「整えたい」「整わなきゃ」──
そんなふうに思うことが、以前のわたしにはよくありました。
体調が整わないとき、気持ちがざわついているとき、
まるで「整えること」がゴールのように思っていたのかもしれません。
でも最近、わたしの中で「整える」という言葉の意味が、
少しずつ、静かに変わってきたように感じています。
「整わなきゃ」
そう思っていた頃のわたしは、
「整っている自分=ちゃんとしている自分」だと、どこかで信じていた気がします。
家の中が片づいていること、スケジュール通りに動けること、
体調も感情も安定していること──
そうじゃないと、“わたしはダメなんだ”と思っていたんです。
でも、体調を崩したり、思いがけない変化が続いたとき、
がんばって整えようとするほど、からだも心も苦しくなってしまって。
そんなときに気づいたんです。
整えるって、もっと「やわらかくていい」って。
無理やり形を整えるんじゃなくて、自分の今に合うように、ちょっと寄り添ってあげること。
たとえば、朝に白湯を飲むこと、少しだけゆっくり歩くこと、
深呼吸して空を見上げること──それだって立派な“整える”なんだと知りました。
最近は「自律神経を整えるといい」とよく聞くようになりました。
わたし自身も、パーキンソン病と診断されてから、
心とからだのバランスがとても大切だと、実感するようになりました。
でもそれは、特別なことをしなきゃという意味ではなくて、
むしろ、日々の中の小さなこと──
自分にやさしくすることそのものが、整えることなのかもしれないと、今では思います。
今朝は、夫とお気に入りの喫茶店へ散歩を兼ねて出かけた帰りに、
近所の氏神様に立ち寄ってお参りをしました。
緑のトンネルのような長い石段を抜けると、朝の澄んだ空気の中、境内にはわたしたち2人だけ。
わたしの隣で、夫がいつものように手を合わせ、柏手を打つ。
その音が、朝の境内にやさしく響いて、ふっと気持ちが整うのを感じました。
まず、お礼を伝えてから、「見守ってください」と、いつものようにそっとお願いする。
この場所は、わたしが“変わりたい”と強く願った頃、何度も通った思い出の神社です。
「変わりたい」「変わるので背中を押してください」と、何度も手を合わせたことを思い出しながら──
お参りを終えてふと見上げた空は、とても青く澄んでいて、思わず深呼吸をしていました。
整えるって、こういうことなのかもしれません。
日々の中で、ふっと立ち止まったときに、静かに戻ってくる場所があること。
無理に変えようとするのではなく、自分のペースで整っていけるという感覚。
わたしにとって「整う」とは、そういうものなのだと思います。
整えるって、がんばることじゃなくて、
ただ、今日のわたしにやさしくすることかもしれません。