【ご注意】本作には、薬物の過量服用、自傷、精神科への入院、家庭内暴力、性的な描写が含まれます。体調や気分のすぐれないときは、無理に読み進めないでください。
本作はフィクションです。実在の人物・団体とは関係ありません。
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第1回 序章
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―このことを知っている人がいる。だが二度と話さない。そう決めたのだ―
■ 序章 可塑性の夜
午前一時四十二分。下腹部の奥、腹直筋と皮下脂肪が剥離されたその狭間に、熱した鉄杭を打ち込まれたような重く鈍い熱がある。
ズキン、と脈打つたびに、フェイスバンドで圧迫固定された顔面の皮膚が物理的に引っ張られる。こめかみの縫合糸が、再生しようとする肉に食い込み、微かなキシみ声を上げているようだ。
私はサイドテーブルに手を伸ばした。指先が微細に震えているせいで、飲みかけの「アサヒドライゼロ」のアルミ缶が倒れそうになり、カランと乾いた音を立てた。
テラスのサッシは閉め切っている。だが、ガラスの向こう側には、石垣島特有の、海水を煮詰めて腐らせたような濃密な夜気がへばりついているのがわかる。結露した水滴が、窓ガラスをゆっくりと、ナメクジが這うような軌跡を描いて垂れ落ちていく。
熱帯。そこは植物がアスファルトを食い破り、蟲が死骸に群がり、腐敗と発酵が高速回転する有機の世界だ。
私はその侵入を拒むために、エアコンの設定を「強」にし、室温を摂氏十九度に固定している。ここは無菌室だ。あるいは、私という生肉を腐らせず、保存するための巨大な冷蔵庫だ。
鏡は見ない。見る必要がない。胸から下腹部にかけて、黒色の医療用ボディフォームとボディースーツが肉を締め上げている。その下では、一度剥離され、無理やり引っ張り上げられた皮膚と、削ぎ落とされた皮下脂肪の空洞が、新しい位置で癒着しようと悲鳴を上げている。ベイザー脂肪吸引とフェイスリフト。総工費、二百万円。
私は強張った指先で、ボディースーツの上から腹部をさする。感覚がない。麻酔が切れているはずなのに、そこにあるのは自分の肉体ではなく、硬いゴム板のような異物の手触りだ。
指で押すと、皮膚の下に溜まった組織液と血液が、ジュク、ジュク、と湿った音を立てて移動する。高級な革靴の中に、汚泥と生ゴミを詰め込んで歩いた時のような、不快な液状化現象が私の腹の中で起きている。
加齢という重力。垂れ下がった皮膚。それを医療用のカニューレ(吸引管)でチュー、チューと吸い出し、時間を物理的に巻き戻した代償。
心臓が一度収縮するたびに、顔面の縫合痕と腹部の空洞が連動して発火し、脳髄まで痺れさせる。これは罰ではない。メンテナンスだ。
ロキソプロフェンのPTPシートを親指で押し破る。
プチッ、という音と共に、白い錠剤が掌に落ちる。二錠。いや、三錠。「アサヒドライゼロ」で流し込む。炭酸の刺激が、荒れた食道を焼きながら胃へと落ちていく。サイドテーブルには、ルームサービスで頼んだピザの残骸がある。冷え切って硬化したチーズ。酸化したトマトソースの酸っぱい匂い。油の浮いたサラミ。
二百万円かけて脂肪を吸引したその口で、私はこの高カロリーな産業廃棄物を咀嚼し、胃袋という袋に充填していく。顎関節症の右顎に激痛が走る。口が開かない。無理やり押し込むと、耳の奥で、ギシギシと軟骨が擦れ合う音がした。骨伝導で響くその音は、まるで錆びついた蝶番(ちょうつがい)を無理やり動かしているようだ。味などしない。ただ、空洞に有機物を詰め込むという物理的な作業があるだけだ。
SNRI(抗うつ薬)と睡眠薬の化学作用で、脳の覚醒レベルは常に低空飛行を続けている。三日間、一睡もせずにキーボードを叩き続けたかと思えば、スイッチが切れたように泥のように眠る。覚醒と睡眠の境界線もまた、この熱帯の湿気のように溶け出して不明瞭だ。
