『正しさの檻』第十二章:選ばれない者の焦燥

記事
小説
季節はゆっくりと変わりつつあった。風の温度がわずかに軽く、乾いている。そんな中で、彼の周囲だけが急速に、そして静かに変わっていた。

AYUMIが、内定を辞退した。

その知らせが届いた日、MARIは胸の奥に針のような痛みを感じた。彼の表情は変わらなかった。まるで最初から、そうなることが決まっていたかのように。

そして間もなく、彼の専属書記だったNATSUの異動も決まった。

人が去っていく。彼のもとを離れていく。けれど彼は、何も言わない。ただ静かに、淡々と、日々の業務を続けるだけだった。

MARIには、そんな彼が理解できなかった。

理解できないというよりも——悔しかった。

食事の誘いを切り出したのは、そんな日々が何週間も続いたあとだった。

「主任、たまには彼を食事に誘ってみませんか?」

理由はひとつ。「MARIの長期インターンお疲れ様会」という名目を作ることで、彼の警戒を解きたかったのだ。

彼は滅多に誘いに乗らない。何かの「理由」がなければ、きっと今回も断られてしまう。

それでも、どうしても——どうしても、知りたかったのだ。あの痩せた頬の理由を。淡々と進み続ける心の奥を。

居酒屋のテーブルに、グラスが並ぶ。主任が軽く乾杯の音頭をとった。

「お疲れ様、MARI」

彼は、例によって酒も食事も手をつけなかった。

一口も。

それが逆に異様だった。いつもよりさらに痩せている気がした。肩に落ちたスーツが、わずかにだぶついている。

「また、新しいコンテンツを考えているんですか?」

MARIが切り出すと、彼はゆっくりと頷いた。

「天才がね、またぶっ飛んだ企画を考えてる。」

「天才……SHIHOさんですか?」

「そう。俺のプロモーション動画を作りたいって言ってる。」

それは、まるで別世界の話だった。

SHIHOの突き抜けた才能。彼のストイックな強さ。自分には、どちらもない。

——ついていけない。

その思いが、喉の奥で苦くこみ上げた。

「……世の中の2割の人たちって、どうやってそこに行くんですか?」

彼のセミナーでよく語られる「2:8の法則」。自分も2割の側に行けると、信じていた。

「2割の世界に行けばわかる。」

彼は、あっさりと言った。

「じゃあ……8割には、価値がないんですか?」

「あるんじゃない?」

タバコに火をつけるその手つきすら、無駄がなかった。

「2割の人間は8割の人間にとって、便利な仕組みを作る。経済はそれで回る。」

「……」

「でも、俺はモノじゃなくて、物語を探してる。」

一瞬、彼の目が鋭く光った。

「2割の中でも、AYUMIのような奴らと——楽園のような世界で生きたい。」

AYUMI。

またその名前だ。

胸が、じくじくと痛む。彼にとってAYUMIは、特別なのだ。

「私も2割に行きたいんです!」

思わず声が上ずった。必死だった。自分を認めてほしかった。見てほしかった。

だが、返ってきたのは冷静な声だった。

「行けばいいじゃん。」

「……考えても、わからないんです。」

「だろうね。8割の中で相対評価を始めたら、見えなくなるよ。あっちは絶対評価の世界だから。」

その言葉が、ナイフのように胸に刺さる。

「思考と行動、両方で限界突破するしかない。」

「……でも」

「『会社が好き』『誰かが好き』——それって、自分がそれを言ってる自分が好きなんじゃないの?」

その一言に、MARIは言葉を失った。

「好きなら、命懸けで証明しなよ。」

彼はまた、静かに煙を吐いた。

「そんなこと、できる人がいるんですか?」

「君が追いつきたい天才は、やってる。」

SHIHO。AYUMI。

名前を出されるまでもなく、MARIはわかっていた。自分は、そのどちらにもなれない。

「俺は別に、会社が好きとかじゃないよ。」

ぽつりと彼が言った。

「ただ、親友や、ソーニャを探してるだけだ。」

ソーニャ。罪と罰。

彼の言葉の意味が、ずしりと胸にのしかかった。

——私は、その物語の枠にすら、入れない。

涙が止まらなかった。主任の腕に崩れ落ちる。

泣いても、叫んでも——彼は、振り向かない。

AYUMIは罪と罰の世界にいる。
SHIHOは狂気の才能の中で生きている。
彼は、そのどちらかを求めている。

私は、どこにもいない。

この世界の、どこにも——

それが、何よりも苦しかった。


サービス数40万件のスキルマーケット、あなたにぴったりのサービスを探す ココナラコンテンツマーケット ノウハウ記事・テンプレート・デザイン素材はこちら