入社して数ヶ月、MARIはひたすら仕事に打ち込んでいた。
一年目の業務はシンプルだ。手順を覚え、指示を正確にこなし、確実にアウトプットを出す。それだけ。
だが、それが今のMARIには心地よかった。何も考えず、ただ目の前の課題を片づける日々。成果は正直だ。がんばった分だけ評価が返ってくる。
まるで、学生時代の優等生に戻ったような気分だった。
「MARI、仕事早いね」「あれ、もう終わったの?」「ほんとに一年目?」
そんな言葉が飛ぶたび、彼女の胸の奥に潜んでいた承認欲求が、じんわりと満たされていった。
同期たちがつまずく小さな山も、MARIにとってはさほど高くない。ひとつひとつ乗り越えるたびに、上司たちの視線が確かに変わっていくのを感じた。
ある日の午後、休憩室でコーヒーを口にしていたMARIの隣に、ふいに次長が腰を下ろした。
「君なら、あの人のチームに呼ばれるんじゃない?」
MARIの背筋が、わずかにこわばった。
「あの人……ですか?」
「ほら、SHIHOさんを目指してるんだろ?」
「……はい」
「すごいじゃん。君ならいけるよ」
その言葉に、MARIは少しだけ胸を張った。
けれど、同時に胸の奥に、ざらつくような違和感が湧き上がってくる。
褒められて、嬉しいはずなのに。
「次長は、あの人のこと、どう思ってるんですか?」
少しの間を置いて、次長はぽつりと答えた。
「異常だよ。成果の出し方が」
MARIは息を呑んだ。
「M&Aの時はな、買収先の従業員70人、半年で全員辞めさせて、代わりに70人採用したって話だ。二年で黒字化。オーナーにも気に入られてるし、あの人がいなきゃ、会社まわらんだろうな」
「……それって、やり方がエグくないですか?」
「エグいよ。でも、結果がすべての世界だからな」
「プレゼンも悪魔みたいに上手いしな。薬でもやってるんじゃないかって噂、あるくらい」
冗談めかして笑う次長。だが、MARIは鳥肌が立った。
やはり、あの人は常軌を逸している。だが、同時に、そんな人の近くにいたいと願う自分もいた。
「……その、彼のチームの主任って」
「アイツ?無能だよ」
無能――それはMARIの恋人だ。
「切りたいけど、異動先がないんだよな」
その言葉は、ナイフのように彼女の胸を刺した。
「……そうなんですね」
自分が愛した人が、会社の中で“不要な人間”として見なされている。
その事実が、静かに、しかし確実に心を蝕んでいく。
「何、あの人狙ってるの?」
次長がニヤつきながら言った。
「まさか」
MARIは即座に否定した。
狙っているのは、もっと上。もっと深い場所。
「……彼のチームに入るには、どうすればいいですか?」
「アピールするしかないだろ。俺からも推しておくよ」
「お願いします、次長!」
「ま、あいつ苦手だけどな」
「そこをなんとか!」
「わかったわかった」
期待と焦燥、ふたつの感情がMARIの胸の中で渦を巻く。
その夜、MARIは自宅のベッドに寝転がりながら、YouTubeを開いた。
彼が、次世代の学生たちと対談する動画を見つけたのだ。
茶色いソファに腰かけ、背後には世界地図、横には年季の入った地球儀。テーブルには無造作に置かれた『罪と罰』の本。
そこに広がっていたのは、もはや会社員の世界ではなかった。
登場する学生たちは、モデルのように整った顔立ちと、洗練された服装をしていた。
フォロワー何十万人というSNS世代。
彼らは語る――軽やかに、しかし確信に満ちた口調で。
「会社は所属する場所じゃない。価値を生むためのプラットフォームだ」
「ブランド化された個であるからこそ、会社を利用できる」
「古い文化を壊して、新しい未来を創る。それが僕たちの使命」
それは、まるで革命前夜の密談。
そしてその中心にいるのが、彼だった。
ゆったりとした微笑み、しかし決して隙を見せない眼差し。
学生たちは、その存在に惹かれ、挑発され、そして導かれていく。
彼は、未来を創ろうとしているのか。
それとも、誰にも見えない深淵へと人々を引きずり込もうとしているのか。
MARIの心は、かき乱された。
――今、動かなきゃ。
思わずスマホを手に取る。
近況を報告する、という体裁で、彼にメールを送った。
本心はただ一つ。
繋がっていたい。それだけ。
送信ボタンを押した瞬間、手の指先が冷たくなる。緊張のせいだ。
数時間後、スマホが震えた。
「継続は力なり、です」
たった一行。
それだけなのに、MARIの胸は満たされていた。
――認識されている。
まだ、彼と繋がっていられる。
けれど、継続とは、いったい何を?
努力? 仕事? 関係?
それとも、迷いそのものを?
彼は、何を伝えたかったのか。
あるいは、何も考えずに送ったのか。
一言に、MARIは意味を探しすぎていた。
気づけば、指先が震えていた。
その高揚感のまま、彼女はまた仕事へと没頭する。
――だが、その過信こそが、大きな過ちの始まりだった。
彼女の足元が静かに、確実に崩れはじめていることに、まだMARIは気づいていなかった。