デスクの上には、私がここへ逃げ込む直前の二週間で築き上げた「城壁」が、LEDのインジケーターを点滅させている。iPhone 17 Pro Max 1TB、チタニウムの冷たい筐体。Apple Watch Ultra 3、硬質なサファイアガラス。iPad mini Pro、iPad Air 13inch。HP(ヒューレットパッカード)のハイエンドノートPCの排気ファンが、シュォーッと低い唸り声を上げている。
これらの無機質な表面には、毛穴もなければ、汗もかかない。決して老いず、決して腐らない。自宅には、五十万円の業務用レーザー複写機と、二十五万円のハーマンミラーの椅子が届いているはずだ。総額百数十万円。四ヶ月で作った六枚のクレジットカード。その限度額いっぱいまで積み上げられた、シリコンとレアメタルの塔。
主治医はカルテに「買い物依存」と書いた。
帯に『崩壊を加速させよ』と書かれた宮台真司の本が、床に転がっている。「社会が沈んでいくなら、それを加速させろ」。社会を終わらせる?そんなマクロな話はどうでもいい。私はただ、この皮膚の下の鈍痛を麻痺させるためだけに、未来という時間を「リボ払い」で切り売りし、個人的な破産を加速させている。
ふと、つけっぱなしのテレビ画面が青白く発光した。大谷翔平が打席に立っている。四十八インチの液晶フレームの中で、彼はあまりにも鮮明だった。汗の一粒、筋肉の収縮、バットを握る指の関節。彼は整形などしていない。顔面に異物を混入させたり、皮膚を切り貼りしたりしていない。システムの外側へ逃げるのではなく、物理法則をその肉体で体現している。
第一球。ピッチャーが腕を振る。私は息を飲む。引きつったこめかみの傷口が、乾燥した餅のようにピシリと音を立てた。
スピーカーが空気を震わせた。それは快音ではない。完璧に鍛え上げられた肉体と、バットの回転運動エネルギーが衝突し、硬球という物質を内側から破壊する音だ。質量を伴った重低音が、私の腹部の傷に響く。
大谷翔平が物理法則を超えてボールを破壊する音を聞きながら、私は自分の腹の上の脂肪吸引の跡をさする。その神聖な破壊音の余韻を切り裂くように、手元のiPhoneが、空気を読めない電子音を鳴らした。
「ピロン」
間の抜けた通知音。画面が光る。滑らかで冷たいガラスの表面には、指紋一つついていない。私の浮腫んだ、脂ぎった顔とは対照的な、完璧な平面。LINEの通知バッジ。未読件数、百四十二件。表示された送信者名。「ゴウダ」。
胃の奥から、ピザの油と胃酸が混ざったものが逆流してくる。私はこの板切れに命令され、この板切れを通してしか世界に触れられない。通知画面に並ぶ「ゴウダ」という三文字を見た瞬間、このガラスを床に叩きつけたい衝動が指先まで走る。だが、できない。このガラスの向こうにしか、私の金ヅルはないからだ。
私は震える指で、その美しく研磨されたガラス面を撫でた。ロックを解除する。
『塩は邪気を吸う。だから涙はしょっぱい。病気は前世の業。肉を食べると動物の念が入る』
『私は誰とでも平等に接する。年齢も立場も関係ない。ただし血液型と人相は見る』
『不合格者が一人出るたびに、校長の給料から十万円引きます』
『新入生のレベルが低いのは校長の責任 校長の昼食代はみなさんより高くします みんなで校長を責めてください』
画面を埋め尽くす文字列。意味の破綻した電子信号。午前二時に送られてきたそのメッセージの下には、路上の蝉の死骸をアップで撮った高解像度の画像と、『蝉救助』という短いテキストが添えられている。蝉の複眼が、画面越しに私を見ている。
動悸がした。吐き気が込み上げる。術後の傷の痛みとは違う、もっと根源的な生理的拒絶反応が食道を駆け上がる。この男は社長で、私の雇い主だ。いくつもの事業を抱え、億単位の金を動かしている。
スクロールする指が震えで止まらない。昨日までは「A型はゴミだ」と罵っていたかと思えば、今日は「大谷翔平はB型だから成功した。B型はコスパ最強」と礼賛する。
