『正しさの檻』第十三章 変わりゆく世界の中で

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春の気配が、まだ硬い空気の中にかすかに漂っていた。

大学生活の終わりを目前に控え、MARIはふと、自分の生活の乱れに気づいた。
夜更かし、酒、無意味なSNSのやりとり。気づけば何もかもが、虚しかった。

周囲の天才たちは次のステージへと進み始めていた。
そして、あの人——彼の周りには、いつの間にか新たな“信者”たちが集まり、まるで軍隊のようにひとつの方向へと進んでいた。

焦燥。劣等感。置いて行かれる感覚。

「このままじゃダメだ」

そう心に決め、MARIは入社前の研修に全てを懸けた。
禁酒、規則正しい生活、必死のノート作成。自分を変えたい。認められたい。その一心だった。

だが、研修初日、会場に並ぶ三百人の同期を見て、彼女の決意は揺らいだ。
優秀な学生ばかり。中には、AYUMIを思わせる気品と慈愛を備えた女性たちもいた。

「あの人が、彼女たちを選んだんだ」

声をかけると、その印象は間違っていなかった。
けれど、MARIが惹かれていったのは、どこか自分に似た、背伸びしてイキってる連中だった。
特に男性たちは、彼女に近づこうとした。彼女自身も、それを拒みきれなかった。

またしても、勘違いが始まっていた。

相談という名の再会
「会いたい…」

そんな衝動に駆られたMARIは、「相談」という建前で、あの人に連絡を取った。

 ——どうした?

素っ気ない返事に、どこか安心した。
その後のメッセージには、かすかな優しさがあった。

 ——研修、頑張っているようだね。君はコツコツやればいいんだよ。

「褒められた」

ただ、それだけで、MARIの胸はいっぱいになった。
「今なら、少しは近づけるかもしれない」
そう錯覚しながら、カフェでの再会を約束した。

当日、都内の静かなカフェの窓際。
彼はコーヒーを片手にタバコをふかしていた。
その姿を見た瞬間、心臓が跳ねた。

「お久しぶりです」

「……本当に研修、頑張ってるんだな」

「はい」

「偉いな」

何気ないやり取り。
だけど、その中でMARIは少しずつ、調子に乗ってしまった。

「同期の男たちが、けっこう言い寄ってくるんです」

その瞬間、彼の指が止まり、空気が凍った。

「喜んでいるように聞こえる」

「違います。ただ、なんだか落ち着かなくて……」

「では、そういう雰囲気を纏わなければいい。馬鹿は寄ってこない」

氷のような言葉だった。

「……おっしゃる通りです」

口ではそう言いながら、MARIはまた「悲劇のヒロイン」を演じ始めている自分に気づいた。

「私は、少しは成長していますか?」

「さぁね。でも、自分を受け入れようとはしてるんじゃない?」

その言葉に、少し救われたような気がした。

「何か恩返しがしたいです」

「なら、俺を受け入れて、全て俺のために尽くしてみてください。NATSUやAYUMIのように」

頭が真っ白になった。

「……ふざけないでください!」

「ほら、無理でしょう?」

目がそう語っていた。

「私を馬鹿にしてるんですか?」

「違う。来る気がないなら、来るふりをしないでほしいだけ」

その言葉が、心を砕いた。

「あなたたちが、自分の世界を正当化してるだけでしょう!」

「君たちに俺たちのようなことができるのか? 圧倒的な成果を出せる? 他人のために自分を捨てられる?」

「それは屁理屈です!」

反論は、どこか空虚だった。

「君が天才に追いつきたいと言ったから、期待はしていた。でも、それが本心だな」

MARIは拳を握りしめた。

「もう帰るね」

彼は静かに席を立ち、振り返らずに言った。

「……頑張ってください」

残されたのは、冷めたコーヒーと、壊れそうなプライドだけだった。

愚かな執着
「なんなの……?」

悔しさと怒りで、スマホに罵倒の長文を打ち込んだ。
返信はなかった。

時間が経つにつれ、後悔が押し寄せる。

「しまった……完全に、手放してしまった」

焦って再びメッセージを送った。

 ——私はあなたを嫌いになれません。感謝しかありません。

それでも返信はなかった。

諦めきれず、主任にそれとなく尋ねた。

「次の世代、すごいらしいね。あの人、超忙しいみたいよ」

「AYUMIクラスが来てるってことですか?」

「それ以上。圧倒的にね」

——もう、自分の居場所はない。

社会人としての幕開け
入社式。

三百人の同期に囲まれて、MARIは静かに思った。

「私は、何も手に入れられなかった」

新入社員代表にも選ばれず、拍手の中で名を呼ばれることもない。
ただ、無名の一人として、社会人生活が始まった。

だけど、確かにMARIは、少しずつ「自分」と向き合い始めていた。

そしてその痛みは、彼女をほんの少しだけ、前に進めていた。
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