【はじめに:わからなかった“この痛み”の正体】
「これ、本当にパーキンソン病の症状なのかな?」
そんなふうに思ったことが、何度もありました。
薬の切れている時間でもないような気がする。
でも、確かにからだが痛い。
重だるくて、ジーンと響くような感覚。
痛みの場所は日によって違って、
強さも、出方も、まったく同じ日はなかった。
それなのに、誰にも説明できなかった。
自分でもうまくわからなかった。
「こういう痛みがあるんです」と言い切ることすらできなくて、
からだの声を、ずっと黙らせてきた気がします。
【医師に伝えても、理解されなかった】
この痛みのことを、医師にも伝えてみたことがあります。
でも返ってきたのは、
「珍しい症状だね」
「他の病気の可能性も考えたほうがいいかもしれない」
そんな言葉でした。
たしかに、パーキンソン病と診断された時に説明された“主な症状”には、
この痛みのことは書かれていなかった。
どこか自分だけが違うような気がして、不安になりました。
「やっぱりおかしいのかな」
「わたしの感じていることは、間違ってるのかもしれない」
自分のからだの感覚に、自信が持てなくなっていきました。
誰にもわかってもらえない気がして、
気づけば、また何も言えなくなっていたのです。
【気づきは、ある日ふとやってきた】
ある日、ふと気づいたんです。
動き出すときに、ジーンとする痛みがあること。
逆に、じっとしていても、重くジワジワと響くような痛みを感じること。
そして、動いてから止まったときにも、ふっと痛みが広がるような瞬間があること。
あれ? 動いたときだけじゃない。
止まっていても、動きを終えたときにも、からだは何かを伝えてくれていたんだ。
痛む場所は、だいたい決まっている。
首、肩、背中、腰、太ももの前側、ふくらはぎ、二の腕の外側、前腕の盛り上がっているところ。
でも、日によって組み合わせが違ったり、強さが変わったりする。
そして最近、ようやく気づいたことがもうひとつある。
「痛み」の前にやってくる、“重だるさ”のような感覚。
まだはっきりとは言えないけれど、
「来るかも」と思えるような、かすかな予兆みたいなもの。
それは、記録を続けたり、毎日の変化を感じる中で、
ようやくことばになってきたものだった。
【それでも、薬が教えてくれたこと】
最初のころは、薬が効いている時間かどうかも、よくわからなかった。
痛みが出るタイミングと薬の関係が、うまくつかめなかった。
ただ、日にちを重ねるうちに、少しずつ感じるようになってきた。
あれ? ドパコールを飲んだあとは、痛みが少し楽かもしれない。
ハルロピテープを使うようになってから、前より安定しているかもしれない。
はっきりとは言えないけれど、
「薬が効いている間は、確かにちがう」
そう思える瞬間があった。
その実感が、わたしの中でひとつの答えになった。
——ああ、やっぱりこれは、パーキンソン病の症状だったんだ。
誰かに言われたわけじゃないけど、
自分のからだが、自分に教えてくれたような気がした。
【からだに、耳をすませるということ】
以前のわたしは、
このからだをどこか「やっかいな存在」だと思っていた気がします。
思うように動けない日、説明のつかない痛み、
どうにもならない不調にふりまわされて、
まるで敵みたいに感じていた。
でも、少しずつ、からだの声を「聞こう」と思えるようになってきた。
何を伝えようとしているのか、
どんなふうにサインを出してくれているのか、
耳をすませて、感じることができるようになってきた。
「わたしのからだは、味方かもしれない」
そんなふうに思えたとき、すこしだけ安心した。
いちばん近くにいるはずの存在と、
ようやく会話ができるようになってきた気がした。
【おわりに:わたしを知るための入口】
からだの声を聞こうとすることは、
わたし自身のことを、もう一度知っていく時間でもありました。
気づかないふりをしていたこと。
感じることをあきらめていた部分。
それらが、痛みや重だるさを通して、
「ちゃんとここにいるよ」と語りかけてくれていたのかもしれません。
傾聴の時間に、相手の声にそっと耳を傾けるように、
今は、わたし自身のからだにも、やさしく問いかけてみる。
からだは、わたしのいちばん近くにいて、
いつもわたしの味方でいようとしてくれていた。
そのことに気づけたとき、
ようやく、わたしはわたしとつながることができた気がします。
もし今、
ひとりで抱えなくていい気持ちを、
ひとりで抱えていると感じていたら。
答えを出すためではなく、
ただ話すための時間として、
わたしが大切にしている“整える傾聴”があります。