― 介護の個別性と、理念・マニュアルを現場につなぐ ―
介護現場で、こんな言葉を聞くことがあります。
「入居者は一人ひとり違うから、マニュアル通りにはいかない」
「その日の状態によって対応は変わります」
「現場では、マニュアルだけでは対応できません」
介護に長く携わっている人ほど、
「確かにそうだ」
と思う部分があるのではないでしょうか。
認知症の症状も違う。
生活歴も違う。
性格も価値観も身体機能も違う。
昨日うまくいった声かけが、今日は通じないこともあります。
だから介護を、単純に「手順通りに行えば同じ結果になる仕事」と考えることはできません。
では、
「人それぞれだから、マニュアル通りにはいかない」
という言葉は正しいのでしょうか。
私は、半分は正しく、半分は注意が必要だと思います。
「マニュアル通りにできない」は、職員の言い訳なのか
たとえば、入居者から「嫌です」と介助を拒否されたとします。
認知症によって状況が理解できず拒否している人。
痛みがある人。
羞恥心がある人。
職員との関係から拒否している人。
単純に「今はしたくない」人。
同じ「嫌です」でも背景は違います。
ですから、全員に同じ言葉を使い、同じ対応をすることが良い介護とは限りません。
一人ひとりに合わせて考えること自体が、介護の専門性です。
その意味では、「人それぞれだから」という介護職員の感覚は間違っていません。
ただし、「個別ケア」と「自己流」は違う
ここは管理者として、はっきり分けておきたいところです。
個別ケアには、
「なぜ、この人には、この対応を選んだのか」
という理由があります。
たとえば、
「この方は急に介助を始めると不安が強くなる。表情も硬かったので、一度離れ、落ち着いてから説明し直した」
のであれば、観察に基づいた個別的な判断です。
一方、
「いつも嫌がる人だから後でいい」
「私は昔からこの方法でやっている」
「今まで問題なかった」
だけでは、専門的判断というより“自己流”になっている可能性があります。
個別性とは、マニュアルを無視することではありません。
共通する原則を踏まえたうえで、その人に合わせて判断することです。
マニュアルは「全員を同じにするもの」ではない
私は、介護のマニュアルを、
「すべての入居者に同じ対応をさせるもの」
と考えない方がよいと思います。
むしろ、
「個別に考えるときにも、外してはいけない共通基準をそろえるもの」
と考える方が現場には合います。
転倒事故を例にすると、転倒した理由やその後のケアは人によって違います。
しかし、
状態を確認する。
必要な報告をする。
経過を観察する。
記録する。
原因を振り返る。
といった共通して必要な部分があります。
そのうえで、認知機能、身体機能、服薬、環境、本人の意向などを踏まえて個別に考えます。
つまり、
「標準化するところ」と「個別化するところ」を分ける。
これが、介護におけるマニュアルの使い方の一つだと思います。
そもそも、なぜ介護には指針やマニュアルが求められるのか
ここで、少し制度上の話も確認しておきます。
厚生労働省は「介護保険施設等運営指導マニュアル」を公表し、運営指導で確認すべき項目や文書をサービスごとに整理しています。
また、介護サービスの指定基準では、サービス種別に応じて「事業の目的及び運営の方針」を含む運営規程を定めることが求められています。たとえば認知症対応型共同生活介護でも、運営規程に事業の目的・運営方針などを定めることになっています。
事故防止についても、介護老人保健施設の基準では、事故発生時の対応や報告方法などを記載した指針の整備、改善策の周知、委員会、研修などが求められています。
つまり、指針やマニュアルは単なる「監査のための書類」ではありません。
事故や虐待、感染症など、職員によって判断が大きく違ってはいけない領域について、組織として共通の基準を持つためのものでもあります。
※法人独自の「理念」そのものと、法令・運営基準上求められる「運営方針・指針・計画・マニュアル等」は同じものではありません。ただし、理念を実際の運営方針や職員の行動につなげていくことは、組織運営上とても重要です。
なぜ、理念やマニュアルを説明しても現場は変わらないのか
管理者からすると、
「研修で説明した」
「会議でも伝えた」
「マニュアルも配った」
それなのに変わらない。
すると、
「何度言えば分かるの?」
と思いたくなります。
しかし、人は「知った」だけで、新しい行動が定着するわけではありません。
さらに介護現場では、新人は文章だけから仕事を覚えているわけでもありません。
研修では、
「本人の意思を尊重しましょう」
と教えられる。
ところが現場では先輩から、
「この人は聞いても嫌って言うから、そのままやっていいよ」
と教えられる。
この状態では、毎日目の前で繰り返される行動の方が強い教材になります。
社会的学習の考え方でも、人は他者の行動を観察することで学習します。