私はかつて、オックスフォード大学院社会学研究所の石造りの図書館で、世界のアーキテクチャを解き明かすための言葉を探していた。だが、今、この言語の通じない怪物に、四十を過ぎて生殺与奪の権を握られているのは私だ。学位も、キャリアも、この「血液型で人間を選別する男」の前では、紙切れ以下の絶縁体でしかない。
別の通知が鳴る。結婚相談所からのメールだ。月額会費一万八千円。四十代日本語講師、借金まみれの私が、二十代の「若い女」を物色している。
お見合い成立率は百件に一件。それでも私は、まだ性欲という名の生々しい粘液を引きずっている。
「挿入したい」
この期に及んで、私の脳髄はそんな動物的な信号を発している。脂肪を抜き、皮を切り、無機物になろうとしているのに、性欲だけがしぶとく私を有機の世界へ引きずり戻そうとする。
生々しい粘液の感覚が、記憶の蓋をこじ開ける。
脳裏に、あの湿った匂いが蘇る。マキ。別れた妻だ。石垣島のこの湿気は、彼女がまとっていた独特の体臭に似ている。それは香水のような人工的なものではなく、雨上がりの土や、煎じ詰めた漢方薬のような、湿度を帯びた「生物」の匂いだった。
彼女は、私の鏡になろうとした女だった。短大出だった彼女は、デジタルハリウッドで私と出会った。私が早稲田を出たという理由だけで、「自分もそうなるべきだ」と信じ、憑かれたように勉強して早稲田に入学し、さらにトロント大学とロンドン大学院へ入学してみせた。
夜の十時まで働きながら、翌朝には五時に起きて子供の弁当を作っている。息子の中学受験の勉強に付きっ切りになり、夕方には仕事の手を止めて公園でキャッチボールやサッカーの相手をした。
彼女はマンションのパウダールームの三面鏡を、毎日毎日、曇りひとつないよう丁寧に磨き上げた。週に一度の大掃除では、私の背中からはらはらと剥がれ落ちた皮膚という「死骸」を、まるで赤子をあやすように黙々と吸い取り、土の匂いのする茶色い漢方を、コトコト、コトコトと煮出した。部屋には、彼女の発する体温と、湿った土の匂いが充満していた。
そのすべてが、私には耐え難い「ノイズ」だった。漢方の匂いは有機的すぎて、私の肺を塞ぐガスのようだった。彼女が磨き上げたピカピカの鏡を見るたび、そこに映る自分の姿に吐き気がした。
彼女が陰部から発する、あのしっとりとした内臓的な匂い。
キャッチボールをする母と息子の姿から目を背け、私は書斎に閉じこもった。面倒くさい。その一言で、私は彼女が積み上げた生活を切り捨てた。
右の顎が痛んだ。口を開けようとすると、顎関節が軋む。その痛みの奥に、ふと、父の顔が浮かんだ。父は、東京のような雑多で過剰な世界を何より嫌っていた。
「あんな人の多い所に住むのはキチガイだ」
そう言って、東京を忌避し、自分の殻に閉じこもっていた男。アルコールで脳を麻痺させ、毎晩私に「社会学とは何だ」と、答えのない議論をふっかけてきた男。
「やっと俺に並んだな」
私がオックスフォードへ発つ日、成田のロビーで彼が放った言葉だ。
心臓外科医として人の生死を扱い、「今日、一人死んだ」と夕食の席で吐き捨てるように言った父。
彼は命を救う外科医でありながら、自分の服一枚選べず、家の金も旅行の手配もすべて母に依存していた「巨大な赤ん坊」だった。
私は今、ホテルの鏡を見る。二百万円をかけたフェイスリフトとベイザー脂肪吸引。百数十万円のガジェットの城壁。借金というリボ払いで拡張された、見せかけの全能感。私は父から逃げるために、顔を変え、場所を変え、こうして最果ての島に来たはずだった。
通知が鳴る。電話相談と愚痴聞きの「ココナラ」のDMだ。画面に表示されているのは、電話相談ではない。
『会いたい。次はいつ?』
元妻ではない女からの、情事の催促だ。
私は乾いた笑いを漏らす。全身の傷が、また疼いた。痛み止めを「アサヒドライゼロ」で流し込む。
窓の外で、熱帯の風がヤシの葉を揺らし、ザワザワという不穏な音を立てている。
私はロキソプロフェンをもう一錠、口に放り込んだ。ピザの油と、薬の苦味が混ざり合う。石垣島の夜明け前、波の音が遠く聞こえる。その寄せては返す波のリズムが、私の脳裏に、この南国の風よりも遥かに冷たく、肌を刺すような記憶を呼び覚ました。
つづく