第12話
「それ、優しさじゃないです」
前話:優作は、佐伯に任せた仕事でズレが起きた時、佐伯だけを前に出さず、“任せた側の責任”として立った。美月からは「仕事の話です、たぶん」とメッセージが届いた。
翌朝。
優作は、出社してすぐに美月のメッセージを思い出していた。
明日、少しだけ時間ありますか
仕事の話です
たぶん
たぶん。
仕事では危ない言葉だ。
なのに、美月が使うと、なぜか少しだけ意味が変わる。
いや、変わってほしいと思っているだけかもしれない。
優作は自分の席に座りながら、そんなことを考えていた。
その時、チャットが鳴った。
送り主は真壁。
昨日の田辺さんの件、追加で先方から一点来てる。
相沢さんにまだ共有しないで、先に中村くんと整理したい。
優作は画面を見つめた。
相沢さんにまだ共有しないで。
その一文に、少し引っかかった。
数分後、真壁が優作の席に来た。
「悪い、ちょっといい?」
「はい」
真壁は小声で言った。
「田辺さんから、次回資料の中で“リスク部分をもう少し強めに出してほしい”って来てて」
「それ、美月さんにも共有した方がよくないですか」
「いや、相沢さん、今日かなり詰まってるだろ。
今入れるとまた全部見直しになるから、一回こっちで整理してからでいいと思うんだよ」
優作は美月の席を見た。
確かに、美月は朝から別件に追われている。
電話、チャット、資料確認。
ずっと手が止まっていない。
真壁は続ける。
「中村くん、昨日から流れ分かってるしさ。
相沢さんに負担かける前に、まず俺たちで叩き台作ろう」
その言い方は、少しだけ優しく聞こえた。
美月に負担をかけない。
一度整理してから渡す。
悪くない気がした。
優作は迷った。
本当は、すぐ共有した方がいい。
でも、美月は忙しそうだ。
今、これを渡したら、また表情が固くなるかもしれない。
「……分かりました。まず叩き台だけ作ります」
言った瞬間、どこかで小さく引っかかった。
でも、その引っかかりを、優作は飲み込んだ。
昼前。
優作と真壁は、先方の追加要望をもとに資料を少し直した。
“リスクを強めに出す”
この言葉もまた、曖昧だった。
強めとは、どの程度か。
警告なのか、検討材料なのか。
役員に不安を与えたいのか、慎重さを示したいのか。
優作は何度か確認しようとした。
でも、真壁は言った。
「たぶん、リスクをちゃんと見てますよって見せたいだけだと思う」
たぶん。
また出た。
それでも優作は、資料を直してしまった。
美月には、まだ共有していない。
“整理してから渡すだけだから”
そう自分に言い聞かせながら。
午後一時。
美月が優作の席に来た。
「中村さん」
「はい」
「午前中、田辺さんの件で何か動きありました?」
優作の手が止まった。
一瞬だけ、返事が遅れる。
「……少しだけ」
美月の目が、そこで変わった。
「少しだけ?」
優作は喉が乾くのを感じた。
「田辺さんから、リスク部分をもう少し強めに出してほしいって追加が来ていて」
「いつですか」
「朝です」
「誰に来ましたか」
「真壁さんに」
「なぜ今、私が初めて聞いているんですか」
声は大きくない。
でも、冷たい。
オフィスの空気が、少しだけ止まった。
真壁が遠くでこちらを見る。
優作は言葉を探す。
「相沢さん、朝からかなり忙しそうだったので。一回こちらで整理してから共有しようと思って」
美月は、すぐには何も言わなかった。
その沈黙が、怒鳴られるより怖かった。
相手のために黙ったつもりでも、
相手からすれば“判断する権利を奪われた”だけかもしれない。
「それ、誰の判断ですか」
「……僕と真壁さんで」
「中村さんは、それが本当に私のためだと思いましたか」
優作は胸の奥がざわつく。
「負担を増やしたくなかったので」
美月の表情が、はっきり変わった。
「それ、優しさじゃないです」
その一言で、優作の背中に冷たいものが走った。
「相沢さん」
「私が忙しいかどうかと、共有しないことは別です」
「でも、整理してからの方が——」
「整理する前に共有してください」
声が少し強くなる。
「判断に関わる情報を、後から“整理しました”で渡される方が困ります」
優作は思わず言い返した。
「でも、全部をそのまま投げたら、それこそ負担になるじゃないですか」
「全部を投げてほしいなんて言ってません」
「じゃあどうすればよかったんですか」
言った瞬間、自分でも少し強いと思った。
美月の目が、さらに鋭くなる。
「“こういう追加が来ています。先に共有だけします。整理はこれからします”でよかったんです」
優作は黙る。
その通りだった。
でも、認める前に、言葉が出てしまった。
「僕は、相沢さんを助けようとしただけです」
言った瞬間、しまったと思った。
美月の表情が、静かに固まる。
「助ける?」
優作は何も言えない。
「中村さん」
美月の声が、低くなる。
「それは助けるじゃなくて、私を外しただけです」
オフィスの空気が凍った。
真壁が口を開きかける。
「いや、相沢さん、俺が——」
美月は真壁を見ずに言った。
