【阪田和典】名刺をなくした日から、僕の仕事はうまく回り始めた
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ビジネス・マーケティング
名刺を持たない期間が、こんなに心地よいとは思わなかった。最初はただのうっかりだった。出先で名刺入れを落とし、そのまま見つからなかっただけだ。普通なら焦る。初対面の人に渡せない、ビジネスチャンスを逃す、そんな常識が頭をよぎる。でも、なぜか僕は安心した。まるで自分の分身が消えて、身軽になったような感覚だった。
それから数日、会う人ごとに「名刺がなくてすみません」と言いながら会話が始まった。驚いたのは、そこからの空気が、少し柔らかくなることだった。名刺という形を介さず、言葉と表情だけでやりとりを始めると、相手の反応が違う。肩書や所属ではなく、人としてどう感じるかに焦点が当たる。思えば、僕はいつも名刺を盾にしていた。相手の印象を少しでも良くしようと、紙の情報に頼っていたのだ。
名刺をなくしてから、僕の中のスイッチが変わった。自分を紹介する時、「〇〇会社の××です」と言わなくなった。「〇〇ということをしていて、最近はこんなことに興味があります」と話すようになった。すると、相手も自然に「僕もそれ気になります」「それってどうやるんですか」と応じてくれる。会話が“所属の交換”ではなく、“関心の共有”になった。
不思議なことに、そのほうが仕事が増えていった。紹介も、相談も、アイデアの話も。名刺を配るより、日々の言葉や行動が名刺のように働く。僕がどんな考えを持ち、何を楽しんでいるか。それを感じ取った人が、「じゃあ一緒にやろう」と言ってくれるようになった。肩書がなくても伝わるものがあると知ってから、僕は自分の仕事を少しずつ見直した。
今では新しい名刺を作る気が起きない。もちろん必要な場面もあるけれど、それよりも一言の挨拶、一回の対話、一度の投稿のほうがずっと自分らしい自己紹介になると思う。名刺という紙切れよりも、話したときに生まれる空気こそが、自分の本当の「名刺」なのかもしれない。
名刺をなくした日は、肩書の鎧を脱いだ日だった。そしてようやく、人間として仕事をしている実感が戻ってきた。紙ではなく声で、立場ではなく熱で、相手とつながる。その方がずっと難しいけれど、ずっと楽しい。