「国語教育 混迷する改革」紅野謙介 感想

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  読んだ本の感想を少しづつ発信していこうと思います。
 これは読書感想文にしては中身が無いですし、書評と言うにはあまりにテキトーなので、どちらでもない「つぶやき」のようなものだと思って貰えれば幸いです。

 今回は「国語教育」をテーマにした新書を読みました。
 この本の論点は大きく3つあります

・ センター試験の改革と出題される問題について
・ 学習指導要領への批判
・ 国語教育とは何か?その必要性について

これらのトピックが批判的に、的確に述べられていました。

感想としては、この国の「浅はかさ」たるや相当なものだな、と思いました。

 AIとか、機械学習とか、Society5.0とか、様々な「バズワード」が世の中に飛び交っている。このことは誰もが知っています。

 しかしそれ以上に恐ろしいものはいわば、「バズ思想」と呼べるような存在です。
 例えば
「読解力より文章を力を鍛えろ」
「データリテラシーを鍛えろ」
「プログラミングをやれ」
「データサイエンスをやれ」
などの、言説です。
 これらはメディアやSNSなど、様々なところに跋扈していて、「ホリエモン」とか、「DAOGO」とかの、世間一般でいう「知識人っぽい人」によって拡散されています。
 「書く力が大事」も、このような「バズ思想」の一種と言えるでしょう。
 もちろん、データリテラシーは大切ですし、プログラミングもできたほうが良いです。しかし、何も土台のないところに、そんな応用的な知識が乗っけられるでしょうか。

 プログラミングとは、情報科学における「アルゴリズム」の表現の1つです。プログラミングで様々な物を作ることはできます。ゲームや簡単なアプリも、今や素人が10時間くらい勉強すれば、それっぽいものが作れると思います。しかし、それでは必ず行き詰まります。
 何故なら、素人が初めたプログラミングは、誰かがやっていたことのコピーでしか無いですし、そこに「アルゴリズムの構造や思想」といったものなど1ミリも含まれていないからです。プログラミングとは、「使う」ものではありません。それを使ってクリエイティブに何かを「作る」ものです。それは、情報科学やアルゴリズムといった、古典的ではあっても、確かな知識の土台の上にあります。それも無しにプログラミングなどやっても、結局大したことなどできないのです。

 「書く」ことも同じです。
 何かを書くためには、それ以前に「言葉」の膨大なストックが必要です。
 何かを主張するためには、引き金になる「思想」が必要です。
 そのどちらもないのに、何かを書こうとするなど、乾いた雑巾を絞るようなものです。
 結局「書く」ことに拘泥した教育など、誰かの書いた文章の文末を少し書き換えて、即席のオリジナリティのようなものを表現するところで終わりです。

 高校生、それも1年生で「伝えたいこと」、「主張」などを持っている人など稀です。そして、それを適切な語彙と文法を持って表現できる人などもっと稀です。
 しかし、現在進められている教育改革は、そんな「スーパー高校生」を前提にして話が進んでいます。誰がどう考えたって、うまくいくはずなど無いでしょう。

 この文章で私が一番伝えたいことは「バズ思想」に踊らされるな、ということです。
 前述したように、世の中には「生き残るために」「経済的強者」となるために、様々なことを要求されます。いや、要求されるように世論が動かされています。
 それに踊らされて国も、大学も、プログラミング教育を慌てて初め、データサイエンスを学ばせ、AIを勉強させ、てんやわんやです。もちろん時間は有限ですから、この割を食うのは伝統的な学問です。
 こういった新しい物を既存の体制に打ち込むために、「〇〇などいらない」、「〇〇など古い」といった言説が「バズ思想」とセットで現れます。これが危険だと私は思うのです。
 今残っている学問も、技術も、必要だからそこにあるのです。もちろん、世の中変えたほうが良いことなどいくらでもあります。しかし、何か新しいものを既存の体制に取り込むときは、一旦ブレーキを掛けてみるべきでしょう。
 「〇〇が言っているからプログラミングを始めよう」なんて考えていては、主体性もクソもありません。自分が学んでいる学問は、その新しい「何か」にあっさり取って代わらるようなものなのでしょうか。
 「バズ思想」はこれからも出てくるでしょう。
 時代が、社会が、個人に要求する能力や技術は、絶えることはありません。いつだって、それを初めに取り入れた人はキラキラして見えるでしょう。しかし、その裏には、今あなたが学んでいる学問が、技術が、知識が、根底にあるかもしれません。
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