母と台所2

記事
ライフスタイル
私の一番古い記憶の母が使っていた台所は、1960年代に開発された、いわゆる公団スタイルのキッチンでした。
とは言っても、当時の住まいは公団だった訳ではなく、コンクリートブロックの2軒長屋の公務員住宅でした。
寒い北海道では戦後多く建設されたコンクリートブロックで二重サッシの住宅は狭いながらも憧れの住まいだったと思われます。
間取りは1DK。深く暗かったですがお風呂もついていました。

台所はシンクを挟んで片方にコンロ、片方に調理台でステンレス製。
シンク下
はオープンな作りの、あの爆発的に流行した「公団キッチン」です。
その「公団キッチン」も当時としては憧れのキッチンだったのでしょう。
私はそれを当たり前にあるものとして見て育ちました。

小学校3年生の終わりに引っ越した先は同じ公務員住宅でも4階建の団地スタイルでした。
間取りは2DK。そしてキッチンは同じく公団スタイルの台所でした。
鉄筋コンクリートの団地に石油ストーブを焚くと真冬でも暖かく、文字通り真冬にアイスクリームの北海道です。
西洋かぶれの父はソファとダイニングセットを買い、リビングとダイニングはアメリカ的生活。
私と弟は2段ベットで寝て、両親と幼い妹はリビングを片付けて川の字で寝ていました
当時よくある中流家庭の風景でした。
思いおこせば、その頃の5年間は母に取って落ち着いて子育てが出来ていた時期だったのかもしれません。

だいたいにおいて、料理と作る母は穏やかだったように思います。
ただ、小学校の面談から帰ってきた母はいきなり血相を変えて、明日の登山遠足のおにぎりは作ってあげないから、自分で握って飲み物も自分で用意して出かけるように、と厳命した時には驚きました。
聞くところによると、同級生のある子がもう自分でおにぎりを作れることを聞いてきたらしいのです。
私は学校の調理実習はまだ先の学年で、母からおにぎりを作ることは習っていませんでした。
ただ残りご飯があると、父がものすごく硬い丸いおにぎりを何個も作っていたのを見たことがあるくらいでした。

おにぎりってどうやって作るのだろうと考えて、とても熱いご飯を塩水も付けずに握り、火傷しそうで切なくなって助けを求めようとしましたが、母はガン無視です。
両手をべとべとにしながら、やっとふたつのおにぎりを作り終えました。
ただ今になって贅沢だと思ったのは、海の幸が大好きな父の為に買ってあった、筋子入りのおにぎりでした。

大人の今では滅多なことでは筋子入りおにぎりを食べることはありません。
当時は母を恨みましたが、まぁ今になって思えば母らしい教育方法です。

サービス数40万件のスキルマーケット、あなたにぴったりのサービスを探す ココナラコンテンツマーケット ノウハウ記事・テンプレート・デザイン素材はこちら