気づけば、心の片隅にいつも一枚のメモが貼り付いているような感覚がある。手で触れられるわけでもなく、視界に入るわけでもなく、ただ意識の端のほうで「あれを見ておいて」と囁いてくる。書かれた内容を思い出そうとすると指の間から砂がこぼれるみたいに形を失ってしまい、結局何も分からないまま一日が終わっていく。そのくせ、忘れたはずのメモは翌朝にはまた同じ場所に戻っていて、しかも少しだけ主張が強くなっている。
この謎のメモは、放っておけば勝手に薄れていくようでいて、実際にはむしろ濃くなる。見逃そうとすればするほど、意識の端に影のように貼りつき、こちらが深呼吸したタイミングでふっと存在感を取り戻す。厄介なのだけれど、どこかで「これは自分が進みたい方向と関係している」と直感してしまうから無視もできない。明確な言葉を持たないのに、方向性だけを示してくるという点では、意外にもコンパスに近いのかもしれない。
ある日、そのメモの存在感がやけに強い日があった。何かを急かすでもなく、ただこちらをじっと見つめるような静かな圧がある。そのとき初めて、メモを追うという行為自体が、自分の中の小さな渇望を追跡することと同じだと気づいた。スキルや成果を積み上げる作業とは別の次元で、もっと原始的で、もっとわがままな「やりたいこと」が息を潜めている。そしてその声はいつも言語化が苦手で、メモという曖昧な形でしか浮かび上がらない。
ココナラのような場所に身を置いていると、自分のスキルや知識をどう切り出せば価値になるかを考えることが増える。でも、あの言語化されないメモはいつもそれとは違う方向を向いている。市場価値とか効率とか分析では掴めない「こっちが気になる」だけを指してくる。まるで、表に出された能力とは別に、まだ未開封の能力が奥に眠っていると言われているようで、少しだけくすぐったい。
では、その未確認メモをどう扱えばいいのか。無視するのは簡単だし、現実的でもある。でも、無視を続けているとある瞬間に「気づかないふりをしているだけだ」と思い知らされてしまう。逆に、メモの正体を追いかけてみると、具体的な答えは得られない代わりに、自分の中に意外な余白があることに気づく。余白は時に不安を生むけれど、その不安があるからこそ新しい方向に手を伸ばしたくなる。メモはその余白の入り口を指し示す役割なのかもしれない。
思えば、スキルを磨くプロセスも、最初はみんな曖昧なメモのような確信のなさから始まる。やりたい理由がはっきりしないまま続けているうちに、いつの間にか自分の輪郭の一つになっている。だからこそ、未確認のメモには価値がある。答えを持っていないからこそ、自分を更新するきっかけになる。形が見えないからこそ、今の自分を少しだけ超えた方向へ引っ張ってくれる。
今日もまた、メモは静かに存在している。内容は相変わらず不明のままだが、その曖昧さに少しだけ愛着が湧いてきた。はっきりしないものと向き合うのは面倒だけれど、そこにこそ伸びる余地がある。メモの正体を無理に暴く必要はなく、ただそこにあるという事実だけ受け取ればいい。それだけで、自分の内側のどこかがゆっくりと動き始めている。