『正しさの檻』第十四章:焦燥と欲望の狭間で

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入社して数ヶ月、MARIはひたすら仕事に打ち込んでいた。

一年目の業務はシンプルだ。手順を覚え、指示を正確にこなし、確実にアウトプットを出す。それだけ。
だが、それが今のMARIには心地よかった。何も考えず、ただ目の前の課題を片づける日々。成果は正直だ。がんばった分だけ評価が返ってくる。
まるで、学生時代の優等生に戻ったような気分だった。

「MARI、仕事早いね」「あれ、もう終わったの?」「ほんとに一年目?」

そんな言葉が飛ぶたび、彼女の胸の奥に潜んでいた承認欲求が、じんわりと満たされていった。
同期たちがつまずく小さな山も、MARIにとってはさほど高くない。ひとつひとつ乗り越えるたびに、上司たちの視線が確かに変わっていくのを感じた。

ある日の午後、休憩室でコーヒーを口にしていたMARIの隣に、ふいに次長が腰を下ろした。

「君なら、あの人のチームに呼ばれるんじゃない?」

MARIの背筋が、わずかにこわばった。

「あの人……ですか?」

「ほら、SHIHOさんを目指してるんだろ?」

「……はい」

「すごいじゃん。君ならいけるよ」

その言葉に、MARIは少しだけ胸を張った。
けれど、同時に胸の奥に、ざらつくような違和感が湧き上がってくる。
褒められて、嬉しいはずなのに。

「次長は、あの人のこと、どう思ってるんですか?」

少しの間を置いて、次長はぽつりと答えた。

「異常だよ。成果の出し方が」

MARIは息を呑んだ。

「M&Aの時はな、買収先の従業員70人、半年で全員辞めさせて、代わりに70人採用したって話だ。二年で黒字化。オーナーにも気に入られてるし、あの人がいなきゃ、会社まわらんだろうな」

「……それって、やり方がエグくないですか?」

「エグいよ。でも、結果がすべての世界だからな」

「プレゼンも悪魔みたいに上手いしな。薬でもやってるんじゃないかって噂、あるくらい」

冗談めかして笑う次長。だが、MARIは鳥肌が立った。
やはり、あの人は常軌を逸している。だが、同時に、そんな人の近くにいたいと願う自分もいた。

「……その、彼のチームの主任って」

「アイツ?無能だよ」

無能――それはMARIの恋人だ。

「切りたいけど、異動先がないんだよな」

その言葉は、ナイフのように彼女の胸を刺した。

「……そうなんですね」

自分が愛した人が、会社の中で“不要な人間”として見なされている。
その事実が、静かに、しかし確実に心を蝕んでいく。

「何、あの人狙ってるの?」

次長がニヤつきながら言った。

「まさか」

MARIは即座に否定した。
狙っているのは、もっと上。もっと深い場所。

「……彼のチームに入るには、どうすればいいですか?」

「アピールするしかないだろ。俺からも推しておくよ」

「お願いします、次長!」

「ま、あいつ苦手だけどな」

「そこをなんとか!」

「わかったわかった」

期待と焦燥、ふたつの感情がMARIの胸の中で渦を巻く。

その夜、MARIは自宅のベッドに寝転がりながら、YouTubeを開いた。
彼が、次世代の学生たちと対談する動画を見つけたのだ。

茶色いソファに腰かけ、背後には世界地図、横には年季の入った地球儀。テーブルには無造作に置かれた『罪と罰』の本。
そこに広がっていたのは、もはや会社員の世界ではなかった。

登場する学生たちは、モデルのように整った顔立ちと、洗練された服装をしていた。
フォロワー何十万人というSNS世代。
彼らは語る――軽やかに、しかし確信に満ちた口調で。

「会社は所属する場所じゃない。価値を生むためのプラットフォームだ」
「ブランド化されたであるからこそ、会社を利用できる」
「古い文化を壊して、新しい未来を創る。それが僕たちの使命」

それは、まるで革命前夜の密談。
そしてその中心にいるのが、彼だった。

ゆったりとした微笑み、しかし決して隙を見せない眼差し。
学生たちは、その存在に惹かれ、挑発され、そして導かれていく。

彼は、未来を創ろうとしているのか。
それとも、誰にも見えない深淵へと人々を引きずり込もうとしているのか。

MARIの心は、かき乱された。

――今、動かなきゃ。

思わずスマホを手に取る。
近況を報告する、という体裁で、彼にメールを送った。
本心はただ一つ。
繋がっていたい。それだけ。

送信ボタンを押した瞬間、手の指先が冷たくなる。緊張のせいだ。

数時間後、スマホが震えた。

「継続は力なり、です」

たった一行。
それだけなのに、MARIの胸は満たされていた。

――認識されている。

まだ、彼と繋がっていられる。

けれど、継続とは、いったい何を?

努力? 仕事? 関係?
それとも、迷いそのものを?

彼は、何を伝えたかったのか。
あるいは、何も考えずに送ったのか。

一言に、MARIは意味を探しすぎていた。
気づけば、指先が震えていた。

その高揚感のまま、彼女はまた仕事へと没頭する。

――だが、その過信こそが、大きな過ちの始まりだった。

彼女の足元が静かに、確実に崩れはじめていることに、まだMARIは気づいていなかった。


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