季節はゆっくりと変わりつつあった。風の温度がわずかに軽く、乾いている。そんな中で、彼の周囲だけが急速に、そして静かに変わっていた。
AYUMIが、内定を辞退した。
その知らせが届いた日、MARIは胸の奥に針のような痛みを感じた。彼の表情は変わらなかった。まるで最初から、そうなることが決まっていたかのように。
そして間もなく、彼の専属書記だったNATSUの異動も決まった。
人が去っていく。彼のもとを離れていく。けれど彼は、何も言わない。ただ静かに、淡々と、日々の業務を続けるだけだった。
MARIには、そんな彼が理解できなかった。
理解できないというよりも——悔しかった。
食事の誘いを切り出したのは、そんな日々が何週間も続いたあとだった。
「主任、たまには彼を食事に誘ってみませんか?」
理由はひとつ。「MARIの長期インターンお疲れ様会」という名目を作ることで、彼の警戒を解きたかったのだ。
彼は滅多に誘いに乗らない。何かの「理由」がなければ、きっと今回も断られてしまう。
それでも、どうしても——どうしても、知りたかったのだ。あの痩せた頬の理由を。淡々と進み続ける心の奥を。
居酒屋のテーブルに、グラスが並ぶ。主任が軽く乾杯の音頭をとった。
「お疲れ様、MARI」
彼は、例によって酒も食事も手をつけなかった。
一口も。
それが逆に異様だった。いつもよりさらに痩せている気がした。肩に落ちたスーツが、わずかにだぶついている。
「また、新しいコンテンツを考えているんですか?」
MARIが切り出すと、彼はゆっくりと頷いた。
「天才がね、またぶっ飛んだ企画を考えてる。」
「天才……SHIHOさんですか?」
「そう。俺のプロモーション動画を作りたいって言ってる。」
それは、まるで別世界の話だった。
SHIHOの突き抜けた才能。彼のストイックな強さ。自分には、どちらもない。
——ついていけない。
その思いが、喉の奥で苦くこみ上げた。
「……世の中の2割の人たちって、どうやってそこに行くんですか?」
彼のセミナーでよく語られる「2:8の法則」。自分も2割の側に行けると、信じていた。
「2割の世界に行けばわかる。」
彼は、あっさりと言った。
「じゃあ……8割には、価値がないんですか?」
「あるんじゃない?」
タバコに火をつけるその手つきすら、無駄がなかった。
「2割の人間は8割の人間にとって、便利な仕組みを作る。経済はそれで回る。」
「……」
「でも、俺はモノじゃなくて、物語を探してる。」
一瞬、彼の目が鋭く光った。
「2割の中でも、AYUMIのような奴らと——楽園のような世界で生きたい。」
AYUMI。
またその名前だ。
胸が、じくじくと痛む。彼にとってAYUMIは、特別なのだ。
「私も2割に行きたいんです!」
思わず声が上ずった。必死だった。自分を認めてほしかった。見てほしかった。
だが、返ってきたのは冷静な声だった。
「行けばいいじゃん。」
「……考えても、わからないんです。」
「だろうね。8割の中で相対評価を始めたら、見えなくなるよ。あっちは絶対評価の世界だから。」
その言葉が、ナイフのように胸に刺さる。
「思考と行動、両方で限界突破するしかない。」
「……でも」
「『会社が好き』『誰かが好き』——それって、自分がそれを言ってる自分が好きなんじゃないの?」
その一言に、MARIは言葉を失った。
「好きなら、命懸けで証明しなよ。」
彼はまた、静かに煙を吐いた。
「そんなこと、できる人がいるんですか?」
「君が追いつきたい天才は、やってる。」
SHIHO。AYUMI。
名前を出されるまでもなく、MARIはわかっていた。自分は、そのどちらにもなれない。
「俺は別に、会社が好きとかじゃないよ。」
ぽつりと彼が言った。
「ただ、親友や、ソーニャを探してるだけだ。」
ソーニャ。罪と罰。
彼の言葉の意味が、ずしりと胸にのしかかった。
——私は、その物語の枠にすら、入れない。
涙が止まらなかった。主任の腕に崩れ落ちる。
泣いても、叫んでも——彼は、振り向かない。
AYUMIは罪と罰の世界にいる。
SHIHOは狂気の才能の中で生きている。
彼は、そのどちらかを求めている。
私は、どこにもいない。
この世界の、どこにも——
それが、何よりも苦しかった。