書かれているマニュアルより、“この職場で実際に行われていること”が本当のルールになってしまうことがあるのです。
管理者に必要なのは「守れ」だけではなく、理念を行動に翻訳すること
たとえば法人理念に、
「尊厳を大切にする」
と書かれていたとします。
職員も、その考え自体には反対しないでしょう。
でも、
「尊厳を大切にしてください」
だけでは、人によって行動が違います。
そこで、
「居室に入る前にノックする」
「本人の前で、本人を第三者のように話さない」
「拒否されたら、まず理由を確認する」
「職員の都合だけで時間を決めない」
など、実際の場面に置き換えます。
ただし、
「必ずこの言葉を使う」
まで決めてしまえば、今度は個別性が失われます。
だから、
守るべき原則は共通化する。
具体的な関わり方は、その人に合わせる。
ここまでを管理者と職員で共有することが大切です。
「人それぞれだから」と言われたときこそ、良い教育の機会になる
職員から、
「この人はマニュアル通りにはいきません」
と言われたとき、
「マニュアルなんだから守って」
だけで終わらせる必要はありません。
むしろ、
「そうだね。では、なぜこの方には違う対応が必要だと思った?」
と聞いてみます。
「何を観察した?」
「本人は何を嫌がっていた?」
「その対応を選んだ理由は?」
「やってみて、結果はどうだった?」
こうした問いを重ねます。
これは職員を責めるためではありません。
経験による“なんとなく”を、根拠を説明できる専門的判断に変えていくためです。
管理者には、そこを一緒に整理する役割があります。
マニュアルを「答え」から「判断の土台」へ
介護には、マニュアルを開けばすべて答えが書いてある、という場面ばかりではありません。
だからこそ、
1.共通する原則を確認する
2.本人の状態・希望・環境を見る
3.個別性を踏まえて判断する
4.迷ったら相談する
5.結果を振り返る
という流れを職場で共有します。
するとマニュアルは、職員の専門性を奪うものではなく、
「どこまで共通して守り、どこから専門職として考えるのか」を支える道具
になります。
理念も「覚える言葉」から「迷ったときに使う言葉」へ
職員に、
「法人理念を言ってみて」
と確認することも必要かもしれません。
でも、それ以上に聞いてみたいのは、
「今日、うちの理念らしいケアはあった?」
「この対応を、うちの理念から考えるとどうだろう?」
という問いです。
会議やOJT、申し送りの中で、実際のケアと理念を結びつける。
良い対応があれば、
「今の対応は、“本人を大切にする”という、うちの考え方が出ていたね」
と管理者が言葉にする。
こうした小さな繰り返しによって、理念は壁に掲げられた言葉から、現場の判断基準に変わっていきます。
おわりに――「人それぞれ」だからこそ、共通の土台が必要
「入居者は人それぞれだから、マニュアル通りにはいかない」
その通りだと思います。
介護は、一人ひとり違います。
だから専門性が必要です。
でも、
「人それぞれ」=「何をしてもよい」ではありません。
安全や権利を守るための共通原則があり、その土台の上で一人ひとりに合わせて考える。
そして違う方法を選ぶなら、
「なぜ、この人にはこの対応なのか」
を説明できる。
そこまでできて初めて、「自己流」から「専門職としての個別ケア」へ変わっていくのだと思います。
理念やマニュアルが浸透している施設とは、全員が同じ言葉を暗記している施設ではありません。
共通する理念と基準を持ちながら、目の前の一人に合わせて、根拠を持って考えられる施設。
そんな状態をつくっていくことが、管理者の大切な役割の一つではないでしょうか。
参考文献・参考資料
厚生労働省「介護保険施設等運営指導マニュアル」
厚生労働省「指定地域密着型サービスの事業の人員、設備及び運営に関する基準」
Bandura, A. (1977). *Social Learning Theory*. Prentice-Hall.
Gollwitzer, P. M. (1999). Implementation intentions: Strong effects of simple plans. *American Psychologist*, 54(7), 493–503.
May, C. R., et al. (2009). Development of a theory of implementation and integration: Normalization Process Theory. *Implementation Science*, 4, 29.
※介護保険サービスで求められる指針・計画・委員会・研修等はサービス種別や項目によって異なります。実際の運営基準・運営指導への対応については、最新の厚生労働省資料および指定権者の基準をご確認ください。