正確ではないかもしれませんが、キアヌ・リーヴスの名言の一つにあったものです。
自分の生き方に突き刺さる言葉です。
彼の明言は、自分にとっては刺さるものが多く、上手く自分を表現できず、自分の今感じていることを上手く表現できず、どうして分かって貰えないんだと打ちひしがれる瞬間は、いつも彼の名言の動画を見返します。
読んで問題は解決はしませんが、それでも自分と同じ感覚を持っている人が他にもいると感じられるだけで気持ちが軽くなります。
自分の経験でこんなことがありました。
身内が鬱になり職も失い、その後、離婚もしました。
鬱の間、彼は別居のため実家に戻りましたが、長らく鬱はよくなりませんでした。
引きこもりがちになり転職活動も積極的には行わず、企業のHRからLinkedinを通じて連絡が来る求人にのみ反応する、又は名の知れた大企業の案件以外には応募しませんでした。
鬱は一向に良くなることはありませんでしたが、私は身内として「がんばって合わせようトスしなくていい。頑張らないという努力も必要だ」という声掛けを続けました。
私は彼とは異なりADHDという特性もあり転職が終わることはなく、常に積極的に転職活動をしていました。しかし50に迫るうちに、転職先が見つかる前に、現職の最終日(自己都合ではない)が迫り最終日を迎えます。
そんなことが何度か続いた後、その彼は鬱からも少しずつ回復し始め、外に出る様になっていきます。
そこから事態は急変します。攻撃的になり、母を非難するようになるばかりか、私の事まで非難するようになります。
何につけて「どうせだめだよ」と私の事を言い続けていると母から告げられます。
大きなショックを受けたわけでありませんが、明確に言えるのは、人は優しくされたことは覚えていないということです。
極限の状態で生と死の境目をさまよっていた時に受けた優しさなら覚えているかもしれませんが、一般的な声掛けの優しさや行為は感謝をしない人には伝わっていないということを学びました。
そんな彼は自分にされた精神的な被害はいつまでも覚えていました。
私の両親は罵倒を受けながらも、彼が実家に戻ってきてもなお食と住を提供し続けたわけです。
父はアルツハイマーに罹り、進行も早く数年で亡くなりました。
でも彼に優しさとして衣食住の「食」と「住」を与えた両親は罵られ、彼の鬱の心理的負担を何とか和らげようとした私も「どうせ何やってもダメだよ」と罵られている。
優しは「甘え」を助長するという考えもありますが、そもそも彼に厳しくしたとして優しい人間に育つでしょうか? そこが本質だと思うのです。
表面的には評判のいい彼ですが、そこがそもそもの社会の弱点です。
表面が全てになっています。
私の様に発達障害を持っていても表面的には普通ですが、仕事になると本性が出てしまいその時点で私の弱点は表面に出てしまいます。それが社会の評価基準の全てなら、そういう社会にでは生きたくないと思うのです。
残酷な話ではありますが、寿命までその社会に生きなくてはならない。
だから私は助け合いたい。
ただそれだけ。