私の愛読書から——いじめについて考える
〜「いじめた側が100%悪い」〜
この言葉に、どれだけ救われたか。
実は私自身も、小学6年生から中学3年生まで、グループ内で無視され続けた経験があります。
理由もわからないまま、ある日突然、誰も話しかけてくれなくなる。近づくと、さっと逃げられる。休み時間も、お昼の時間も、ひとりで過ごす日々が続きました。
大人になってから、そのことを当時の夫に打ち明けたとき
「それはお前に原因があったからだ」と言われ、深く傷ついたことがありました。傷口にぐさぐさと釘を刺されるような言葉でした。
あの頃、今日ご紹介する言葉を知っていたら——どれだけ救いになったか。
いじめで苦しんでいるお子さんをお持ちの方も、過去に傷ついた経験のある方も、現在 悲しみの中にいる方も、ぜひ読んでいただけたら嬉しいです。
今回ご紹介するのは、私が長年大切にしている愛読書の一節です。
いじめをテーマに、先生と生徒が真剣に向き合った対話の記録です。少しずつご紹介していきますね。
世間では、いじめを苦にした小学生の自殺もあった。
(先生)"一人"でもそんな子がいるということは、大変な問題です。社会全体の大悲劇です。
十代による残酷な事件も続いているが、背景にいじめがある場合がしばしばだという。
しかし、日本人の感覚が麻痺して、いじめと聞いても、なんとなく「またか」という感じになっている。そんな危険を感じる。恐ろしいことです。
心の堕落です。心の闇です。子供の悲鳴が聞こえなくなっている。
「いじめは昔もあった、大したことない」とか「こんな時代だから、少しくらい仕方がない」などという声もある。
とんでもない。
誰がなんと言おうと、いじめは絶対に悪です。
現に、こんなにも苦しんでいる人がいるのだから——
どんないじめも断じて許さない、という強い強い意志が、大人になければいけない。中学生にもなければいけない。
それがすべての大前提です。
ある中学2年生からの相談
「今、僕はクラスで孤立しています。クラスでリーダー的な人が僕を無視したことから始まりました。その人に、他の人も合わせているんです。
何かあって無視されたんなら、まだ分かるんですが、そうじゃないので……。話そうと思っても、また無視されるんじゃないか、答えてもらえないんじゃないかと思って、接するのが怖くなるんです。
自分にも何か原因があるのかもしれませんが、周りの人が笑ったりしていると、僕のことを笑っているんだと思ったりして、すごく不安になります。
きっと無視している人たちは、そういう僕の姿を見て楽しんでいるのでしょう。それが悔しいです。
まだ授業中はマシなのですが、休み時間や昼食の時間がきついです。すごく長く感じます。僕はどうすればいいのでしょうか?」
(聞き手)無視——これを「シカト」というのですが、とても多いいじめです。ある日突然、誰も話しかけてくれなくなる。近づいた途端にさっと逃げる。理由を聞こうにも、全然口をきいてくれない。これは辛いです。
(先生)残酷だ。
やっている側は軽い気持ちでやっているのかもしれない。ゲームのような感覚でやっているのかもしれない。
しかしやられている側は、大変なショックです。地獄の苦しみです。
その苦しさがわからない。目の前のクラスメイトが苦しんでいる——その心が分からない。恐ろしいことだ。
わかってやっているとしたら、もっと恐ろしい。
人を"いじめる"人間は、その時、"自分の心が死んでいる"のです。心が人間じゃなくなっている。畜生になっている。野獣になっている。
ある青年が言っていた。
「今日、食べた食事のことよりも、中学時代に受けたいじめの記憶の方が鮮明なんです」と。
楽しいはずの中学時代が——なんと可哀想なことか。
いじめという文字を見ただけで、ゾッとして、吐き気がしてくるという人もいる。
"無視"だって、それは人の心を傷つける"暴力"です。人の心に釘を打ち付けているようなものだ。
たとえ釘を抜いても、釘の穴は残る。ずっと残る。とんでもないことだ。
質問してくれた彼も——どんなに辛かったか。
よく耐えてきた。偉いよ。
相談することは、恥ずかしくない
そして、今こうして相談する勇気があった。
これがなかなかできないのです。
相談することは全然、恥ずかしいことじゃないのです。
このことを、特に強調しておきたい。
一人で悩まなくてもいいのです。
なぜか。
いじめられている君は、全然、「どこも悪くない」からです。
「自分にも何か原因があるのかもしれませんが」とあったが——
そんなことを考える必要はありません。君はどこも悪くない。
いじめている側が100%悪い。
「いじめられている」側に問題があるのではない。
「いじめる」側が、自分の中の"モヤモヤ"とかを、ぶつけているだけです。
「原因」は、いじめている側の「心の中」にあるのです。
(聞き手)突然始まる、理由のないいじめ
今のいじめは、突然、理由もなくやってくる。
例えば、クラスで力のある子が「あの子ムカつかない?」と言えば、みんなも「うん、ムカつく」と。そして「シカトしようか」となるのです。
先ほどの相談してくれた彼はこう言っていました。
「僕は固くて、柔軟性がないから、人の意見を聞けなかった面があるからかもしれません」
(先生)そうじゃないんだよ!
もし、かりに、そういう面が自分にあったとしても——
どうしてそれが「いじめられてもしかたがない」ことになりますか?
だれだって、完全な人間なんかいない。
欠点だらけです。
だからといって、その人を「いじめていいこと」になりますか?
そんなことを言ったら——
「いじめている」側の方が、よっぽど不完全で、卑怯ではないか。
人間として、最低でしょう。
「みんながやっているから」
「誰かが言ったから」
「一緒にいじめないと、今度は自分がやられるから」
もしか、そんな理由で、簡単に人をいじめるのを「柔軟性」と言うのならば——
そんな「柔軟性」なんか、ない方がいい。
そんなのは、柔軟性ではなく——
「付和雷同」という、日本人のいちばん悪いところです。
だから——
「いじめられている」人は、決して、自分を恥ずかしいと思ってはいけない。
自分を惨めに思ってはいけない。
「恥ずかしがらないといけない」のは、いじめている側です。
そちらの方が本当は「みじめな人間」なんです。
だから——
胸を張りなさい。
目を伏せてはいけない。
そんなくだらない人間の仕打ちに負けてはいけない。
負けたら、自分が損だよ。
この本に出会えて、本当によかったと思っています。
過去の自分に、届けてあげたかった言葉がここにありました。
同じように傷ついた経験のある方、今まさに苦しんでいるあなたやお子さんをお持ちの方——この言葉が少しでも心に届いたなら嬉しいです。
続きは次回のブログでご紹介しますね。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。