「真壁さんもです。
でも、今は中村さんに聞いています」
優作は、何も返せなかった。
美月は続けた。
「忙しそうだから言わなかった。
負担をかけたくなかった。
整理してから渡そうと思った」
一つずつ並べる。
「全部、相手のためみたいに聞こえます。
でも、決めたのは中村さんです」
優作の胸に刺さる。
「相手が何を知るべきかを、相手に聞かずに決めている。
それは、気遣いじゃなくて独断です」
独断。
その言葉が重かった。
優しさが一番こじれるのは、
相手を思っているようで、相手を信じていない時だ。
優作は、反射的に言い返したくなった。
そんなつもりじゃない。
悪気はなかった。
助けたかっただけだ。
でも、その全部が、今は言い訳に聞こえる気がした。
それでも、口が動いた。
「そんな言い方しなくてもいいじゃないですか」
言ってしまった。
言った瞬間、周りが完全に静かになった。
美月の目が、少しだけ揺れた。
怒りではなく、たぶん失望だった。
「……分かりました」
その言葉が、一番怖かった。
美月は資料を閉じる。
「この件、私が直接確認します」
「相沢さん」
「共有ありがとうございました」
敬語だった。
いつもの敬語なのに、今までで一番遠かった。
美月はそのまま席に戻った。
優作は、立ったまま動けなかった。
数分後。
桐谷が近づいてきた。
「優作」
「……何」
「今のは、まずい」
「分かってる」
「分かってる顔じゃない」
優作は言い返せなかった。
分かっているつもりだった。
でも、本当はまだ腹のどこかで思っている。
助けようとしただけなのに。
忙しそうだったから気をつかっただけなのに。
その気持ちが残っている限り、たぶん何も分かっていない。
桐谷は小さく言った。
「お前さ、相沢さんのこと、ちゃんと見てるようで見てなかったんじゃない?」
その一言は、かなり痛かった。
夕方。
田辺への対応は、美月が引き取った。
優作には、何も回ってこなかった。
それが一番こたえた。
叱られるより、外される方がきつい。
美月は淡々と仕事を進めていた。
優作の方は見ない。
真壁も、さすがに軽口を言わなかった。
佐伯がそっと言う。
「中村さん、大丈夫ですか」
優作は小さく笑った。
「大丈夫じゃないかも」
佐伯は少し困った顔をした。
「さっきの、僕ならたぶん……何も言えないです」
「俺も、言えなかった」
「でも、中村さんは言った方がいいと思います」
優作は顔を上げる。
「何を?」
佐伯は少し迷ってから言った。
「助けるつもりだった、じゃなくて。
勝手に決めてしまった、って」
優作は、黙った。
後輩にまで、見えている。
自分だけが、まだ自分の“優しさ”にしがみついている。
終業後。
オフィスには人が少なくなっていた。
美月はまだ席にいた。
優作は何度か立ち上がりかけて、座った。
謝る。
でも、何を謝る?
怒らせたこと?
共有しなかったこと?
言い返したこと?
違う。
もっと奥だ。
相手のためと言いながら、
相手に聞かずに決めたこと。
優作は、ようやく席を立った。
「相沢さん」
美月は画面から目を離さない。
「はい」
その声だけで、距離が分かる。
優作は息を吸った。
「今日の件、すみませんでした」
美月は何も言わない。
「忙しそうだったから、負担を減らしたつもりでした。
でも、相沢さんが知るべきことを、僕が勝手に後回しにしました」
指先が少し震える。
「助けるつもりでした、って言ったのも違いました。
あれは、助けるじゃなくて、外してました」
美月の手が、そこで止まった。
優作は続ける。
「すみません」
沈黙。
長い沈黙だった。
美月は、ゆっくりこちらを見た。
「謝罪は受け取ります」
その言い方は、まだ遠い。
「でも、今日はもうこの話はできません」
優作は小さく頷く。
「はい」
「今話すと、たぶん言いすぎます」
その“たぶん”は、いつもの危うさとは違った。
本当に、ぎりぎりで止めている言葉だった。
美月は視線を画面に戻す。
「明日、もう一度話しましょう」
「……分かりました」
優作はそれ以上、何も言えなかった。
帰り道。
優作はスマホを見た。
美月からのメッセージは来ていない。
昨日までなら、何か一言あったかもしれない。
「仕事の話です、たぶん」みたいな、少しだけ距離を揺らす言葉。
今日はない。
それが、答えみたいだった。
優作は駅へ向かいながら、今日の会話を何度も思い返した。
忙しそうだったから。
負担をかけたくなかったから。
整理してから渡そうと思ったから。
全部、優しさの顔をしていた。
でもその中身は、
相手を信じずに、自分で決めたことだった。
“傷つけたくない”で隠した言葉が、
結果的に一番深く相手を傷つけることがある。
優しさは、相手のために見えて、
時々、自分が傷つきたくないための言い訳になる。
そのことに気づいた時、
優作は胸の奥が冷たくなった。
翌朝、優作は美月ともう一度話すことになる。
でもそこで待っていたのは、
仲直りではなく——
美月がずっと言わずにいた、
優作への一番きつい本音だった。
第13話へ続く。