弁護士とターンアラウンドマネージャー(TAM)という「外部の知性」が乗り込んできたことで、創生メタルの事務所を覆っていた、あの逃げ場のない焦燥は一瞬だけ凪いだ。だが、それは平和ではない。嵐の目に入っただけだった。
「誠さん。ここからが本当の“調整”です」
弁護士のその言葉の意味を、津田誠は最も残酷な形で思い知ることになる。それは、経営者としての「魂」を切り売りする作業の始まりだった。
1. 鏡写しの要求 ―― 事実は一つ、計画は二つ
メガバンクと政府系金融機関。100億円の負債を分け合う両行から、同時に事業計画の提出が求められた。誠は、ようやく自分の「正義」や「実態」を説明できる場が整ったのだと信じていた。
だが、提示された「前提条件」は、互いを完全に否定し合うものだった。
・メガバンクの論理:「この事業はすでに破綻している。債務免除や法的整理を正当化するため、“どれだけ救いようがないか”を証明しろ」
・政府系金融機関の論理:「自律再建は可能である。安易な整理は国民の血税の無駄遣いだ。“なぜ再生できるのか”という強気な数字を出せ」
誠は混乱した。事実は一つしかない。なぜ、真逆の現実を同時に描けと言われるのか。
この時、誠はまだ理解していなかった。銀行は“現実”など見ていない。彼らが求めているのは、自分たちの保身と、組織内部の稟議を通すための「都合の良い物語(フィクション)」でしかないということを。
2. 「翻訳」という名の魂の切り売り
誠は弁護士に詰め寄った。
「どちらかに嘘をつけ、ということですか? 誠実にやると決めたはずだ」
弁護士は、冷めた紅茶を一口飲み、感情を一切交えず言った。
「誠さん。銀行は“真実”に興味がありません。彼らが欲しいのは、後で責任を問われないための『アリバイとなる書類』です。メガバンクは損失を確定させたい。政府系は責任を回避したい。それだけです。二種類の計画を作りなさい。これは嘘ではない。金融というシステムへの“翻訳”です」
誠はその助言に従った。だがそれは、会社の「人格」を自ら破壊し、二枚舌の詐欺師へと成り下がる道への入り口だった。経営者が「相手の望む嘘」を優先した瞬間、その言葉から重みが消え、組織の背骨は音を立てて折れる。
3. 二重人格を強いられる組織の摩耗
地獄は、そこから始まった。
昼間はメガバンクの調査官が「どこに無駄があるか、どれだけ資産価値がないか」を血眼で探し回り、夜には政府系の調査官が「どれだけ潜在能力があるか」を誠に問いかける。
いわゆるデューデリジェンス(DD)が、正反対のベクトルで同時に進行した。
社員たちは、次第に精神を病んでいく。
「自分たちは、潰れかけている会社なのか? それとも、優良企業なのか?」
提出する書類の色によって、自分たちの“正体”が書き換えられていく。誠自身も、どちらの計画書が本当の自分たちなのか、答えられなくなっていった。
この時点で、創生メタルは金融機関に殺されていたのではない。「調整」という名の思考停止の中で、自ら内側から腐り始めていたのだ。
4. 停滞という、最も緩やかな処刑
二つの計画書は完成した。だが、それは再生の一歩ではなかった。
両行がそれぞれの「物語」を盾に、自分たちの面子をぶつけ合うための“武器”に利用されただけだった。
「あちらが整理を主張するなら、うちは動けない」
「そちらの前提が甘い限り、支援は不可能だ」
会社は完全に置き去りにされた。
こうして創生メタルは、何年も“何も決まらない状態”に閉じ込められる。
動けない。切れない。終われない。
経営において、最も人を殺すのは「失敗」ではない。「停滞」だ。
この数年間で、創生メタルの与信は修復不能なほどに崩壊し、実務を支えていた優秀な人間から順番に、泥舟を見捨てて去っていった。
誠が「二枚舌」を受け入れ、調整に逃げた代償は、あまりにも重かった。
次回予告:第十一回:空白の季節 ―― 見えなくなる会社
動かない時間の中で、会社は業界から「透明」になっていく。誰からも期待されず、ただ存在しているだけの幽霊企業。その死に体の中で、誠が最後に選んだ生存戦略とは。