化だった」
と告げられた。
我が家でも、在宅での介護が始まった。
私は、移動介助、入浴介助、排泄介助を手伝うようになった。
そのうち、介護の重心は少しずつ私へ移っていった。
今なら「介護」と呼ぶ。
でも、あの頃は「家族の手伝い」だった。
肩を貸して歩く途中、一緒に転倒してしまうこともあった。
夕方は、自分の食事の前に祖母の介助。
祖母が入院すれば、嫁である母の付き添いを嫌がり、孫の私に付き添ってほしいと言う。
学校から一度帰宅して着替え、病院へ付き添いに通った。
「そんなに嫌なら、かわいそう」
初めて祖母が短期入所を利用したときのこと。
面会に行くと、
「職員に意地悪された」
と祖母が泣いた。
そんなことがあるのか?
そんなことはしないでしょう?
当時の私は、そう思った。
その頃の特別養護老人ホームは、専門職といえば看護師くらい。
介護職は「寮母」と呼ばれていた。
時代が……。
歴史だ(笑)。
子どもの私には、近所のおばちゃんが働いているようなイメージだった。
私は父に、
「そんなに嫌なら、かわいそう」
と訴えた。
「私も手伝うから」
そう言って、自宅で介護することを促した。
そして、祖母の在宅介護は続いた。
部活を辞めた
高校から帰宅すると、寝間着の前を開け、髪を乱した祖母が、自宅近くの電信柱にしがみついていることもあった。
私の帰りを案じながら、待っていたのだ。
一緒にいた友人に別れを告げ、
「帰ろう」
そう言って祖母を連れ帰った。
両親の仕事の繁忙もあり、日中は知人に介護をお願いしていた。
私の役割は、学校から帰ってから。
食事を作るところから始まり、食事介助、清拭、排泄介助。
部活も辞めた。
宿題は、寂しがる祖母のベッドのそばで済ませた。
眠る祖母を見て、一日が終わった。

祖母を看取って、進路を決めた

祖父は一足早く亡くなった。
そのことを知らされないまま、祖母も永眠した。
自宅で看取った。
ちょうど、私が進路を決める時期だった。
多感な時期を祖母の介護とともに過ごした私は、導かれるように福祉を目指した。
進学する直前まで施設でボランティアをし、市のボランティアサークルにも所属した。
親族も、両親も、みんな反対した。
でも、ひるまなかった。
ほかに目指したい職業もなかった。
どうしても行きたいと食い下がった。
「奨学金をもらうから」
そう言って両親を説得した。
……とはいえ。
崇高な意識だけで福祉を目指していたかと聞かれると、かなり疑問(笑)。
自宅を離れて自由になりたい。
そんな、よこしまな理由もどこかにあった。

落ちるつもりだったのに

県外へ進学した私に、両親から、
「新しくできる特養を受けてみて。だめなら、ほかを受けてもいいから」
と言われた。
自分なりにいろいろ検討していたけれど、仕方なく従うことにした。
新しくできる施設だし、きっと応募者が殺到する。
落ちるに違いない!!
そんな希望的観測は、見事に外れた。
「合格」
してしまった。
こうして私の、高齢福祉を生業とする職業人生が始まった。
今なら「ヤングケアラー」
ずっとあとになって、祖母はアルツハイマー型認知症だったと聞いた。
なるほど。
時々のうっかりも、被害的な訴えも、家を出てしまうことも。
今になれば、いろいろなことが腑に落ちる。
そして、今の言葉でいえば、私は「ヤングケアラー」だったのだと思う。
部活を辞め、学校から帰れば祖母の介護。
確かに、今振り返ればそうなのだろう。
でも、当時の私にはあまり悲壮感はなかった。
祖母は大切な人だったし、家に帰れば介護する。
それが日常だった。
「家族だから、当たり前」
良いとか悪いとかではなく、あの頃はそういうものだったのだと思う。

すべては、祖母から始まった

そんな祖母との時間を過ごして、私は福祉の仕事を選んだ。
だからといって、最初から立派な志があったわけではない。
自宅を離れて自由になりたい、なんていう、よこしまな理由もあった(笑)。
就職だって、
「きっと応募が殺到する。落ちるに違いない!!」
と思って受けた特養に、なぜか合格してしまった。
そんな始まりだった。
それから35年以上。
失敗もした。
後悔もした。
わからなくて本を読み漁ったことも、先輩に聞きまくったこともある。
悪戦苦闘した時代も、一丁前にあった。
その中で、いつの間にか、自分なりに大事にしたいことができていった。
高齢者には、できるだけ元気でいてほしい。
年を重ねたからといって、何でも諦めなくていいと思う。
介護する家族の大変さも、私にはどこか他人事ではない。
そして、仕事を続ける中で、もう一つ大事にするようになったことがある。
「高齢者を支える介護支援専門員を、一人にしない」
ということ。
これは、ずっと仕事をする中で、いつの間にか自分の中にできていた思いなのだと思う。

そして、今

昨年、退職した。
35年以上続いた職業人生に、一度区切りをつけた。
でも、福祉との関わりまで終わったかというと、どうやらそうでもないらしい。
いつだったか、子どもから言われた。
「子どもの顔を忘れたら、施設だからね」
……覚えているかな(笑)。
今の私は、若い頃よりずっと「介護」というものを知っている。
知っているからこそ、自分の老後については……
できるなら「ピンピンコロリ」がいい(笑)。
かつて、ぽっくり寺やコロリ観音が高齢者の巡礼先として流行したことがあった。
今では、あまりそんな話も聞かない。
でも私は、できるだけ元気でいたい。
健康でいたい。
まだできることがあるなら、いろいろな人を「支える仕事」をしていたい。
35年以上経って振り返ってみると、
福祉を仕事にしたことも、
ここまで続けてきたことも、
始まりをたどれば、やっぱり祖母に行き着く。
すべては、祖母から始まった。

さて。
この先は、どうなることやら(笑)。
そんな欲望を抱きながら、
もうしばらく、福祉を生業にしていこうと思う。



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