家族から特性を詰められる、もう無理だって思う時

家族から特性を詰められる、もう無理だって思う時

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コラム
自分がADHDの特性を持つ時、最もしんどいのが自分の家族から突け放される時。

職場や知人、誹謗中傷は所詮他人だと思える。
と同時に自分を非難する、あるいは理解されないと感じた時は離れればいい。

でも、自分が育った家族、新たな家族が自分の特性がADHDと診断を受けた後、診断の事実を知った後で、追い打ちをかける様に、ADHDやASDの悪い側面を非難してくる時、もう逃げ場を感じられなくなる。

子どもの前で自分の特性を非難されたり、育った家族から「死に株だ」や「もう何やってもダメだと思うよ」と言われ続けたりは、50年経過する今でも慣れることはない。まるで初めて言われた時のようなショックを感じる。

新しく築いた家族では、子供の目の前で発達障害の特性を非難される。自分もこんな人生を送りたくて生まれたわけじゃないと伝えても、笑いながら、頭のネジがずれてるんじゃないの、大丈夫か? と馬鹿にされる

そうだよ、ズレて生まれてきてるんだよ! そして、大丈夫ではないよ!

そう叫びたい。

怪我なら見るからに痛そうで人はその痛みにある程度理解を示してくれる
風邪や手術などを伴うような病気なども、薬を処方され、病気やけがの兆候が外から見えるだけに、理解されないことはない。

しかし、発達障害は、外からみるといたって普通だ。
職場では、ただ出来ない奴の筆頭の様にしか見えない。

人前でできていないことを毎週指摘されて謝罪する日々の繰り返し

罹患しては回復してを繰り返す、一般的に病気と言われるものは、治癒されれば症状がなくなるが、発達障害は治らない特性であり、寿命も全うする、知性には影響がないなど、社会的にその事実を知らされていなければ、健康的な人と同じにしか見えない。

風邪など体調を崩せば、治る迄寝てていいよと言われるかもしれないが、発達障害をある意味神経的な体調を崩しっぱなしのままで寿命を全うするので、休んでていいよなんてことにはならない。

その「外見は普通と変わらない」ことが残酷な現実なのである。

障害と訳されるかもしれないADHDの最後のD。

個性なのかもしれないが、処方箋があるのなら障害と呼ばれてもしかたがないかもしれない。

でも、家族に否定される存在を寿命を全うするまで受け入れ続けないと、社会や家族の中で適応できない生き方は辛いと思えるでしょう。

私は50まで何とか来ましたが、家族に否定されるのと、我が子の前で子供の記憶に残るような晒し方をされるのは耐え難い地獄。

もう発達障害の方々で新たな社会を作りましょう。

それが私の最後の願いです。

特性起点の憲法があり、職場があり、家庭環境があり、医療システムがあって、教育制度が存在する。

そこにいさえすれば、社会不適合の烙印を押されることがないのですから。

今の日本では、国民が特性を受け入れるより、特性を持つ人が新たな社会を築く方が早く訪れるとしか思えない。

ただもし、国民の受け入れが加速するとすれば、特性起点の組織が増えていくことだと自信を持って言えます。


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